密教美術の世界

2006年6月8日の授業への質問・回答


「私」の範囲とはとてもあいまいなものなのだと思った。自分の考えでは、「私」というのは、誰か他の人が意識してくれない限り、いないのと同じだと思うので、「私」の範囲は「私」を意識してくれるまわりの人も含んでいるのではないかなと思う。
先週の授業のテーマは、「私と宇宙」でした。そして、隠れたテーマが「生命」です(これは今回の授業にも関連します)。「自己とは何か」「私とは何か」という問題提起をしましたが、「なるほどと思った」「わからなくなった」「考えたこともなかった」というような感想が多くありました。もちろん、そんなに簡単にわかる問題ではありませんが、これまでの学校教育では、あまり取り上げられなかった問題なので、新鮮に感じたのではないでしょうか。このような問題には正しい答えや結論はありません。いろいろ考えることが大事なのです。その中で、「誰か他の人が意識しているから私がある」というコメントは、なかなかするどいと思いました。私はこのテーマを授業で取り上げるとき、導入として、ある少女のエピソードを使うことがあります。13歳まで親からもまったく無視されて、ひとつの部屋に閉じこめられて育った少女で、他人との接触も皆無でした(ひどい幼児虐待です)。その少女は助け出された後、専門家から教育を受けたのですが、自分と他人の区別が、どうしてもつかなかったそうです。他人のいない世界で成長した少女には、自分を自分としてとらえることができなかったのです。自分しか存在しない世界には、自分さえもいないのです。

脳自体では私だとは思えないというのは、脳自身が肉体と精神をつなぐ唯一のプラグであるだけだからだと思う。つまり、精神、脳、肉体の三つがそろって、はじめて自分自身として認識できるのだと思う。だから、脳が死ねば、精神と肉体がつながらなくなるから、自分を感じることができなくなるのだと思う。ちなみに、人が死んだら体重が21グラム減るって聞きました。その21グラムは魂(精神)の重さだそうです。
そのように考えることもできますね。自分のアイディアを示してくれたのは、とてもいいことだと思います。この考えにも、反論することは可能です。脳、精神、肉体という3つのグループに分けるということ自体、脳に何らかの優位を与えていることになります。これは前回の授業の「私の最後の砦」を別の言葉で表現しただけなのかもしれません。肉体と脳をわけるということにも、納得できない人も出てくるでしょう。むしろ、医学的には脳も肉体の一部と見た方が自然だと思います。また、脳と、その他の中枢や神経との境界はどこにあるのでしょう。というように、いろいろご自分でも検証してみてください。なお、前回の「私はどこにあるのか」という問題に対するひとつの答えは、精神を立てれば、一応解決します。肉体とは別に精神とか魂があるとすれば、肉体の範囲で答える必要がないのです。これを心身二元論と言います(ヨーロッパの思想ではこちらの方が主流です)。肉体が死んでも霊魂が残って、生まれ変わるという考えは、これにもとづきます。最後の21グラム説は、少しまゆつばという気がします。

三千大千世界の三千ってどういう意味?
千の三乗という意味です。ひとつの「大千世界」には小世界が千の三乗個入っています。先週の授業のインドの宇宙論は、きわめて幾何学的、数学的、規則的であることが、ポイントです。細かい構造や数字にはそれほどこだわらなくてもいいでしょう(わかれば、納得できますし、なかなかおもしろい世界です)。

一見、蓮で無限の世界を表すなんて、変できわめて宗教的だと現代では思いがちだけれど、科学の力をもってしても、宇宙は解明されておらず、謎だらけで、まして、私は自分の目で宇宙の様子を見たわけではないので、そういう意味で、今も昔もたいして変わらないのだと思った。
インドの宇宙観は荒唐無稽なものですが、どんな宇宙観も、それを生み出した人々の世界のとらえ方を示すものとして重要です。現代の宇宙のイメージも同様でしょう。「自分の目で見たわけではない」ことに気づくことも大切です。それは学問一般に通じることで、あたりまえとか、常識と思われることでも、自分の頭でもう一度考え直すと、違った見方が可能になることがしばしばあります。

「私」の境界をあらためて考えてみると、よく分からなくなった。たとえば、身体の一部がつながった奇形児の双子を考えてみる。二人の身体はつながっているわけだから、身体を「私」の境界とすることはむずかしい。また、二重人格の人を考えてみる。たしかなことは言えないけれど、「私」ともうひとつの人格はあきらかに違うと思う。だから「私」の境界というのは、「人格」なのだろうかと思った。
取り上げているのは、肉体を自己の境界とすることへの疑問として、わかりやすい例ですね。人格という言葉も定義がむずかしいです。結局、「私」ということと同じような気もします。自己認識とか、自己等覚という言葉もあります。私が確固としたものではないことは、「我を忘れる」とか「自分が信じられない」とか、いろいろな表現があることからも分かりますし、お酒とかドラッグとか、あるいは事故や病気による脳の損傷で、私というものは、とても簡単に失われるものでもあります。「私」というものが意識できるのは、自然界の奇跡のようなものかもしれません。ミミズやゴキブリには、おそらく「私」という意識はないでしょう。イヌやネコでもあぶないかも。せいぜい、チンパンジーぐらいからかもしれません(このあたりのことは生物学や心理学にくわしい人はご存じでしょう)。

天が住んでいるから「天」というのには驚いた。「私」というものがどこまでなのかということですが、脳が脳だけで、自分というものを考えることができるなら、脳を「私」として見なせるのだろうか。哲学のようだった。神は死なないものだと思っていたが、しっかり死んで生き返る輪廻を回るのは意外だった。三千大千世界ってお経の中にありませんでしたか。
そうです。先週の授業の内容は哲学です(宗教学と哲学はとても近い関係にあります)。神については、同様な疑問が質問によくあります。キリスト教やイスラム教の神であれば、永遠不滅ですが、インドの仏教徒にとって、神(天)もわれわれと同じ輪廻の世界にいます。そのため、死ねば別の世界か、あるいはまた天として生まれ変わります。ただし、インドでも、このような神とは別のレベルの、絶対的で唯一の存在としての神を立てることもしばしばあります。ヒンドゥー教のシヴァやヴィシュヌなどがそれです。仏教でも、これから紹介する法身としての大日如来などは、人格神に限りなく近いでしょう。マンダラの中心にいるのも、このような最高存在としての仏です。「三千大千世界」は大乗仏教の経典にしばしば登場します。『法華経』もそうですが、説法や仏の活動の舞台として、全宇宙が現れます。それを指す言葉です。

世界の滅と再生に仏は関わっているのでしょうか。また、世界が滅ぶときに、その世界に存在する生物はどうなるのでしょうか。
関わっているとも、関わっていないとも言えます。世界(宇宙)はそれ自体がサイクルを持っているので、仏がとくに働きかけをしなくても、滅んだり、生じたりします(生き物のようですが、これが今回の授業のポイントにもなります)。しかし、このようなサイクル自体が、仏の定めたものとか、仏のあらわれとして理解されることもあります。その場合、仏が関わってきます。あるいは世界が仏そのものになります。世界が滅ぶときには、その世界の生物はすべて死滅するでしょう。でも、四禅から上は滅びないので、一部の天は生き延びます。また、仏はこのような流転する世界からは超越しているので、世界の滅亡の影響を受けることはありません。

人間の百年が天ではたった一日となってしまうなんて。自分は天から見れば一日たたないで死んでしまうような、ちっぽけな存在だなぁと思った。でも、仏が人間と同じような寿命や、人間以下の寿命だったら、尊崇する価値があるかどうかも疑問です。
仏は輪廻から超越しているので、生まれるとか死ぬとか、生じるとか滅するとかはありません(仏教の立場からは)。天を上昇すればするほど、時間がゆっくりと流れるというのは、何となく、現代人でも理解できるような気がします。われわれの生命の長さにくらべ、星や宇宙の寿命などは、まったく異なるスパンで測られるようなものでしょう。逆に、人間から見れば、小さな生き物や微生物の寿命は、やはり同じように、信じられないほど短いです。『ゾウの時間・ネズミの時間』(中公新書)という生物学の本がありますが、それによると、寿命は絶対的な長さでくらべると異なるが、心臓の鼓動の数からくらべると、生物のちがいにかかわらず、ほぼ一定だそうです。寿命の短い生物でも、その長さは、寿命の長い生物と同じように感じられるのかもしれません。この論理でいえば、われわれの生命も、星の寿命も、モノサシが違うだけで、同じようなものになります(ほんとうかどうかは知りません)

お経の訳をはじめて読んだ。今までの経験から、お経は聞いていても内容がわからないし、漢字が並んでいて、堅苦しいものだと思っていた。でも、訳を読んだら、ストーリー性があって、驚いた。単純なことでも、同じような言葉を言い換えたりすることで、むずかしく感じさせているのだと思った。
お経についての概念が変わったようで、よかったです。実際、お経には想像もつかないほど多くの種類や数がありますし、その内容もとても豊かです。ある仏教学者が書いていますが、われわれの行動や思考で、お経に書かれていないものはないそうです。お経の現代語への翻訳はたくさん出ています。たとえば、中央公論社から「大乗仏典」というシリーズが出ていて、簡単に手に入ります。岩波文庫にも重要な経典の翻訳が多く含まれていますし、なかでも『ブッダのことば』などはロングセラーです。これは初期の経典のひとつである『スッタニパータ』の翻訳で、大乗経典にはない素朴でわかりやすいことばが並んでいます。お釈迦さんが近所のおじさん程度に感じられます。一度、手に取ってみてください。

大仏が宇宙ならば、大仏殿は何なのですか。
宇宙の家でしょうね。ちなみに、宗教学的には家も宇宙を表します。


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