密教美術の世界

2006年7月6日の授業への質問・回答


シヴァとパールヴァティーの子がガネーシャというのは驚いた。象の頭の子がなぜ人の形をした親から生まれるのだろう。時間の神=死神というのは、時が経つことで死をもたらされるから成立しているのはなるほどと思った。破壊の神であるシヴァが、なぜカーリーを破壊できないのだろうか。
象頭の神ガネーシャは、もっともインドらしい神様なので、最初に紹介しました。ガネーシャはもともと単独で信仰されていたのですが、シヴァやヴィシュヌを中心に、神々の体系ができあがったときに、シヴァの子として位置づけられたのです。もちろん、ゾウの頭に付け替えたという神話も、その後の創作でしょう。シヴァとパールヴァティーとの間の子には、もう一人スカンダがいます。スカンダについては教科書の第3章で取り上げたように、本来は母神と呼ばれる女神たちと密接な関係を持っていました。中世のインドはシヴァとヴィシュヌ、そしてドゥルガーなどの女神を中心とした神々をそれぞれ最高神とする立場が、ヒンドゥー教の中に形成され、スカンダやガネーシャもそれに呑み込まれていったのです。シヴァとカーリーのどちらが破壊の神として強力であるかは、それぞれの立場によります。シヴァ派の人々はカーリーよりもパールヴァティーをシヴァの妻と見なしています。カーリーがシヴァよりも強いという考えは、カーリーを最高神とする人々が有するものです。

「創造があるから破壊ある」を、「始まりがあるから終わりがある」ととらえると仏教には永遠がないように見える。仏教にはずっと続くという考えはないのですか?今回のスライドはほんとうにつながりがあるのがわかっておもしろかったです。
「創造があるから破戒がある」は、「始まりがあるから終わりがある」とは少し違うような気がします。インドでは基本的に時間は円環をなしていて、世界の終末の後にはふたたび世界は蘇り、永遠に存在し続けるという考えの方が一般的です。仏教はむしろ、時間の存在も絶対的なものとは考えず、「一切は空(くう)」というラディカルな立場を取ります。その意味で「仏教にはずっと続く」という考えはたしかにないのですが、それはそもそも時間も存在しないという意味でそうなのです。スライドはあまりゆっくりお見せできませんでしたが、配付資料でつながりを確認してみてください。希望者にはパワーポイントのファイルも配布しています。

俯瞰図を見たとき、今まで紹介されてきたさまざまな事物が最終的にマンダラに向かっていることがわかったとき、マンダラというのは密教美術における「地図」のようなものだと感じた。あとシヴァとカーリーの絵は、見ていてとてもおもしろかった。
「マンダラが密教美術の地図」というのは、わかりやすい表現ですね。授業をまとめた図は、中心にマンダラをおいていましたが、これは授業の流れに沿って、最後にとりあげたマンダラをひとつのゴールにしたからです。べつに他のテーマ、たとえば「聖なるものの表現」とか、「生命体としての宇宙」などでもまとめることができます。皆さん自身も、それぞれの理解で俯瞰図を作ってみるといいでしょう。ものごとは、さまざまな角度から見ることができ、その都度、異なる様相を見せるはずです。

シヴァに多くの妻がいるのは、ギリシャ神話のゼウスと似ているが、ヒンドゥー教とギリシャ神話に関係があるのか。
関係があります。ゼウスに似ているのはシヴァよりもインドラ(帝釈天)です。シヴァの前身とされるヴェーダの神ルドラも、彼らと関係があるかもしれません。インドとギリシャの神話はさまざまな類似点があります。それは、いずれもインド=ヨーロッパ語族が伝えた神話で、共通の起源があるからです。さらに、「アヴェスタ」などに含まれるイランの神話や、北欧の神話なども、同系列に属するので、共通のモチーフや、よく似た性格の神が現れます。このような神話研究は、比較言語学の発展とともに現れ、かつてはさかんに行われていました。フランスのデュメジルやアメリカのエリアーデ、日本でも吉田敦彦氏などが多くの研究を発表しています。しかし、最近はあまりはやっていないようですね。

シヴァやマヒシャースラマルディニーは殺戮の神なのに、どちらも笑顔で描かれているのが少し怖かった。シヴァとパールヴァティーの絵で笑顔なのはわかるが、マヒシャースラマルディニーは殺してるシーンなのに、すごい笑顔。やっぱり笑顔の方が美人がはえるからだろうか。でも、やっぱり全体を見ると殺戮を楽しむ異常者(神?)にしか見えない。
にっこり笑って人を殺すというところが、たしかに怖いですね。マヒシャースラマルディニーの場合、もとになっている神話でも、この女神がほほえみを浮かべながら、容赦なく敵を殺戮するという描写が随所に見られます。一方のシヴァは、笑顔ばかりではなく、威嚇的であったり、忿怒をみなぎらせた表情で描かれる場合もあります。画家や彫刻家にとって、怒りに満ちた恐ろしい姿を表現する方が、笑った顔よりもむずかしいのではないかと思います。過度にそれを表現すると、怖さよりも滑稽さの方が前面に出てくるからです。

教科書の第5章に出てきた「青頸観音」として紹介されたシヴァと、今日の講義で出てきた破壊神のシヴァとは同一のものなのかどうかを疑問に思いました。
同一です。シヴァの神話の中で、世界創造の時に生じた毒を飲み、のどが青くなったというものがあるのです。しかし、教科書にも書いたように、青頸観音がなぜこのシヴァと関係があるのかはよくわかりません。

シヴァは色も青く、蛇がからだじゅうにいること、生首の首飾りなど気持ち悪いと思った。そして、シヴァはどうしてたくさん奥さんがいるんだろうと思った。黒色で、死はイメージできるが、時間はなかなかイメージできないし、女の人なのに死神なのは意外だった。
シヴァはヒンドゥー教の神々の中では、異色の存在で、その起源も複雑です。身体の色が青黒いというのは、インド土着の神のイメージがあるからでしょう。クリシュナという神も同様で、身体の色が黒い特徴があります。カーリーは正確には死神ではなく、「死をもたらす神」というのが適切でしょう(同じこと?)。インドの死神はカーリーとよく似た名前のカーラで、これについては、以前に配布した「インドの宗教における死のイメージ」の中で紹介しています。

降三世明王が人を踏んでいたり、ヤマーンタカが牛を踏んでいるのは、上に乗っているものを強く表すためですか。
仏教側からはそうなのですが、インドのイメージの伝統では必ずしも優位を表すわけではありません。これについては今回取り上げます。

ヒンドゥー教の神々は家族を構成すると聞いて、ヒンドゥー教とは家族を大切にするのかなと思った。仏教には家族という概念があまり出てこなかったが、仏教には家族を敬う考えがあるのでしょうか。
仏教は基本的に出家主義なので、家族を構成することには重きをおいていません。家族を大切にするとか敬うというのは、世俗的な倫理や気持ちなので、別に否定はしませんが、仏教の教えとして重要というわけではないでしょう。仏教の仏たち、とくに種類や数が増えた密教の仏たちは、いくつかのグループに分かれます。たとえば、観音を中心としたグループ、金剛手を中心とした「力の仏」のグループなどです。これらのグループは「部族」と呼ばれます。家族よりも範囲の広い、同族とか、一族郎党といったニュアンスの言葉です。密教の仏の世界は、仏、菩薩、女尊、明王などの階層とともに、これらの部族によってもまとめられます。ちょうど、縦軸と横軸のような関係です。

死神の話をされていたときは、資料のインドの宗教に見られる死生観、ヴァルナの話は2章、降三世明王とシヴァは7章・・・と、書いてけばきりがないほど、教科書とリンクしていて、なるほどなとニヤリとしました。もう今回が教科書の総集編のような感じがします。
教科書や配付資料をよく読んでくれているようで、うれしいです。授業は教科書に沿っては進めませんでしたが、予備知識として教科書の内容を把握していると、授業がよりよく理解できるでしょう。

授業のはじめで今までのまとめをしたが、すべての中心にマンダラが据えられていた。しかし、その重要なはずのマンダラがまだよく理解できていない。マンダラって何なんですか。
そのように思う人も多いでしょう。とりあえず、配付資料の新聞の切り抜きのところをもう一度読んでください。くわしくは私の『マンダラの密教儀礼』に書いてあります。

仏教美術がヒンドゥー教の神のイメージに影響を与えたり、逆に仏教がヒンドゥー教の神を借りてきたりと、時代の流れでそれぞれの宗教の優位が入れ替わりが起きているのだと思いました。昔、栄えていた神でも、現在のインドではほとんど忘れ去られているような神がいるのではないかと予想できます。
インドの宗教の魅力のひとつに、神々の壮大な世界があります。神話や図像、儀礼など、さまざまな要素がそこから生まれてきます。歴史の中で姿を消してしまった神も無数にあったはずです。中世インドでは、インド各地で信仰されてきたさまざまな神が、シヴァやヴィシュヌなどの特定の有力の神に統合されていきました。そのときに、名称やイメージが変えられてしまった神もたくさんいました。なお、このような文化統合を、インドの社会の特質ととらえて、「大伝等と小伝統」という概念が提唱されています。

一番最後に、仏教の神々はヒンドゥー教の神々にささえられているという話がありましたが、それを聞いて、ヒンドゥー教とはほんとうに雑多な宗教だと思いました。授業が始まる前に先生の机の前を通り過ぎるときに、高野山大学のファイルを見つけたのですが、高野山大学ってどのようなことを勉強するのですか。
高野山大学のファイルは表に大日如来などの五仏を表す梵字や、高野山大学を表すチベット語が書いてあったりして、なかなかレアなクリアーファイルです。高野山大学は私の前任校で、そこで8年間、研究、教育に従事していました。高野山真言宗を母体とする学校法人によって運営され、文学部の単一学部しかない小さな大学ですが、仏教研究や密教研究ではトップクラスのスタッフを擁しています。高野山の町そのものが標高800メートルほどで、日本で一番標高の高い大学かもしれません。高野山は一昨年、世界遺産にも登録されましたが、中世の宗教都市といった感じで、とてもいい雰囲気のところです。金沢は「歴史と伝統の町」とよく言われますが、所詮、江戸以降の歴史しかなく、高野山からくらべれば新興の町と言った印象を私は受けました。


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