マンダラから見た日本の宗教

2006年10月23日の授業への質問・回答


7という数字が王権と深い関係にあるとおっしゃっていましたが、どうしてですか。また、三段御修法の普賢延命法という字がとても気になりました。「延命」の儀式が仏教で行われたということですか。
7という数字はインドを含め、かなり広い範囲で王権と関係します。これは7が「完全」とか「全体」と密接なつながりがあるからです。『インド密教の仏たち』の中でも書いたことですが、たとえば1週間が7日であるのもその1例です。これは聖書の創世記で、神が世界を作るために7日ついやしたことと結びつけられていますが、聖書ではわざわざ7日にするために、一日はお休みの日、つまり安息日にします。ほかにも、荘子に出てくる混沌の物語で、混沌の顔に7つの穴を開けたら死んでしまったというのも、世界に秩序を与えることに通じます(穴を開けることが混沌の秩序化で、荘子はこれを嫌ったからです)。世界の創造や秩序化は、王の役割と見なされ、王権の象徴的な数として7がしばしば登場することになります。普賢延命法は平安時代の代表的な修法で、そのとおり、延命祈願のために行われました。この場合、特別な普賢の像が儀礼の場に掛けられます。基本的に、国家儀礼であろうと、個人の願望成就であろうと、修法は仏教本来のあり方とは無縁の、現世利益的な内容がほとんどです。

私は今まで「敬愛」というのは家族間や年長者にするものだと思っていた。乾闥婆が愛を司るのは知っていたが、性愛(?)につながるこの仏?は例外的だと思っていたので、すごく世俗的な面もあるんだなと驚いた。
「敬愛」ということばは現代でも用いられますし、その場合は愛情を込めて尊敬するという意味で理解されますが、密教の儀礼としてはかなり異なるニュアンスで用いられます。本来、この語に対応するサンスクリットはvas?kara?aといって、「自分の思い通りに操る」という意味です。敬愛によく似た儀礼に「鉤召」(こうちょう)というのもあって、「自分の方に引き寄せる」という意味になります。敬愛も鉤召も本来はとくに異性を対象とすることばではありませんが、そのような状況で行われたことが多かったようです。敬愛は密教儀礼の他の3種の修法、すなわち息災、増益、降伏とあわせて四修法を構成しますが、それらの起源はヴェーダ文献の中でも呪術的な内容が濃厚な『アタルヴァ・ヴェーダ』に求められます。世俗的なのはそのためです。乾闥婆はサンスクリットではガンダルヴァといい、たしかに性愛と密接な関係があります。好色でもあり、さまざまな神話が伝えられています。仏教の場合、敬愛法と関係があるのは愛染明王や孔雀明王などです。これらの仏は安産祈願にも力を発揮します。

小野仁海は雨を降らす人だとのお話でしたが、小野仁海は小野篁や小野小町の先祖ですか?小町は雨請小町とも呼ばれていますよね。請雨曼荼羅の龍王は、四海竜王ではないのですか?三人しかいないのですが・・。
小野仁海(951-1046)の小野は地名からきています。京都の山科にあり、そこに開いた随心院を活動の場としました。近くには醍醐寺や勧修寺もあります。小野は京都の地下鉄の東西線の駅の名前にもなっています。一方、小野篁(802-835)や小野小町(?-901?)の小野の姓は、小野妹子で有名な小野家に由来します。小野小町は小野篁の孫と言われ、有名な書家の小野道風も小野篁の孫になります。小町が雨請小町と呼ばれていることも知りませんでした。詳しいお話をご存じならば、教えて下さい。請雨曼荼羅の龍王は、ひとりで立っている方が輪蓋龍王で、二人の方がナンダ、ウパナンダの二龍王です。あとの二人はたいていセットで登場します。

仏頂が神格化されて仏頂尊となり、仏頂尊にもいろいろな種類が出てくるのには驚きました。仏頂の他にも神格化された仏の体の部位やものなどがあれば知りたいです。
仏頂は仏の身体的な特徴である三十二相のひとつですが、ほかの特徴が神格化されることはないようです。額の中央にある白毫(びゃくごう)は、そこから光が発するという特別な機能も持っていますが、とくに白毫菩薩とかにはなりません。仏頂は三十二相の中でもかわった存在なのでしょうね。頭の肉が盛り上がっただけなのですが・・・。仏頂尊の中に仏頂尊勝(ぶっちょうそんしょう)という仏がいます。仏頂の中でもとくにすぐれいているという意味の名前です。この仏の陀羅尼(だらに、呪文のようなもの)はとくに広く信仰され、中国、中央アジア、日本で大流行しました。

日本で密教が流行してから時代がくだるにつれて、多尊化が進んだという経緯はわかったのですが、そのときに外国の知識を(しかもあまり知られていない)、どうやって入手したのでしょうか。また、入手の前後に、知識の本来の意味が変わったりしなかったのでしょうか。
別尊曼荼羅を用いて行う修法は、経典や儀軌といった文献に規定されています。別尊曼荼羅の描き方も、そこには記されています。このような文献は空海をはじめとする多くの入唐僧らによって日本に請来されました。最先端の知識の導入に、必死だったのです。ただし、儀礼を行うための詳しい情報は、これらの文献には含まれていないこともしばしばあります。そのような情報は口伝で伝わったか、あるいは日本で創意工夫されたものもあるようです。そのときに、日本独自の解釈や方法があらわれました。儀礼の目的についても同様です。儀礼の大規模化もそのような変化のひとつとしてとらえられるでしょう。

輪と王権のイメージがどう結びついたのかが疑問です。「輪を転がす」ということはどういう意味を持つのでしょうか?輪廻思想などとも関連があるのでしょうか。
イメージやシンボルとしての輪にはいろいろな意味がありますが、王権と結びついたイメージとしては、戦車の車輪があります。インドでは王は戦車に乗って進軍し、その輪が蹂躙するところが征服地になります。また、中央から放射状にスポークがのびる輪は、太陽のイメージとも重なります。太陽の光が全世界におよぶように、王の覇権が世界全体を覆うのです。これら二つのイメージは別々ではなく、インドでは太陽神が戦車に乗って表され、そのイメージは現実の王にも重なります。なお、輪廻には「輪」という文字がありますが、もともとのことばは「サンサーラ」といって、「つねにうつろうもの」という意味です。とくに輪が回転するという意味はそこにはありません。

修法は災害を払ったり、加持祈?を行ったりするのに別尊曼荼羅を使用するとのことでした。別尊の中でも仏、菩薩、明王、天がヒエラルキーを持っていますが、修法をするときには、その修法の重要度によって、どの仏を主尊としたものを使用するかを決めたのでしょうか。もしくは息災や降伏など、その効用があれば、どの主尊でもよかったのでしょうか。初歩的なことかもしれないのですが、曼荼羅は儀礼のたびに作られたのでしょうか。
密教の仏たちにヒエラルキーがあるのは、ご指摘のとおりです。しかし、本来の地位と修法の種類とは必ずしも対応しないようです。仏たちの世界で上位に置かれるのは、狭い意味での仏、すなわち大日や阿弥陀などですが、別尊曼荼羅の中でこれらの仏がしめる割合は必ずしも高くありません(大日は両界曼荼羅の主尊なので、別尊曼荼羅にはならないのですが、一字金輪や仏眼仏母は大日と同体と見なされます)。むしろ、不動明王や愛染明王などの明王のクラスの別尊曼荼羅に豊富な種類があり、好まれたことがわかります。密教の仏の世界では底辺に位置づけられる天部の曼荼羅もいろいろあります。別尊曼荼羅を用いた儀礼の変化に多尊化をあげましたが、それとともに、それまでは知られていなかったようなかわった仏の曼荼羅が次々と登場します。「新奇な法」として、それまでにない効果が期待されたのでしょう。このような動きは、日本における密教儀礼の独特の展開として注目されます。なお、インドでは曼荼羅は儀礼のたびに作られましたが、日本では同じ曼荼羅を繰り返し使いました。別尊曼荼羅でもそれは同様で、儀礼が終われば大切にしまわれたようです。現存する別尊曼荼羅は保存のいいものが多いのですが、それはいつも掛けられていたのではなかったことが幸いしたようです。

別尊曼荼羅の多様さを見て驚かされました。別尊曼荼羅を見ていると、周囲には赤いオーラのようなものが出ているのですが、色によって仏、菩薩、明王、天などを見分けることができるのでしょうか。
明王のまわりの赤い彩色は炎を表しています。明王は忿怒形をとり、その怒りや凶暴さが炎によって強調されます。からだの色は仏の重要な特徴ですが、それだけでは仏を見分けることは難しいでしょう。表情、髪型、装身具、顔や腕の数、姿勢、持物、乗り物などが、見分けるポイントになります。

No. 2のプリントを見ると、別尊曼荼羅は「金胎両部の大曼荼羅から、特定の一尊を選び、配置されている」とあり、それならば大日経や金剛頂経にもとづくはずなのに、法華経や違ったお経の名の付いた別尊曼荼羅があるのはどうしてでしょうか。
・密教というと、護摩を焚いて加持祈?というイメージが強いけれど、それは昔のインドや現在密教が伝わっている国々でも同じなのでしょうか。それとも密教と加持祈祷というつながりは、日本固有のものでしょうか。
「金胎両部の大曼荼羅から、特定の一尊を選び、配置されている」という別尊曼荼羅の定義は、やや問題があります。別尊曼荼羅の中央の仏は、必ずしも両界曼荼羅から取り出されているわけではないからです。また、同じ仏が両界曼荼羅と別尊曼荼羅の両方に現れても、その姿は異なることもあります。むしろ、大日如来以外の仏を本尊とし、別尊法と総称される密教儀礼で用いられた曼荼羅というのが、妥当と思います。大日経や金剛頂経は別尊曼荼羅の典拠となる経典ではないのです。法華経曼荼羅は別尊曼荼羅の中では少し特別な存在です。法華経信仰は当時の平安時代において、きわめて重要な位置を占めていました。一般に密教では法華経はあまり重視されませんが、日本における独自の展開として、密教と法華経信仰が結びついています。護摩や加持祈祷と密教は、日本以外でも同様です。護摩という儀礼そのものはインドではヴェーダの時代から行われ、ヒンドゥー教に受け継がれます。密教が護摩を取り入れたのもヒンドゥー教からです。護摩は密教の中で独自の展開を遂げ、現世利益的な目的とともに、行者の悟りのような精神的な側面も伴うようになります。護摩は現代のヒンドゥー教でも、あるいはチベットやネパールの密教でも行われています。その方法は日本の護摩と驚くほどよく似ています。

一番最初に別尊曼荼羅と聞いたときは、宗教などで見られるように、本家争いのようなものや解釈の違いで対立しているのかと思った。そんなことはないのですか。
そんなことはないです。別尊曼荼羅の「別」は両界曼荼羅や大日如来に対して「別」という意味で、宗派間の違いではありません。しかし、前回もお話ししたように、別尊曼荼羅が登場した背景には、真言宗と天台宗、さらに天台宗の中の山門派と寺門派の対立があったことはたしかです。いかに朝廷や貴族に関わることができるかが、別尊曼荼羅とその修法を軸に展開したのです。

叙景曼荼羅となっているものは、素人の僕が見ても両界にならっていないとわかった。他の授業で聖地の鳥瞰図のような曼荼羅を目にしたので、いったいあれはどういうものかと思っていたけど、たぶん、叙景型から変化していったものだと思う。
おそらくそうでしょう。さらに、この先の授業で紹介する神道曼荼羅や浄土教の曼荼羅を見ると、その傾向がさらに強くなることもわかると思います。世界を鳥瞰的に見るという発想と、曼荼羅という形式で世界を表現するというのは、本来、まったく異なることでした。インドのマンダラには風景画のような方法で描かれたものはまったくありません(ただし、叙景型を広い意味でとり、簡単な景観の中で仏たちが並んでいるというだけであれば、あることはあります)。胎蔵界や金剛界を見ても、それが何かの景色を描いたものとは思えないでしょう。いずれのマンダラにおいても、いくつかの原理で世界が構成されているという発想で、それを幾何学的な構図や配置で表しています。われわれが含まれるような現実の世界の再現ではないのです。


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