密教美術の世界

2006年5月25日の授業への質問・回答


釈迦や弥勒に性格などの細かい設定はあるんですか。人の形を信仰するようにも、曼荼羅にあるシンボル化されたものの方がわかりやすくて信仰しやすいような気がします。
仏の性格というのはあまり考えたことがないので、よくわかりません。「悪い性格の弥勒」とか「暗い性格の文殊」とかいうことはありません。彼らは皆、広い意味では仏なのですから、慈悲深く、智慧にあふれたすぐれた性格の持ち主でしょう。先週の授業では、仏を人工的に作るというような話をしたので、あとから性格を与えることも可能なような印象を持ったかもしれませんが、基本的に仏というのは人々の長い信仰の歴史の中で形成されたものですから、簡単にその性格を足したり引いたりできるものではないのです。その中で、密教の経典では、それまでのこのような伝統を逸脱するかのように、新たな仏を次々と生み出しました。そのため、イメージが追いつかなかったことは授業でも紹介しましたが、性格も同様でしょう。仏のイメージもしばしばその仏の役割や性格に結びついています。密教の仏にほとんど物語や神話がないことも、これと同じ理由です。なお、曼荼羅の中のシンボルの方が信仰しやすいというのは、人によって異なると思います。イメージが画一化していく中で、相互の仏を区別するためには有効だったでしょう。

細かい部分にまで仏が描かれているマンダラがあって驚いた。マンダラの中心に位置している仏は、いずれのマンダラでも共通しているのですか。
マンダラはたいてい細かいところまで仏が描かれています。チベットではそれを砂で作ったりするので驚きです(これはもう少し先の授業で紹介します)。マンダラの中心に位置しているのは、日本の金剛界と胎蔵界という代表的なマンダラの場合、大日如来です。しかし、それ以外にも釈迦や阿弥陀、弥勒、あるいは密教のその他の仏を中心とするマンダラもあります。これらは別尊曼荼羅と呼ばれます。インドやチベットではさらに多くの種類が生まれ、そこでは大日如来が中心にいるマンダラの方が圧倒的に少ないです。新しい経典ができると、登場する仏たちの顔ぶれもがらっと変わり、その経典で最も重要な位置を占める仏がマンダラの中心を占めます。そのため、チベットのマンダラの中心の仏の名前は、ほとんど日本では知られていない仏たちです。

仏の画一化は、あまりに多くなりすぎた仏を、すべて表すのに使われたように感じた。チベットの十忿怒尊は、ぱっと見、スタンプを使って同じものに、名前だけ変えたように見えた。このようなもので、他の人にわかるのだろうか。
たぶんわからないでしょう。私もわかりません。下に書いてある名前で区別します。細かいところまで観察すれば、持ち物が少し違うので、それを文献の記述(持ち物が何であるか規定されてます)を参照して、区別することもできますが、かなり手間がかかります。チベットではこのような画一化した仏の図像集がいくつもありますが、その起源はインドにまでさかのぼります。何百、何千という仏を作り出すには、これが最も効率がいいのです。なお、スライドで紹介した五百尊図像集というのは、版画でできています。同じような図柄ではないところも、スタンプを押したような感じがします。十忿怒尊については、以前、論文を書いたことがありますので、興味がある方は読んでみてください。
森 雅秀 1991b 「十忿怒尊のイメージをめぐる考察」『仏教の受容と変容 3 チベット・ネパール編』(立川武蔵編) 佼成出版社、pp. 293-324。

イメージの画一化は詰まるところ、偶像のある意味での完成、言い換えるなら象徴の象徴化につながる。哲学や芸術など、多くの文化に言えることだが、ある外形の構造的な完成は、それ自体が普遍的な性質を持つものとして扱われるようになるのに加え、ある意味、古典的かつそれにより生きている体系と見られなくなる。これの打開策は多くの場合、体系の破壊やそれに準ずるようなコペルニクス的転回であり、このため当時の仏教にはその体系的安定とともに、時代との摩擦による行き詰まりが生じ始めていたと思う。
途中、少し意味がわかりにくいところがありますが、主張していることはおおむね納得できます。要約すると、システムが安定すると、一種の停滞が起こり、その刷新がつねに求められるということでしょうか。たしかにそのようなこともあるでしょう。イメージの画一化は一種のシステムの安定ですが、発展性がなくなるという否定的な側面もたしかにあります。しかし、その一方で、安定することによって、生命力を維持するということもあります。実際、インドだけでも密教の時代は数百年続きましたし、日本やチベットではそれが現在に至るまで残っています。

イメージの画一化、各尊固有のシンボルを設定することは、八相図のそれが省略されていったものにも近いところがあるように思った。
そのとおりです。伝統的な説話図が礼拝像に転換していく過程で、説話的な要素がしだいに省略され、最も基本的なシンボルのみが残ったことも、一種のイメージの画一化と呼ぶことができます。これは偶然の一致ではなく、この時代の仏教美術全体が、同じ方向に進んでいったことを表すのでしょう。

最後に先生がおっしゃった「人間が仏を動かす」ということが、いまいちピンときませんでした。
これについて疑問を感じた方が、質問のカードを見ていたら多かったです。たしかに、中途半端な説明だったので、わからなかったと思います。ひとつは、儀礼との関係で、マンダラを用いた儀礼では、仏をマンダラに導き、そこにとどめるという作法があります。その場合、仏をコントロールする必要があるのです。これについては、マンダラのところで取り上げます。授業ではあまり説明できないと思いますが、密教独自の瞑想法も関係があります。密教では仏を目の前に出現させ、これに礼拝や供養を行ったり、自分とその仏が一体となる瞑想法が盛んに行われました。そこでは、仏を自在に操る能力が求められます。また、その場合、シンボルから仏を生み出すという手続きをとりますが、これも仏がシンボルに還元されているから可能なのです。

マンダラはあんなにも多くの仏がいても、仏がよく似ていて、全体的に作品としてまとまっているから、こんなにきれいなんだと思うけれど、多様化してひとつひとつの仏の個性が薄くなってしまうのは残念だ。それでも、八大菩薩の文殊のように、作品のまとまりを少し壊してでも、古くからの自身のイメージを持ち続けるものもいるのですごいと思った。逆に、いくつかの仏のイメージをひとつの仏に集めたりすることはなかったのですか。
八大菩薩は伝統的な菩薩を集めたグループなので、文殊をはじめ、個性が残っている仏が比較的多い方です。後世のマンダラに出てくる人工的な仏のグループは、ほとんど個性を失っています。いくつかの仏のイメージをひとつの仏に集めたというのは、あまり思いつきませんが、特定の仏の特徴が、グループ全体で共有されるようになることはしばしばあります。

今日学んだ内容の「シンボルを設定することで、大量の仏を生む」は、教科書の内容と同じであり、教科書のおかげで理解しやすかった。教科書をもう少ししっかり読んで、授業にのぞもうと思った。
ぜひそうしてください。せっかく高い教科書を買っていただくのですから、おおいに利用してください。授業では教科書どおりの内容は話しませんが、教科書をあらかじめ読んで授業にのぞむと、理解度は確実に高まります。

ガンダーラの「初転法輪に向かう釈迦」の中に、天使のようなものが描かれている。仏教にも天使のようなものがいるのだろうか。
同じ質問が他にも数人いました。天使のようなものは、天使です。でも仏教に天使はおかしいですよね。ガンダーラ美術はヘレニズム文化の影響を受けていますが、このような羽の生えた童子の姿は、ヘレニズム世界のギリシャやローマでも見られます。そこでは「プットー」と呼ばれることもあります。キリスト教の天使も、この図像を受け継いだものです。

説法をするのが菩薩で、仏は基本的に何もしないということだったが、悟っていない菩薩がまちがった(悟りとは異なる)ことを説法してしまったときはどうするのか。というか「悟り」は修行をしている菩薩ひとりひとりで内容が違うはずであり、別々の人にそれぞれ説法をしてもらい、互いの説法において矛盾が出てしまったとき、聞き手にとって「悟り」に対する考え方に疑問を持つことがなかったのだろうか。仏教において、「悟り」とはひとつだけではないのですか。
大乗経典では説法をするのは菩薩で、仏は何もしないという説明をしたので、驚いた方も多いでしょう。しかし、この場合、菩薩は自分の意志で説法をしているのではなく、仏の「威神力」(いじんりき)によって説法を行っています。いわば仏の操り人形のようなものです。また、その場合、説法をするのは文殊や弥勒、観音など、大乗仏教の菩薩であることが重要です。同じ仏教の修行の身でも、釈迦の弟子たちは、むしろ、そのような教えについて行けない保守的なものとして現れます。菩薩はたしかに修行中なのですが、大乗経典に登場する大乗菩薩は、むしろ仏と同格の存在なので、誤った教えを説くことなどあり得ません。「教えを説く」というのは「真理を説く」ことであり、大学のいい加減な教師のいい加減な講義とは違うのです。その場合の「真理」すなわち「悟り」の内容は、かならずひとつしかないというのが、仏教の立場です。もっとも、歴史的に見れば、同じ仏教でも時代や学派で異なります。それはまた別の話になります。


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