密教美術の世界

2006年5月25日の授業への質問・回答


一神教、多神教、アニミズムの話を聞いて、人間は自分の宗教は他の宗教と違い特別なんだ、優れているんだと思い込んでいるんだなぁと思った。そういう考えが、昔から数々の戦争を起こす引き金となっている事実は恐ろしいことだと思う。
一神教と多神教、アニミズムの話は、神や仏の話をすると、質問やコメントで言及されることが多いので、あらかじめ、こちらから説明しておきました。イラク問題などに関するマスコミの論調では、「イスラム教とキリスト教の文明の衝突」とか、「一神教を信じるものには多神教の寛容さが無い」とかが多いことが気になっています。知識人のふりをしたタレントが、知ったかぶりでこのようなことを言っているのも、よく見ます。わたしは基本的に宗教に優劣はないと思っています。一神教よりも多神教の方が優れているとか、多神教の方が寛容とかと言うことはできないし、もともと、それほど単純に宗教を二つに分類することも不可能です(このことは授業でも強調しました)。ただし、宗教には「できのいいもの」と「できのわるいもの」があるとは思っています。たとえば、仏教やキリスト教、イスラム教のように、何千年もの長い歴史を持ち、特定の民族に限定されない宗教は、「できのいい宗教」でしょう。いずれも教義(教え)の体系がしっかりしていますし、人類に普遍的な問題を扱っている宗教です。だからこそ、われわれがそれを研究する意味もあるのです。これに対し、たとえばオウム真理教は、社会現象としては今のところ重要ですが、その教えの内容はきわめて貧弱です。千年はおろか、あと数十年もたてば忘れ去れれる宗教でしょう。なお、「宗教が戦争を引き起こす」ということですが、そのように見えても、じつは宗教が決定的な要因になった戦争というのは、人類史上それほど多くはないでしょう。しかし、宗教という大義名分があると、人を操作することが簡単になります。利権つまり金儲けのために戦争をしろと言われたら抵抗があるでしょうが、「お国のために」と言われれば、喜んで戦争に行く人がいるのです。イラク戦争では「自由と民主主義のために」というフレーズをよく聞きますが、同じ構図です。

「民間信仰」という言葉はよく耳にするし、今日の授業でも出てきたが、そもそもの「民間信仰」とは何を意味するのですか。仏教などの「宗教」とは何が違うのですか。
民間信仰も宗教の一部です。民間信仰と仏教などとの境界線もあいまいです。というより、仏教もキリスト教も、民間信仰をその内部に含んでいますし、民間信仰という基礎の上に成り立っているという見方もできます。民間信仰を持たない民族や文化は、おそらく存在しないでしょうし、日本にもさまざまな民間信仰があります。仏教や神道などには収まらない習慣や風俗、宗教行事を考えてみてください。現在では仏教などの一部になっているものも、その起源は日本土着のものもたくさんあります。インドの民間信仰には、樹木信仰や女神信仰、ヤクシャ信仰などがあります。ナーガやマカラなどの想像上の動物への信仰も、それに加えることができます。これらは、仏教やジャイナ教のようには特定の開祖を持たず、教えの体系も明確ではないなどの特徴があります。仏教、とくにその造形表現を知る上では、このような民間信仰を視野に入れる必要があるのです。

観音という言葉が尊名なのか、仏(如来)や菩薩のような称号のようなのか、今日の問題を見てると紛らわしい感じがした。なぜ、観音だけ仏などと同様に、カテゴライズされるほど、多様化したのだろうか。
観音についてのもっともな質問です。本来、観音は菩薩の一人で、弥勒や文殊などと同じレベルです。しかし、インド以来、観音にはさまざまな種類のものが現れ、その総称として「観音」の語が用いられました。このようなさまざまな観音を「変化観音」(へんげかんのん)とも言います。千手観音、十一面観音、不空羂索観音、馬頭観音などはよく知られたものです。そうしますと、ちょうど阿弥陀如来、釈迦如来などと同じように、観音がグループ名になり、これに対して日本仏教では古くから「観音部」を立てていました。なぜ、観音にこのようなさまざまな種類があるのかは、よくわかりません。『法華経』の「普門品」という章に、観音がさまざまな姿をとってわれわれを救済するという話があり、それを理由に挙げることもありますが、実際にさまざまな変化観音がすでに信仰されていたから、このような経典が作られたと見た方が自然です。むしろ、観音がもつ「慈悲」という特徴、女性的なイメージ、シンボルの蓮の象徴性などが、このような多様性に結びついているのではないかと思っています。この問題は教科書の第五章でも取り上げています(あまり明確な答えは出していませんが)。

宗教は大昔、固定されてしまっているものだと思っていました、が、弥勒菩薩が如来になったりと、仏教は変化するものなのですか。と言うか、宗教とは現代にも有様が変化していくものなのでしょうか。多様な仏像を見ていて漠然と感じました。
宗教とはダイナミックに変化していくものです。とくに、多くの信者を持ち、活気のある宗教ほどそれがあてはまり、「生きている宗教」と呼ぶこともできます。逆に、神々の機能や位置づけが固定化した宗教は、あまり長続きはしないと思います。仏のイメージや地位が変わることは、おそらく仏教の歴史ではつねに起こったことでしょう。たとえば、地蔵は菩薩の一人ですが、現在の日本では小さな童子の姿で表され、およそ菩薩には見えません。人々の間で菩薩として信仰されているかも疑問です。むしろ、交通安全や子どもの守り神のような役割を果たすことが多いのではないでしょうか。道祖神に似ています。

仏、菩薩、忿怒尊、天、群小神という上下関係があったことは今まで知らなかった。仏の上の別格の仏が、その他を映し出しているということですが、それははじめからそう考えられていたのですか。それとも後になってそう考えるようになったのですか。
はじめからではありませんが、釈迦以外にも仏がいるという考えは、かなり初期の仏教文献にも現れます。釈迦自身の言葉として、すでに過去の仏が見いだした真理を、私も見つけたのだという意味のものがあります。複数の仏がいて、いずれも同じ教えを説いていたという考えができれば、それらの仏を生み出すような、根本的な仏を想定するのも自然な流れです。このような根本的な仏を「法身」(ほっしん)と呼び、釈迦などの現実の世界に現れる仏を「色身」(しきしん)といいます。このあたりのことは資料集の「一仏から多仏へ」というところに、少し資料をあげておきました。今回、時間があれば少しふれます。

インドの唯一の十一面観音を見てみたいと思った。広隆寺の弥勒菩薩の型の像がインドにないのに驚いた。
インドの十一面観音の写真は、教科書の185頁にあげておきました。浮彫なので、あまりよくわからないかもしれませんが。広隆寺の弥勒菩薩に似たポーズの像はインドにもあります。ガンダーラやマトゥラーの菩薩像に現れ、図像的なつながりもあるようです。ただし、そこでは弥勒がこのポーズをとっているのではなく、観音や他の菩薩の姿勢です。弥勒と半跏思惟のポーズが結びついたのは中国で、朝鮮半島や日本はその影響下にあったのです。

神々にもいろいろありましたが、漢字で書かれているものと、カタカナで書かれているものがあるのはなぜですか。中国で翻訳されなくて、日本に伝わらなかったから?また、一番人気の仏(神)はどの国、どの時代でも釈迦なのですか。
カタカナ表記については基本的にはそのとおりです。後期密教の文献は中国には伝わらなかったものが多く、その中に登場する仏は漢字で表せないので、カタカナになります。また、あまり漢訳が知られていないので、もとのサンスクリットをそのままカタカナで表記する場合もあります。一番人気の仏は国や地域、時代で異なります。おそらく日本の仏像の作例で最も多いのは仏であれば阿弥陀か薬師、菩薩は観音、明王は不動でしょう。地蔵も多いでしょうね。意外に釈迦像はそれほど多くはないのです。


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