密教美術の世界

2006年6月29日の授業への質問・回答


マンダラを使った儀式とは、マンダラを三次元に再現することのように思えました。とくに、即位の際に王なる仏が、つぎの代に受け継がれるという儀式は、そのように思いました。頭に注ぐ海水、すなわち塩水は羊水のようですし、その目に新たな光を与える儀式は、仏として再び「生まれる」行為を表しているようでした。
いずれのコメントもそのとおりだと思います。マンダラを前にした弟子や阿闍梨にとって、マンダラは立体的なイメージを持って出現したのでしょう。当時の文献によれば、マンダラは砂マンダラのように平面的に作ってもいいのですが、彫像などを使って立体的に作ってもいいそうです。その場合も、楼閣などの枠組みは平面的に表したと思いますが、仏が三次元で表現されているのは、さらにリアルだったでしょう。塩水と羊水を結びつける発想もいいですね。医学関係の先生から聞いた話ですが、人間の血液には塩分が含まれていますが、その濃度は地球に生物が誕生したときの「原始の海」の海水の塩分の濃度と、ほぼ同じだそうです。当時の生物は、きわめて単純な構造をしていたでしょうが、体内の水分と、外界の海水が直結していて、生物がどんどん進化していっても、その濃度のままで維持されたということだそうです。人間はその体の中に、生命が誕生したときの海をたたえているのです。

仏教は自分も神様になろうとする宗教だったんですね。仏にもいろいろあるけど、やっぱりなるのは根元仏なんですか。それだと仏がどんどん増えてしまうのではないかなと思いましたが、一体化するなら、そういう問題も起きないかなと思いました。
仏教が自分も「仏」になる宗教であるのは、キリスト教などから見るとおかしいかもしれませんが、そうなのです。釈迦はキリスト教的な神ではないのです。われわれに悟りに至る道筋を示し、それをたどることで、われわれも悟りを開く、すなわち成仏できるのです。釈迦以前にも多くの仏たちが出現したと、早くから考えられてきました。ただし、仏教の歴史の中では、仏は次第に絶対化していきます。たとえば、浄土教では阿弥陀が中心となった仏の世界が登場しますが、われわれは自らの努力で仏になるのではなく、阿弥陀の慈悲によって救済されるだけです。密教ではそのような仏の絶対化とともに、その仏との同体化も求められます。その場合の仏は法身であり(つまり根元仏)、宇宙全体となります。ですから、ご指摘通り、仏がどんどん増えることはありません。

今日の講義でマンダラの道具としての役割がわかった。マンダラを作ることは仏の世界としてコスモスを地上に再現することであり、そのマンダラを見て、菩薩や弟子が仏や阿闍梨となったことを自覚するというのは「なるほど!」と思った。マンダラの仏が中心の仏に足を向けているのも納得できた。
「なるほど!」と思ってもらえてよかったです。これまで知らなかったことにふれて、その上で納得できるというのは、なかなかの快感だと思いますが、いかがですか。

最後の方で、マンダラを壊すと言っていたところの説明を聞き逃してしまった。なぜ壊して砂を川に流すのですか。儀礼の一部なんですか。
マンダラを壊すことの説明は、ほとんどしていませんが、インドの儀礼を考える上で重要なことです。インドの儀礼空間の多くは、宇宙をかたどっています。マンダラもそのひとつです。そのため、儀礼の準備段階で、儀礼の場を作る、すなわち宇宙の創造を行います。この宇宙は儀礼の場に仮に出現しただけのものですから、儀礼が終われば不要ですし、むしろ、そのような聖なる空間が日常的に存在するのは、好ましいことではありません。何度も使えばいいのではと思うかもしれませんが、宇宙を創造すること自体が儀礼なのですから、すでに宇宙が存在していてはまずいのです。マンダラの砂を川に流すのは、川にすむナーガへの布施と言われます。古い時代から、ナーガは釈迦の聖遺物のようなものを守る役割を果たしているので、その関係で登場するのではないかと思います。

マンダラにしても仏塔にしても、宇宙につながってるが、宇宙というのはつまり真理といえる存在なのだろうかと思う。
そうです。仏教では真理を「法」といい、その法が仏そのものであるという考えから法身が登場します。古代よりインドの思想では、宇宙を支配する法則や原理のようなものが重要と考えられてきました。ウパニシャッド哲学の「ブラフマン」(梵)はその代表です。

敷曼荼羅はどこに敷くのですか。仏を描いたものの上に、何かを置くのはいいのですか。
敷曼荼羅は灌頂を行う儀礼の部屋の床の上に敷きます。それを前にして、弟子は灌頂を受けるのです。じゅうたんのようなイメージですが、その上に人が乗ったり、何かものを乗せたりはしません。これはチベットの砂マンダラも同様で、何かを乗せたら崩れてしまいます。砂マンダラを作る作法のことを「七日作壇法」といって、一週間かけて作る方法が日本にも伝えられてはいるのですが、実際は行われなかったようで、敷曼荼羅を床に広げて、あっという間にマンダラが出現という方法がとられました。これは今でもそうです。

水は智慧のシンボルだと聞いて、智慧のシンボルはたくさんあるなぁと思った。たとえばリンゴ。アダムとイヴの話で、ヘビからもらう禁断の果実は智慧の象徴。先生が使っているiMacも智慧のシンボルのリンゴを使っています。キリスト教も十字を聖なる象徴にするし、タロットが略化されたトランプのマークも、智慧や富のシンボルだった。そう考えると、人間の思想や、宗教を簡単に表すものとして、マンダラや仏塔を含めた「シンボル」は、重要な役割を担っていると思った。
智慧とシンボルについて、いろいろ書いて下さいました。そのとおりですね。シンボルについての研究はかなり人気があって、宗教学や美術史でもよく取り上げられます。世界中のシンボル辞典のようなものも何種類か出ています。密教は仏教の中でもとくにシンボルを重視します。授業で紹介している仏を表すシンボルの他にも、手で特別な形を作る印や、象徴的なことばであるマントラも、一種の象徴です。このようなシンボルは、宗教の実践において重要な役割を果たします。ストレートに意味を伝えたり、見るものに強烈なイメージを与えたりするからです。

水が智慧のイメージを持つというところがおもしろいとおもった。生きる上でもっとも必要なもので、また体にしみこむように浸透する水という存在は、身近だけどどこか神秘的なものだと思う。
以前に取り上げたストゥーパで、周囲に水があることもこれにつながります。水は生命を誕生させる源であり、灌頂とは再生の儀式でもあるからです。

灌頂は頭に水を注ぐということを聞いて、キリスト教における洗礼と方法が酷似していると思った。儀式の意図は異なるけれど、水は重要な位置にあるのだろう。
私も洗礼と灌頂は似ていると思います。洗礼はキリスト教がはじめたのではなく、ユダヤ教徒が早くから行ってきたイニシェーションだったそうです。キリスト自身も、若いころに洗礼を受けています。洗礼を行ったのはヨハネですが、キリストの弟子にもヨハネがいるので、区別して洗礼者ヨハネといいます。なお、このヨハネが後にサロメという女性の一種のわがままで、首を切られます。クリムトの絵やリヒャルト=シュトラウスのオペラなどでも有名です。

自家のある町では毎年「甘茶祭り」というのがあって、仏像のようなものに甘茶をかける風習(もしかして全国的なのか)があるんですが、これも灌頂と何か関わりがあるのかと思った。関係ないけど、甘茶っておいしいですね。
これは一般には「花祭り」といって、釈迦の誕生を祝う儀式です。日本中でかなり広く分布しているはずです。伝統的には「灌仏会」(かんぶつえ)ともいって、その場合、灌頂と名称もよく一致します。灌仏盤という金属製のたらいのような中に、天地を指さす子どもの姿の釈迦(誕生仏といいます)を置き、上から甘茶をかけるのが一般的な方法です。甘茶の接待もあるのがふつうですね。私も以前、甘茶を飲んだことがあります。たしかにおいしいですが、少し甘すぎたような記憶もあります。資料の文章にあるように、誕生直後の釈迦が龍王から灌水を受けたことを、灌頂のモデルとして密教ではとらえられています。灌頂そのものも仏として生まれ変わることなので、図式としても釈迦の誕生は灌頂に一致します。



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