密教美術の世界

2006年7月13日の授業への質問・回答


 前回は講義の最終回なので、できるだけ多くの人のコメントを掲載しました。ただし、同一内容の場合や、極端に短い感想は省きました。質問への私の回答はいつもにくらべるとかなり簡略です。

仏教の仏とヒンドゥー教の神は、たくさんの共通点があるのはなぜだろうか。今回で授業が終わるのはさみしい気がする。理系の自分にとって、このような授業がなければふれることのなかった世界なので、よい経験になったし、満足している。
満足していただけて何よりです。学期のはじめのオリエンテーションのときにもお話ししましたが、おそらく受講生のほとんどのかたにとって、授業でとりあげた内容は未知のものだったと思います。半期の授業を終えて、知らない世界にふれることができてよかったという感想を持ってもらえるのが、私自身の目標でもあります。とくに理系のかたにこそ、このような分野に興味を持ってもらえるとうれしいですね。これからは文系、理系という分類はあまり意味をなさなくなるかもしれませんし。

ヒンドゥー教と仏教の違いがわからない。
肝心なことを説明していませんでしたね。ヒンドゥー教はインドで今も大多数の人々が信じている宗教ですが、宗教というよりも生活の規範や信条のようなものです。インドの宗教史の中では、正統的な位置にあります。仏教は紀元前5世紀頃に誕生して、12、13世紀頃まで続いた宗教で、どちらかといえば異端的です。

他の宗教の神を改宗させたという表現は、仏教の大きさを強調するためにあるように感じた。
仏教から見ればそうなのですが、ヒンドゥー教としてはまったく相手にしていなかったかもしれません。

タイでは仏様が頭の上にいるので、子どもなどの頭をなでてはいけないと聞いたことがあります。今日の講義で仏を支えている人々を下にしているということを言っていましたが、タイではそういった考えで、頭に仏様がいるということなのですか。
たぶん、それとは関係ないと思います。タイでは仏様がいるというよりは、聖霊のようなものが宿っているという説明だったと思います。タイをはじめ、東南アジアが、インドの宗教的な伝統の影響を強く受けた地域なのはたしかですが・・・。

星占いっていうのは、意外に世界各国、昔からあるもので、絵の中にも書かれているのは驚いた。
マンダラの外の区画に描かれている星座の神々は、インドから中国を経て伝わったもので、ヨーロッパに伝わった占星術と同じ起源を持つものです。

足の下や座に置かれているものは敵対者でないということは、説明されなければなかなかわかるものではないと思った。自分にとっては、母胎というより、殻から抜け出たように思えた。
そのイメージはよくわかります。

今までのスライドで、日本の仏像では東寺のものがけっこうあったと思います。浪人時代、東寺の近くに住んでいたので、見に行けばよかったと思いました。夏休み、京都に行くので、できたら東寺に行こうと思います。
ぜひ行ってください。京都国立博物館では「美のかけはし」という特別展をやっています。かなり贅沢に名品を展示しています。ついでにどうぞ。

今まで仏教を中心に見てきたが、最後にヒンドゥー教のスライドを見て、ヒンドゥー教もおもしろそうだと思った。
ヒンドゥー教はとてもおもしろいですよ。視点を変えれば、同じものがまったく異なるように見えるのです。

インドにはさまざまな神々が存在しているが、インド以外の国で、別の宗教の神々が共存している国は、ほとんどないのではないかと思った。
そうでもないようで、日本でも神道の神と仏教の仏が共存していますし、ヨーロッパでも土着の神とキリスト教の神がいます。

仏教の神々がヒンドゥー教の神々にささえられていると聞いて、おもしろいと思った。ある意味、仏教の神々は他の神々に依存しているようなものだと感じた。
そのとおりです。前回の授業の趣旨もそこにあります。

どちらの降三世明王も大自在天と烏摩妃を踏んでいて、上下関係は共通なんだと思った。
そうです。密教美術は忠実に受け継がれています。

最後に見た神像は、仏像よりも躍動感があり、「ありがたい感じ」は仏像よりも少ない気もしたが、「親しみやすそうな感じ」は強く、神様シールとかポスターとか作っちゃうインドのノリの源を見たように感じた。
そのとおりです。仏教美術は「静」、ヒンドゥー教美術は「動」です。インドの美術の全体を見ると、ヒンドゥー教の美術の方がヴァラエティに富んでいて、ずっとおもしろいです。

インドのことやいろいろな像の意味が聞け、関心が深まった。
よかったです。機会があればインドにも行ってみてください。

仏教はどうして、他の宗教から神々のイメージを借りてまで、仏を増やしたのだろうか。
それだけ危機感があったのでしょう。

足で踏みつけるのは敵対するものを表すことや、力の強さを表すことばかりだと思っていたけど、毘沙門天と地天のように、支え合っているものがあると知り、驚いた。
上下に位置する者たちの関係は、なかなか複雑です。

降三世明王がかっこいいと思った。敵対者でないなら、なぜ踏みつけるのか。
降三世明王を含め、五大明王はみんなかっこいいです。

最後に見たインターネットからの写真が、とてもおもしろかった。
これは私がインドで撮ってきた写真資料で、研究者はもちろん、一般の人にも閲覧可能なように公開しているものです。皆さんもぜひ見てください。順次、拡充していきます。

はじめに配られた資料の膨大な知識に、これはむずかしい講義かもなぁと戦々恐々でしたが、とてもなじみやすく、わかりやすかったです。踏みつけられているものは支えているもの、ならば外教や信者あってこそ、仏教は成り立っているのだと思う。
「なじみやすく、わかりやすい」という感想は、うれしいですね。はじめに資料を配るのは、毎回、コピーに時間を取られるのを避けるためですが、量に圧倒されるということはあまり考えていませんでした。じつは、毎年、少しずつ量を減らしていて、数年前は現在のものより2割ほどページ数も多かったのですが・・・。

マンダラに他の宗教、たとえば、ヒンドゥー教の神が動員されたことに対して、抵抗はなかったのでしょうか。
もともと仏教は外教の神を柔軟に包摂するという性質を持った宗教でした。あまり抵抗はなかったでしょう。

マンダラで周辺部に描かれたヒンドゥー教の神々が変化しないというのは、それだけ、仏教とのつながりが強いからということでしょうか。それだけ、切り離しがたいものだからこそ、わざわざ敵対者のように描いて区別しようとしたように感じました。
私もそのように理解しています。一種の仮想敵国を設定して、内部の結束や優位を示したかったのでしょう。

いろいろな仏像があるのだなぁと思った。
世の中にはほんとうにたくさんの仏像があります。

踏まれていたり、周囲に置かれているものは、一見すると支配されたり、虐げられていると思うが、そうすることによって、「支えている」とかイメージの母胎を表しているというのは、非常に新鮮な考え方だと思う。
正反対のことなのに、同じイメージがそれを表しているのがおもしろいところですね。

降三世明王はシヴァ神を踏んでいるということだが、明王ってそんなに強いのだろうか。強い弱いの問題ではないのだろうから、一宗教の最高神を足蹴にしている様は異様だ。
基本的に明王って、そんなに強いのです。仏教徒にとってはという限定付きですが。

女神が水牛を倒すシーンが、神を変えて多く使われているので、人気があるところなのかなと思いました。
ネットで紹介した寺院のことだと思いますが、あのお寺は「アンビカー寺院」という女神を本尊とする寺院で、まわりを大勢の女神で固めています。ヒンドゥー教のお寺でもかなり特殊です。

この講義はわからない単語がかなりあるので、資料を読むだけでは理解できないことがしばしばあった。しかし、仏像やマンダラを見るときの解釈を、この授業で教えてもらったことにより、これからはもう少し深く仏教美術の作品が見れるようになると思う。また哲学的な部分はとてもおもしろかった。
ぜひ、さらに詳しく仏教美術を見るようにしてください。哲学の問題も、すべての学問の基本だと思いますので、関心を持ち続けてください。

インド密教に動物の像が多いのはなぜなのか疑問に思った。動物に何か特別な力があると考えていたのだろうか。
たしかに多いですね。お寺はまるで動物園のよう?

最後に先生が言ったとおり、仏像を見たときの印象は、ずいぶんと違っていた。しかし、自分ではそこまで知識を得たり、理解できたとも思えない。いったい何が変わったのだろう。
「ずいぶん違う印象を受ける」と感じることが大切です。これからも、知識が増えれば増えるほど、同じものが違ったように見えます。見えないものが見えてくると感じられるはずです。

インド密教はさまざまな地域からの影響を受けているということを再認識した。考えてみると、インドはアジアの中央に位置し、さまざまな民族の文化が入ってきたはずだ。ヒンドゥー教の彫刻は写実的で、女性像はきれいだった。
インドにくらべれば、日本はほんとうに小さい国ですし、その位置もユーラシア大陸のはずれにしがみついているようなものです(極東というくらいですから)。自分の国が世界の中心にあるように感じるのは、日本人ばかりではありませんが、相対的な位置を知ることも大切です。アンビカー寺院の女性像は、ほんとうにきれいです。

降三世明王の下に人が踏みつけられているのは、とても刺激的であった。インターネットから取ってきた寺の写真を何枚か見たが、中には、壊れそうなものもあって、大丈夫なのかなと思った。
繰り返しになりますが、授業で紹介したネットの写真は私自身が撮影し、公開しているものです。はじめの方でお見せしたナヴァシャーカーという寺院の方は、たしかに半分ほどくずれています。インドではこのような石積みのお寺が、あちこちにたくさんあります。きれいに残っているものでも、かつては崩壊していて、修復したものもあります。

ヒンドゥー教の像の方が細かいところまで彫刻が施されているんだなと思った。マンダラの一番外側にいるものによって、中心の仏が存在するんだなと思った。
じつは、授業の主題の密教美術は、インド美術の中ではレベルが低いと見なされています。ヒンドゥー教美術を見ると、たしかに見劣りがするところもあります。

マンダラの中のヒンドゥー教の神々は、仏教の仏たちより、笑ったり、顔をしかめたりと、表情が豊かだと思った。最後のヒンドゥー教の寺院は、ほとんど日本の寺と違って、入る前から彫刻がびっしりと彫ってあって、ひとつの彫刻のように見える。
アンビカー寺院は小規模な寺院ですが、これが、有名なカジュラホなどに行くと、見上げるような巨大な寺院が、びっしりと彫刻で覆われています。圧巻ですよ。

ヒンドゥー教美術はきれいだったが、密教美術の方が力強く、印象強かった。
日本の密教美術の作品は迫力がありますね。

足の下に踏まれているものは、敵ではなく逆に上のものを支えているという解釈のしかたは、見た目では想像もつかないことだ。教科書で知ったこの解釈のしかたを、今日の授業では作品を見て思い出すことができてうれしかった。
教科書の知識を反復できてよかったです。もう一度教科書を読むと完璧です。

降三世明王に踏まれたという功徳が得られるという話に疑問を感じた。半年、授業を受けてきて、美しいだけではなく、歴史的、神話的にも奥が深い密教美術について学ぶことができてよかったと思う。
わたしもよかったと思います。機会があれば学部の授業にもどうぞ。さらに奥が深い世界が無限に広がっています。

踏みつけているのに、時には敵対、時には仲間、おもしろいなぁと思った。私は友達とけんかしたりするときや、大の仲良しだったりするときもある。それと少しにているなぁと思うと同時に、踏みつけているものも、作品の一部として、大切な役割を担う重要なものだと思った。
「仲良しだからけんかをする」というのは、たしかに一種の真理ですね。降三世明王がシヴァを踏むのも、本来、両者がとても良く似た存在だからでしょう。シヴァではなくもっとおとなしい神とかを踏んでいたとしたら、落ち着かないイメージになりそうです。

足下や像に置かれるものが、まったく逆の意味になっているのに驚いた。たしかに、作品の見方が最初とは変わったと思う。
知識が増えれば、これからも変わっていくと思います。

ヒンドゥー教の神々と仏教の神々は、密接な関係があることがわかり、また多くの妻を持つゼウス、シヴァのように、ギリシャ神話とも関係があるとQ&Aで書いてあったことから、世界中の宗教が密接に関わっており、どんな宗教でも本質はほとんど変わりないのではないかと思った。
「ほとんど変わりない」かどうかは断言できませんが、宗教には一種の普遍性があるのはたしかです。

今日の授業の最後の方に、寺院の写真を何点か見せていただきましたが、寺院は仏教が衰えたときに、かなり多くが破壊されてしまったのでしょうか。
最後にお見せしたのはヒンドゥー教の寺院です。中世の仏教や密教の寺院はほとんど残っていません。信者がいなければそのお寺は崩壊するしかありません。文化は人間が支えるものなのです。

悪いイメージが強い鬼が、神を支えているシーンはとても不思議だった。敵対していないといわれてもどうもしっくりこない。
シヴァと降三世明王は敵対しています。しかし、それがインドの神のイメージとしては極端であるというのがポイントです。

邪鬼もじつは仏を支えているというのが、今日はじめてわかった。今まで仏像のまわりはただの演出にすぎないと思っていたが、意味のあるものだったのですね。(授業全体について)新しいものの考え方や視点が学べておもしろかったです。
ぜひ、これからもいろいろな「新しいものの考え方や視点」を知ったり、身につけたりしてください。

前に見たスライドで、踏みつけられていてかわいそうだと思うこともあったけれど、ほんとうは踏みつけられているんじゃなくて、上にいるものを支えたり、上のもののおおもとだということがわかった。また、同じようにマンダラの外側にいる神は、連れてこられて仲間はずれ的な扱いをされていると思ったが、しっかりと中の者たちを支えているとわかった。
そのとおりです。違ったように見えることを体験してください。

インドで左(手、足など)が、不浄とされているのが、仏教に出てくる神々と何らかの関係があるのか疑問に思いました。
インドでは浄、不浄をきわめて厳格にとらえ、右が浄、左が不浄という観念が徹底しています。大自在天をあえて左足で踏むことに、意味があると思います。

毘沙門天の下の2匹の鬼がなんだか素敵です。
この毘沙門天像も東寺の所蔵で、ときどき展示されています。素敵な鬼を実際に見てきてください。

柱に彫られていた像の姿がさまざまでおもしろかった。逆立ちして支えているやつなんかは、遊び心が感じられた。
柱頭のガナのことですが、たしかにおもしろいですね。そのうち、このような像ばかりを集めた授業をやってみたいと思っています。

マンダラにガネーシャなどが描かれているのがびっくりでした。ヒンドゥー教から仏教が生まれたっていうのではないと思いますが、よくよく見ると、似ている(服とか)点があるなぁと思いました。はじめよりもだいぶ興味を持ってきたなぁってところで授業が終わるのがさみしいです。
私もさみしいです。でも、授業は文学部でもいろいろやっていますので、機会があればぜひどうぞ。ホームページにもいろいろな情報を載せています。

これまでお寺などに行って仏像を見ると、きれいだとかおごそかだという気持ちだけで見ていたけれど、この授業を受けてから、テレビなどで仏像や神様が出てくると、ああそいういえば、この神様はこんな性格だったとか、この仏像はあの神様のイメージを借りているんだったなぁと、より深く真剣に作品を見ることができるようになった気がしてうれしかった。この授業を終えて、あらためてお寺をめぐり、作品を眺めてみたい。
授業の内容をとても積極的に活用していただいているようで、うれしいですね。たしかに知っている仏像などがテレビや新聞に出ていると、身近な人が出ているような感じがします。ぜひいろいろな作品を実際に見るようにしてください。

神を踏みつけているのか、それとも下から支えているのか、そのちがいを判断するにはどうしたらいいですか。もし、踏みつけているのなら現代において宗教のちがいによる紛争が世界中で絶えないのと、同じような感覚を覚えた。
ちがいを判断するには、その仏や神についての知識を豊富に持つことでしょう。宗教のちがいによる紛争は、たしかに多く発生しているような気がしますが、実際は、宗教の名を借りた利権や怨念の争いです。どんな宗教も戦争をしろなんてことは説いていません(もちろんイスラム教もそうです)。怖いのは宗教なのではなく人間なのです。

今回は講義すべてを通しての感想を述べさせてもらいます。仏教の思想的、体系的な説明や、他の宗教との関連、および、宗教としての普遍性や時代による変化を、仏像という形而下的なものによって、その思想の反映を見て感じ取ることのできる講義はじつに楽しくありました。ただ、マンダラについては講義で詳しく語られたので特にはありませんが、仏像において(親しみある西洋美術かぶれなのかもしれませんが)、思想の反映や細部の技法よりも、もっと美術的に大切なもの、つまりは純粋経験としての作品のすばらしさや美しさといったような感覚が、自分にはなかったことが残念です。
じつに意欲的、能動的に授業の内容を把握してもらえてうれしいです。作品の持つ美術作品としての意義や重要性は、たしかに私の授業では十分ふれることができなかったです。これは私自身の関心にもよるのですが、作品の持つ形や美よりも、その背後の思想や意味、人々の「思い」のようなものに、惹かれるのです。美術作品としての仏像の持つ魅力は、比較的、文献がたくさんありますので、ご自身でいろいろ調べてみてください。

ガルダは乗り物だから、像はないものだと思っていた。
あります。ガルダやナンディン(シヴァの乗り物の牡牛)は、単独で作られ、寺院では本尊の前で礼拝したり、控えているように安置されます。

仏教美術だけではなく、西洋絵画や音楽においても、その作品の意味やバックグラウンドを解釈できたら、美術鑑賞を通じて、とても豊かな人生になるのではないかと思った。
確実にとても豊かな人生になります。何百年も人間が守ってきた古典的な芸術の世界を知ることで、まったく違う世界にふれることができます。

インドの密教というのは奥が深く、この講義だけではすべて理解することのできない偉大な宗教であることを知った。
偉大かどうかは、皆さん自身で考えてみてください。

いったい、何を勉強すればよいのやら。単位落としそうです。でも、一回質問が採用されたのでよしとします。
大丈夫でしょう(保証はしませんが)。質問の採用はなかなか厳しかったですか?ひょっとしたら一回も採用されていない人もいるかもしれませんが、気にしないでください。

仏教がヒンドゥー教から発展してきたというのは、なんだか不思議な感じがした。でも、よく考えてみると、キリスト教とユダヤ教の関係もそんなものだから、宗教というのは、そういう風にできあがっていくものなんだろうなと思った。
仏教はヒンドゥー教からできたわけではありませんが(順番としては、仏教の方が先です)、密教はヒンドゥー教の影響を強く受けています。すでにこの時代、ヒンドゥー教の方が圧倒的に優勢だったからです。

なぜ、仏教の神々がヒンドゥー教の神を制圧するというような神話があるのかが疑問です。手塚治虫の「ブッダ」を読んで受けたイメージとあまりにかけ離れているので。
私は手塚治虫の「ブッダ」を読んでいないのですが、たしか釈迦自身の生涯を描いたものですよね。降三世明王が現れたのは7世紀ころなので、釈迦の時代からはすでに1200年ほど経っています。同じ仏教でも中身はまったく異なるのです。

自分としてはマンダラのイメージというか見方が一番変わった。この授業を通して、いろいろ見方が変わったと思う。
見方が変わることが大事です。

武力で仏教への帰依を迫るというのは、「西遊記」の中で観世音菩薩が善財童子を帰依させるシーンでも見られましたが、やはり異様なものに思えました。授業の最後に「作品を見て『きれいだな』とか言いつつ、われわれは何も見てはいない」と先生がおっしゃったのが印象に残りました。物事を反復して考えないと、新たに始まることがないなら、私たちはお寺めぐりをしながら、ずいぶんもったいないことをしていたのだと思いました。
「もったいない」と気づくところが重要なのだと思います。


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