密教美術の世界

2006年6月15日の授業への質問・回答


宇宙そのものが神であり、因であり、果でもあるというところがよくわからなかった。宇宙が神であるならば、釈迦は宇宙であるということになるのか。宇宙は見えるものではなく、われわれが考える宇宙は虚像でしかないのか。
すべてのものは因と果の関係で成り立っているという考えは、インドではかなり重要です。仏教の縁起説もそうです。十二因縁とも呼ばれ、われわれの存在を因果関係で説明します。授業で紹介した「ブラフマン(梵=大宇宙)は、質糧因であり、動力因でもあり、果としても顕現する」というのは、仏教ではなく、ヴェーダーンタというインドの正統的な学派の見解です。すべてのものに神が存在するという「汎神論」とは異なり、世界を一元的な原理によって説明します。この原理を人格的な神とみなすと、「宇宙は神そのものである」となり、その神を大日如来と呼べば、密教になります。「釈迦は宇宙である」と説く経典はありませんが、『法華経』などの大乗経典では、釈迦は歴史上の人物ではなく、宇宙の始まりから終わりまで永遠に存在し続ける仏であるという考え方が登場します。これを「久遠実成」(くおんじつじょう)の釈迦と言います。「宇宙は見えるものではなく、虚像でしかない」と書かれていることの根拠はよくわかりませんが、大乗仏教で「空」(くう)と呼ぶのが、それに近いかもしれません。すべてのものは存在しないという考え方です。ヴェーダーンタ学派にもこれとよく似た立場があり、世界を幻影(マーヤー)と呼んで、実在しないとみなします。くわしくは立川武蔵『はじめてのインド哲学』(講談社現代新書)を参照してください。授業のアイデアもここからいろいろ借りています。

アポトーシスの話で、身体の中のそういう何かが消滅することで、何かが形成されていくというのを、世界全体に拡大して考えると、「私」という人間も、この世界の中で消えるけれども、またその後に生まれるもの、消滅していくものとがあって、その連続で世界というものが形づくられていくのかなと、自分なりに考えてみました。
私もそのように考えて、アポトーシスの例を出しました。身体の器官の形成にアポトーシスという一種の自然死が必要であるとすると、われわれ生物は、誕生したときから、というより、受精卵として発生したときから、すでに死を体験していることになります。もうひとつ重要なこととして、生物は生物からしか生まれないということです。これは至極あたりまえのことなのですが、われわれ生物をどんどんさかのぼっていくと、地球上の生物の誕生に至るはずですが、それがどこかはわかりません。ある日突然、物質から生命が生まれたわけではなく、その境界はあいまいです。むしろ、物質と生命とを明確に分けること自体がまちがっているのかもしれません。宇宙をひとつのまとまりと考え、その存在に気づき、われわれ自身もその一部であることをたしかに感じることを、多くの宗教が説いています。そして、そこから魂や生命は永遠であるということを主張する宗教も多く見られます。これは正しいとか正しくないとかという問題ではなく、人間の思考パターンとして、普遍的なのでしょう。

宇宙というのは因でもあり、果でもあるというのはなるほどと思った。けど、宇宙は広がり続けていると聞くが、広がるというのは宇宙の外にもある空間があって、その空間こそが因でもあって、果でもあるのではないかと思った。
私は現代の宇宙論についてはよくわかりませんが、広がり続ける宇宙の外には、われわれが存在するような空間は想定されていないのではないのでしょうか。時間も同様だと思います。インドの思想の場合、宇宙の外には神の存在は立てず、宇宙そのものを神やブラフマンという原理と見なす方が一般的でした。

宇宙が卵という考えは、他の講義ででも習いましたが、おもしろい考えだと思いました。現在も宇宙は膨張し続けているらしいですが、卵が成長していくのと同じような気がします。成長し終えたら、宇宙の卵はどうなるんでしょうね。
どうなるんでしょうね。宇宙の場合、成長という考えがおそらく当てはまらず、つねに変化し続け、そこに死や再生を人間が認めているだけという気がします。「宇宙は卵である」というのは、仏塔のシンボリズムを理解するのでよく用いるのですが、別に卵ではなくても、生命体とか、生命そのものとかでもいいと思います。ちなみに手塚治虫はそれを「火の鳥」にしました。

自分も「蓮」と聞くと、『蜘蛛の糸』の仏様を連想します。天国にある池が地獄につながっているというのは、どうしてだろうかと思った。天国と地獄は紙一重なのだろうか。それとも、ただ釈迦が地獄を観察できるからだろうか。自分は天国と地獄はあまり大差のないところではないかと思っています。
『蜘蛛の糸』はみんな一度は読んでいる話なので、知っていると思って、例の文章を書くときに話の枕に使いましたが、私はあまり好きではありません。だいたい、蜘蛛の糸のような頼りないもので救うということ自体、釈迦がカンタカを試そうとしているようで、いやですね。誰だって、自分の下から登ってくるのがいたら、独り占めしようとするでしょう。芥川はこのような人間の哀しや卑小さを、露骨に示すのが得意です。そこには突き放したような冷たさしかなく、救いがありません。それはともかく、天国(この場合は極楽)と地獄の距離は、インドではかなり離れています。それに対し、日本ではイメージの上でも地獄と極楽は急接近します。六道絵や地獄絵などの絵画作品でそれは確認できます。これについては、最近、私もまとまった文章を書きました。活字になったら紹介しましょう。

「水は努力した」とか「水は苦行した」とかありますが、水は生きていると考えられていたのですか。
そのとおりです。インドでは水は生きているのです。とくに神話的な世界の水や、天上世界にある水は、生命ある水としてとらえられています。これは言葉からも言えることで、インドの言葉を含むインド・ヨーロッパ語族の言語には、水を表す語に二系統あり、ひとつが生命ある水で、もうひとつが物質として水です。ラテン語で水を「アクア」というのはよく知られていますが(アクアラングやアクエリアスはその派生語)、この語も「命ある水」の系統です。水と同様、火にも生命ある火と物質としての火の二種がありました。ちなみに英語のfireは物質としての火の系統です。

女性は水である。インド人の考えは共感できます。水は生命を生み出す。故に子供を産める女性は水であるという価値観、生命の連鎖を感じます。
私もそう思います。ちなみに、生物学的には女性の方が自然というか、よくできているそうです。もともと、生物というのは種の保存が最も重要な役割なので、実際に次世代の生命を生み出す女性の方が、男性よりもしっかりと作られていてます。オスよりもメスの方が大きい生物もたくさんいますし、メスの方が長寿です。人間も含め、オスとメスがいる場合、メスとして発生したものを、成長の過程でむりやりオスとして変えてしまうそうです。オスというのは、有性生殖をするために生み出された「不自然な存在」なのです。

インドの龍は人をイメージして作られたこともあって、今まで思っていた龍とは全然違って驚いた。宇宙はあらためてとても広く、多くの仏が存在するなと思った。仏塔は宇宙であるという考えには、とても驚いた。不思議だと思った。
龍のイメージはインドと中国・日本では大きく異なります。インドにも全身が蛇のような龍もいたようですが、少なくとも仏教美術に現れる龍(ナーガ)は、人の形をして、頭の後ろに蛇をたくさんつけている姿をしています。どこで龍の形が変わったかは、私もよくわかりません。龍は東南アジアにもいますし、チベットなどのヒマラヤ地域にもいます(もちろん実在ということではなく、神話的存在として)。宇宙に多くの仏が存在するというのは、なかなか理解しづらいのですが、大乗仏教や密教の仏陀観や世界観の前提となっています。とりあえず、そのようにイメージしてみてください。

この授業を受けている生徒の多くが理系だなんてはじめて知りました。私も文学部への転学部を考えているのですが、何が理系学部から、インド美術への転換へとむかさせたのでしょうか。ストゥーパの形が、水の中に浮かぶ卵のイメージというのはおもしろいですね。当時の人々は、胎児が羊水の中につかっているということを知っていなかったかもしれませんが。
もちろん、ほとんどが理系の方というわけではありません。どの学部にもまんべんなくまたがっています。割合としては、文系学部よりも理系学部の人が多いということです。私としては、文系でも理系でもかまいません。むしろ、理系の方は、専門に進めばこのような内容の授業はほとんどないと思いますので、ぜひこの機会に、このような世界があることも知っておいてほしいと思います。常識にとらわれず、柔軟な思考をすることは、どんな分野でも重要です。文系の方は、文学部以外でも、私の授業は選択の科目や教職の科目になっています。私自身は一応文学部の教員なので、文系なのですが、数学や生物学は好きですし、着想のヒントとなります。また、どんな分野でもそうですが、論文を書くときには論理的な思考や表現が求められます。文学部だからといって、論文がエッセイや感想文というわけにはいかないのです。なお、転学部は学生に認められた権利ですので、条件さえ満たせば、どうぞ利用してください。文学部でも歓迎します。詳しくは所属学部の学務係に聞いてみてください。最後の、羊水については、もちろん、当時の人たちだって、羊水の存在は知っていたでしょう。出産するときには破水しますし、流産や、場合によっては妊娠中の事故や病気などからも、胎児が母親の胎内でどのような状態にあるのかは、わかるでしょう。


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