マンダラから見た日本の宗教

2006年10月16日の授業への質問・回答


聞き漏らしたのだと思いますが、そもそも何で両界マンダラを取り上げているのですか。
授業では理由をはっきりとは説明していなかったかもしれません。宿題として配付した資料にも書きましたが、日本ではマンダラといえば両界曼荼羅を指すのが普通です。日本にマンダラがはじめて伝わったのは、空海が中国から帰国したときで、このときに請来したのが両界曼荼羅でした。これらのマンダラは単に重要なマンダラであったというだけではなく、ふたつでひと組としてあつかわれ、寺院内部に向かい合わせにかけられ、それを前にして儀礼が行われたり、床にひろげられる敷曼荼羅として灌頂儀礼で用いられたりしました。日本密教ではその後、今回の授業でも取り上げる別尊曼荼羅が何種類も登場しますが、これらは両界曼荼羅とは同格にはあつかわれず、一段低いマンダラと見なされます。仏の世界を表した曼荼羅とは、あくまでも両界曼荼羅のことでした。その一方で、別尊曼荼羅にはさまざまな仏が現れますが、そのかなりは両界曼荼羅と同じものです。別尊曼荼羅を生み出すための素材としても、両界曼荼羅は重要な役割を果たしました。一部の神道曼荼羅も同様です。これに対し、浄土教系のマンダラや参詣曼荼羅には両界曼荼羅の要素はほとんど見られません。後期のこの授業の全体は、日本のマンダラの歴史の中でもっとも重要で基本になる両界曼荼羅からはじめ、だんだんそれから遠ざかっていくという流れで組み立てています。その出発点が両界曼荼羅になります。なお、インドやチベットの伝統では、マンダラは両界曼荼羅だけではなく、最終的には百種類以上のマンダラが登場します。そこでは金剛界と胎蔵界がひと組にあつかわれることもありません。2種のマンダラで全体を表すという発想も、中国や日本の密教に独特です。

今日の講義の最後に紹介していた板彫の両界曼荼羅に驚きました。どのくらい珍しいものなんでしょうか。他にもありますか?
板彫の両界曼荼羅は有名なものとして高野山の金剛峯寺に4点あり、このうちのふたつは胎蔵界、金剛界のセットで、あとの2点はいずれも胎蔵界です。前者は縦の長さが30センチ弱、後者は20センチ弱ので、いずれも小さな作品ですが、そこにマンダラの仏たちがていねいに掘られています。作風やモチーフなどから、これらの作品は唐代の中国で作られ、日本に請来されたと考えられています。空海が伝えた現図系の曼荼羅とくらべると、胎蔵界に大きなちがいがあり、中国ではさまざまな形式の胎蔵界曼荼羅があったこともわかります。これらの板彫の曼荼羅が何のために作られたかはよくわかりませんが、単独の胎蔵界2点のうち、ひとつには裏側に取っ手があり、もうひとつにもかつてはあった形跡があるため、儀式の中で阿闍梨が手にして、何らかの作法を行ったと推測されています。板彫曼荼羅には京都の地蔵院に伝わる作品もあります。これは現在、京都国立博物館の常設展で展示されています。

曼荼羅というのは儀式の時に出してきて掛けられるとの話でしたが、そのときの曼荼羅というのは仏像のように拝む対象として利用されるのでしょうか。そもそも曼荼羅とは・・・?単に美術的なものだけではないのでしょうか。
密教の儀礼の特色として、儀礼を行う阿闍梨が仏そのものとなって、仏の役割を演じることがあげられます。曼荼羅はそのためのイメージ・ソースのようなものです。曼荼羅を前にして阿闍梨は密教独自の瞑想を行い、自分自身がマンダラの中央に描かれた仏であることを自覚します。仏像や仏画などは礼拝の対象としてとらえられることが一般的ですが、密教のマンダラや図像は、そのようなものとは根本的に性格が異なります。また、現代の人々は密教美術を含めこれらの作品を美術品として鑑賞することに慣れてしまっていますが、そもそも宗教美術というものは鑑賞するために作られたわけではありません。あくまでも宗教という文脈の中で、何らかの機能や目的を持って作られています。これは仏教に限らず、キリスト教やイスラム教などでも同様です。マンダラの機能については私の『マンダラの密教儀礼』を参照してください。このあたりのことが詳しく書いてあります。

胎蔵曼荼羅で釈迦が登場するのは、密教以前の伝統が残っているとおっしゃいましたが、よくわかりません。釈迦は仏になる前の仏の姿ですよね。その釈迦が金剛界になるといなくなってしまうのは不思議な感じがします。
釈迦は仏になった後も釈迦です。釈迦とは彼が属していた部族の名称で、釈迦の本来の名称はゴータマ・シダールタです(パーリ語ではゴータマ・シッダータ)。仏になる前、つまり悟りを開く前の釈迦は「菩薩」とか、「悉達多太子」などと呼ばれます。釈迦を含め、仏がどのようなものであるかは、仏教の歴史の中でつねに変化しています。密教やその前の大乗仏教の時代には、仏は釈迦だけではなく、過去にも未来にもさまざまな仏がいて、さらにこの世界とは別の世界にも、それぞれ異なる仏がいるという考え方が主流でした。そのような仏たちを統括するような、根元的な仏も出現します。日本密教では大日如来がそれに相当します。当然のことながら、この場合、釈迦も多くの仏のひとりに過ぎず、大日如来こそがいわば「真の仏」になるわけです。両界曼荼羅の中心にいるののが釈迦ではなく大日如来であるのは、このような仏の世界の構図があります。その中で、胎蔵界曼荼羅に釈迦が登場するのは、中心ではないにしろ、まだ釈迦が重要な位置を占めていた大乗仏教やその前の時代の伝統が残っていたことを示すのです。

正統系と非正統系があるというお話でしたが、非正統系はどういう経緯で出来たものなのか、よくわかりません。
日本にはじめて曼荼羅を伝えたのは空海ですが、その後、真言宗でも天台宗でも何人かの僧が中国に渡り、さまざまなマンダラを請来します。「入唐八家」とよばれる8人の入唐僧がよく知られています。とくに天台宗では、空海と同時期に遣唐使として派遣された最澄が、本格的な密教を導入することができず、密教に関しては真言宗のおくれをとったため、その後継者たちが積極的に密教の文物を中国に求めました。日本では空海請来の現図系のマンダラがもっとも権威あるマンダラでしたが、中国ではさまざまな形態や様式のマンダラが流布していたので、あらたに日本に伝えられたマンダラは、それとは異なる場合があります。それらは現図以外のマンダラとして位置づけられました。これを「非正統系」と呼んだのです。なお、当時の密教僧がマンダラの請来に異常なまでの熱意を持っていたのは、マンダラを用いた儀礼が鎮護国家のような国家的な儀礼であったことによります。マンダラとそれに関する儀礼についての情報を入手することは、国家にとってきわめて重要な意味を持ちます。それはちょうど、現代社会において、ITや軍事、医療などに関する最先端の技術を手に入れることに匹敵します。それによって国家や天皇の安泰がはかられるわけですから。そして、それを導入した密教僧や、その所属宗派は、当時の政治権力と密接な関係を持つことができます。

胎蔵界曼荼羅の如意輪観音などの周囲には、小さな像が描かれていますが、これが脇侍なのでしょうか。
脇侍(きょうじ、わきじ)は中心となる仏の左右にいる従者的なものです。菩薩が多いのですが、女尊や天、明王も脇侍になることがあります。左右に1尊ずつで、全体で3尊からなることが一般的ですが、4尊をともない全体で5尊のものなどもあります(たとえば五台山文殊)。8尊とか16尊とか、それよりも多い場合、脇侍とはいわずに眷属(けんぞく)と言ったりします。「脇に侍る」わけではありませんからです。胎蔵界曼荼羅の小さな像は「使者」と呼ばれます。これは経典の中でそのように呼ばれていることにしたがったものです。従者や眷属と、基本的には役割は同じなのですが、位はあまり高くありません。

私は富山出身なのですが、立山曼荼羅はどう見ても胎蔵界や金剛界のような仕組みになっていないのに、どうして曼荼羅と呼ぶのですか?そういえば那智のものも、立山に似ていますよね。
那智熊野参詣曼荼羅も立山曼荼羅はこの授業の最後の方で取り上げます。まさに、胎蔵界や金剛界のようにはなっていないことがポイントになります。お楽しみに。

三昧耶会の仏を描かず、物で表すという表現方法がとてもおもしろく感じられました。その物というのは、仏の持つ力や性格の抽象的な表現なのでしょうか。また、逆に物によって生まれた仏はいるのでしょうか。
シンボルなどのものによって仏を表すことについては、つぎの宿題で読んでいただく文章で、その意義などを考察しています。仏のかわりの物が、仏の持つ力や性格を表す場合もありますし、仏の姿で表したときの持物(じもつ)が用いられることも多いです。「物によって生まれた仏」という質問の意図に合致しないかもしれませんが、密教では仏の瞑想法として、このようなシンボルをはじめに瞑想して、そこから仏の姿を生み出す方法があります。


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