マンダラから見た日本の宗教

2006年10月30日の授業への質問・回答


ヒンドゥー教の神であるときには、子どもを食べる神であった鬼子母神が、仏教に取り入れられることによって、こどもを守る神になったというのが意外でした。宗教が他の宗教の神を取り入れるときには、良い神が悪神となったり、取り入れられた側の宗教で、上位にいた神を下位の神として取り入れるというのが一般的だと思っていました。
異なる宗教のあいだで神々が往来することはしばしば見られますし、インドではとくに顕著です。その場合、本来の地位や役割が変わってしまうことも、めずらしいことではありません。鬼子母神の場合も、悪しき神であったものが、仏教では良い神になったという説明が、仏教の一般書などで紹介されています。しかし、私はこれは一面的な見方だと思います。むしろ、子どもの命を奪うほどの力を持っている神だからこそ、子どもの命を守ることもできるのだと考えるべきでしょう。インドではとくに天然痘の神として、このような女神が数多く信仰されています。当時の人々にとって、子どもの病気としてもっとも恐ろしいのが天然痘だったのでしょう。インドにおいては、神は「善い神」と「悪い神」とに単純に二分化することはできず、その両方の性格を持っているからこそ、信仰されているものがたくさんいます。とくにそれは民間信仰の神に多く見られます。(拙著『インド密教の仏たち』第七章「財宝の神と忿怒の神」参照)

儀礼の指図の中に「栄花物語」の記述にもあったように、香を炊いたり香水瓶を置いたりしていましたが、曼荼羅は視覚、読経は聴覚で、人間の感覚に多面的に訴えるものだったのだと感心しました。
私もそう思います。儀礼というと、一般にはしきたりにしたがった退屈な行事という印象が強いのですが、当時の密教儀礼は荘厳なパフォーマンスで、見る人の五感すべてに訴えるものだったようです。それだからこそ、もののけを引きずり出したり、死にそうな人を生き返らせたりもできたのでしょう。なお、香水瓶の中の香水は、それ自体はそれほど強いにおいは発しなかったと思います。むしろ、清めの水で、儀礼の道具や場所、人などに振りかけます。ところで、日本の密教関係の文献を見ていると、儀礼の記録が詳細にのこされていることにおどろかされます。とくに指図は、実際の儀礼の空間がどのように作られたかがわかり、儀礼を研究する上で重要な情報となります。私が専門としているインドでは、指図はもちろん、実際の儀礼の記録もまったく残っていません。インドの人たちにとって、儀礼とは一過性のもので、記録に残すようなものではなかったようです。

・『栄花物語』で御修法を行っている様子を見て、筆者が「心弱からん人はあやまりぬべき心地して、胸はしる」とあることから、お産をしようとしている女性にしてみれば、この御修法はかなり迷惑だったのではないかと思いました。
・今だったら、人が死にそうなときはなるべく静にすることが暗黙の了解のようになっていると思う。でも、平安時代はむしろもののけを払うために、騒がしくしていた、というのがおもしろいと思った。
・出産や往生のときに、大きな音や護摩をさかんに焚いたりするのは、なんだか助けたいのか、盛大に送り出してやりたいのか、よくわからない感じがする。そのような中では今の私たちからすると「心安らかに」とはほど遠い気がする。
類似のコメントが何人かの方に見られましたので、まとめて紹介しました。出産や臨終に際して行われた修法が、とても騒がしいものであったことを授業で強調したように、わたしも同感です。出産中の女性にも、臨終間際の人々にも、このような修法は、はなはだ迷惑だったのでないかと思います。しかし、それは現代の私たちのとらえ方であって、平安貴族にとっての「音の世界」は、われわれとはまったく異なっていたかもしれません。たとえば、不断経といって、昼夜を問わず続けられる読経の音は、彼らにとって日常の生活音の一部だったでしょう。そのときには単なる読経だけではなく、さまざまな楽器も演奏されます。仏教では節回しをもった独特の読経の旋律は声明(しょうみょう)と呼ばれ、天台宗や真言宗では現在でもその伝統が守られています。念仏もそのような伝統の中から生まれました。現在のように単なる題目を唱えるだけのものではなかったのです。あるいは、絵巻物で、出産をしている部屋の外で、弓の弦をはじいている男性が描かれているものがありますが、これは梓弓と言って、弦の音で悪霊やもののけを退散させるために行われました。音に関して思いつくものをいくつかあげましたが、そのような中で行われた修法の音は、けっして耳障りなものではなく、当事者に安心を与えるものだったかもしれません。われわれの基準で千年以上も前の人々の感覚をとらえてはいけないでしょう。これは視覚の世界でも同様で、授業で紹介している曼荼羅などの作品も、教室のスクリーンで見るのと、当時の人々が修法を行っている堂内などで見るのとでは、まったくその印象は異なるはずです。日文や日本史の方はご存じかもしれませんが、平安時代の声や音に関する興味深い研究が発表されています。
 阿部泰郎 2001 『聖者の推参 中世の声とヲコなるもの』名古屋大学出版会。

八字文殊曼荼羅に書いてある文字は、何と書いてあるのですか。漢字ですか。
漢字ではなく梵字です。文字の種類から悉曇(しっだん)とも言います。書いてある八文字は、八音節の真言で「オーム、ア、ド、ラ、フーム、カム、チャ、ラ」だそうです。サンスクリットです。中尊の文殊のまわりには、文殊の分身のような童子が八人並んでいて、それぞれが一文字(一音節)に対応します。

今でも安産等のための法儀等はやっているのだろうか。
安産祈願の儀礼はさかんに行われています。一般の人たちでも、戌の日を選んで神社にお参りして、祈祷してもらいます。密教寺院でも同様ですし、たとえば皇室の重要な出産に際しては、有名寺院が大規模な安産の祈祷を行います。その方法は、おそらく平安時代などに確立したものが、忠実に受け継がれているのでしょう。兵庫県宝塚市にある中山寺のように、安産祈願で有名な真言宗寺院もあります。

栄花物語がおもしろかったです。当時の生活に信仰が大きく関わっていたことがわかりました。しかし、御修法のように、多くの人や資金が必要なことは社会のどのような人々が行っていたのか疑問に思いました。貴族でもお金のある人しかできなかったのでしょうか。
多分そうでしょう。栄花物語には、修法を行ってもらうために、調度類を売却して捻出したというような記述も現れるので、僧侶たちに支払うお金は相当だったようです。それと同時に、天皇はもちろん、院、中宮、東宮、東宮妃、女御など、皇室の人たちのために行う修法には、国家予算から支出されたのではないかと思います。皇太子や親王が無事誕生するというのは、国家レベルで重要な意味を持ちます。天皇の延命長寿ももちろんです。そもそも、当時の国家予算のかなりは、宗教行事に支出されていたはずです。無駄なお金という気もしますが、それによって体制維持が図られていたのです。

一番最初に見た曼荼羅で、孔雀明王が出ていたが、インドやチベットの仏教で孔雀がポピュラーなのは、「悪食」として有名なので、何でも払うところから来たと思っていたから、雨と関連があるという話は意外だった。
孔雀は仏教の中では重要な動物のひとつです。悪食といわれるのもたしかで、とくに蛇を食べるといわれることから、毒蛇除けの力も持っていると考えられています。孔雀明王も本来、毒蛇除けの女神として信仰されていました。ガルダという想像上の鳥も蛇や龍を食べることになっていますが、そのイメージのもとには孔雀があるようです。このように、孔雀は蛇や龍の天敵になりますが、むしろこれらの動物と密接な関連があると見た方が適切でしょう。蛇も龍も性的なイメージと関わりが深く、そこから孔雀も子宝や安産のための信仰の対象となります。蛇が男性性器のシンボルと見なされるのは、世界中に認められます。龍(龍神)が雨をつかさどることも、雨の降ることが単なる自然現象ではなく、世界に生命をもたらす一種の生殖行為と見なされるからです。

栄花物語を読んで、平安の天皇や貴族たちは、あらゆる手段を講じてきたことを知り、生きる(生かされる)ためなら何でもありなんだなと思った。(もののけにしか御修法は効かないといったきまりはあるようだが)。密教の修法、陰陽道、法華経の仏教、「祓い」や「御祭り」といった神道もしくはもともと日本の信仰的なものも出てきた。それから天台と真言(仁和寺)の僧が一緒に祈祷していたが、この時代の後になると、どちらか一方から何人かの精鋭が選ばれるという形になったのでしょうか。それとも、同様にふたつの宗が一緒にやってきたのだろうか。
平安時代の密教の歴史は、朝廷や貴族との関わりが重要です。初期にはいわゆる鎮護国家の儀礼はほぼ真言宗に独占されていましたが、天台に慈恵大師良源(元三大師ともいいます)という僧侶が出た頃から、天台は権力に急接近します。道長をふくむ摂関政治の頃は、天台がもてはやされた時代です。少しくだって院政の頃になると、醍醐寺や仁和寺を中心とする真言宗がふたたび優位に立ちます。ただし、いずれの時代も、一方の宗派のみということはなく、つねに両者が朝廷や貴族と深い関わりを持っていました。栄花物語で見たように、規模の大きな修法を行うときには、両者から有力な僧侶が集められたようです。儀礼の効果を「験」(げん)といいますが、「験を競う」状況です。

数年前の陰陽師ブームもあってか、「平安時代」「もののけ」とくると、即「陰陽師」「安倍晴明」と出てきてしまうのですが、これはあくまでも現代の物語で、実際の平安時代では密教儀礼がメインであり、陰陽道はそれほどメジャーなものではなかったのでしょうか。
陰陽道はたしかに依然としてブームですし、私も関心はあるのですが、あまり詳しく調べたことがありません。平安貴族の宗教的世界において、陰陽道が重要な役割を果たしたことはたしかでしょうが、密教とどのような関係があるのかはわかりません。もののけと疫神で役割分担をしていたことは、授業で紹介しましたが、そのほかにも分業体制を取っていたでしょう。その一方で、実際の儀礼は両者で共通な要素もあるでしょうし、歴史的な背景を考えれば、密教が陰陽道に影響を与えたところも多かったと思います。陰陽師やその儀礼は絵巻物でときどき目にすることがあります。たとえば「泣不動縁起」という絵巻物には、安倍晴明が儀礼を行っている場面があり、そこには疫神の姿も描かれています。けっこうかわいいです。

小学生のときに読んだ「空海」のマンガで、空海が目隠しをして、蓮の花を持って、花を落としたら、2回とも大日如来の上に落ちたというのを思い出しました。これは曼荼羅ですか。壁に掛かっていませんが。
床の上にひろげて用いる敷曼荼羅です。インドやチベットの伝統では砂曼荼羅という形を取ります。曼荼羅の上に花を落とすのは灌頂の儀式の一部で「投華得仏」といいます。この儀礼と曼荼羅の役割については前期の授業で取り上げました。詳しくは私の『マンダラの密教儀礼』(春秋社)をお読みください。


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