密教美術の世界

2006年5月11日の授業への質問・回答


仏の三十二相は宗教的な理想を表すように考えられているとわかったが、中には本当に理想的なのか疑問に感じるものもあった。また、なぜ32なのか。この数に特別な意味はあるのか。
先回は三十二相の説明に時間をかけたので、質問やコメントにも、これに関するものが多くありました。32という数はおそらくまとまりのよい数だったからでしょう。32は2の5乗となるように、きれいに分割できる数です。このようなきれいな数は、しばしば「聖なる数」となります。その一方で、他のどんな数でも割れない数、つまり素数も「聖なる数」として好まれます。三十二相が理想的な姿であるかは、たしかに疑問です。むしろ、さまざまな伝承の中で生み出された「聖なるイメージ」が、ある時代にまとめられたと考えた方が適当でしょう。そのひとつひとつに意味を求めるのは困難です。手の水かきや、40本の同じ形の歯などは、別にそれほどありがたいものではないでしょう。また、三十二相の中には、実際には図像表現することができないようなものもあります。文献によって、三十二相の内容が異なることがあるのですが、これも、はじめに32という数をたてて、それにあわせていろいろ組み合わせたと考えた方が自然です。

誕生が下からはじまり、涅槃が上で終わるのは、徐々に天に昇るというニュアンスなのかなと思いました。話された内的要因で、王=仏というのは、華やかな装飾(世俗的)がなされている仏像とも関係がある?
八相図などで、釈迦の生涯のできごとがどのように並べているかについては、きまった説はありません。パーラの八相図の場合、むかって左下に誕生、最上段に涅槃がくることが多く、さらに初転法輪と舎衛城の神変、三道宝階降下と酔象調伏が、それぞれ左右に並ぶ傾向があります。これらは出来事が起こった順序よりも、全体のバランスに配慮したものとも思われます。ただし、研究者によっては、釈迦のできごとを下から上にたどることによって、その生涯を見るものが追体験し、さいごに涅槃に至るという解釈がなされることがあります。その場合、質問のような意図が込められていることになります。はなやかな装飾がなされた仏は、宝冠仏と呼んでいますが、これについては、私も王と仏のイメージの類似性が関係あると考えていますが、図像そのものがどこから来ているのかはよくわかっていません。教科書でもそのあたりは少し曖昧な記述をしています。北西インドのカシミール地方で流行した形式や、玄奘が『大唐西域記』のなかで紹介するボードガヤの像などが関連するようです。

仏像をひとつに限定すると、美術は衰えてしまうと言っていたけれど、三十二相は、細かく特徴が書かれていて、ひとつに限定してしまうことにはならないのかなぁと思った。
たしかにそうですね。でも、三十二相だけで作品はできませんし、仏像に三十二相のすべてが表されているわけでもありません。図像に関係するのは頂髻や白毫、手足鬘網相などごく一部です。三十二相は仏像を作るときの基準よりも、仏像の姿を瞑想するときのイメージのヒントのようなものだったようです。釈迦がすでにこの世にいない時代、釈迦の姿を瞑想することは、重要な修行法でしたが、同時にきわめて困難でした。そのときの指針として、三十二相は成立したようです。このような瞑想は観仏とか観想と呼ばれました。そのような情報も参考にしながらも、実際はその土地に伝わった造像の伝統が決定的だったのでしょう。たとえば、ガンダーラではヘレニズムの文化や北方の騎馬民族の文化、さらにインド内部からの文化などです。

仏の三十二相を知って、仏像を見た限りでは、普通の人間に見えるが、いろいろ設定があっておどろいた。仏の三十二相は何を食べてもおいしいとか、声がきれいだとか、うらやましい部分もあったが、毛穴には毛がないといけないとか、脇の下がふくらんでいるとか、髻のようなものが頭の上にあるとか、現代に生きる女の私にはあまりなりたくない姿だなぁと思った。
仏の姿になりたい人というのは、たしかにあまりいないでしょうね。日本の仏像でも、釈迦像のすぐれた作品も多くありますが、一般の人々に人気が高いのは観音や弥勒などの菩薩像です。大乗仏教では仏よりも菩薩の方が身近な存在なので、このような人気の度合いは当然なのかもしれませんが、イメージがもたらす効果も大きく、菩薩像は一般に高貴な男性像ということで、親しみやすいのでしょう。肉髻も螺髪も白毫もそこにはありません。なお、毛穴というのはけっこう重要な特徴で、仏が輝くときにはこの毛穴から光を放射します。そして、その場合の一番重要な毛が眉間の白毫で、ここから発射された光は全宇宙を照らし出します。このことは、先の方の授業で取り上げます。

ナーランダー遺跡を見て、少し疑問に思ったのだが、インドの古い寺院にも、日本の寺のような東大寺式、薬師寺式といった形式はあったのだろうか。
現在、発掘されている当時の寺院の遺構はそれほど多くありません。それらを見ると、インドの仏教寺院は基本的に仏塔(ストゥーパ)と僧院で構成されています。ナーランダーでもそうでしたが、この僧院の場合、増築が繰り返され、その結果、同じような規模の僧院が一列に並ぶことになりました。仏塔はひとつのままです。パハルプールでは、はじめから大規模僧院として設計されたようで、中庭に大きな仏塔を一基立て、そのまわりを巨大な僧院が取り囲むという形式になります。同じようなものが、インドではヴィクラマシーラという僧院が知られていますし、この形式はインドネシアにも伝わったようで、ジャワ島の仏教遺跡でも見られます(チャンディ・セウというお寺です)。ある程度の類型化は可能でしょうが、日本の古代寺院のように、明確な形式がたてられるわけではないようです。

聖界の王である仏(釈迦)を、世俗の王と意図的に同一視したことが、仏像の誕生につながったとの説明があったが、自分は仏教は世俗を嫌ってるようなイメージがあったので、違和感を感じた。話は変わるが、釈迦仏伝図のような同じ石に違う場面がいくつも描かれているものは、見にくいのに、何でわざわざひとつの石に描こうと思ったのか不思議だ。
釈迦はたしかに世俗を捨てて悟りを開きましたが、仏像をつくったのは釈迦自身ではなく、仏教徒たちです。そのほとんどが世俗の世界で生きていた人々でしょう。僧侶自身が岩を刻んで仏像をつくったのではなく、工人たちです。また、仏像を待ち望んでいた人々も世俗の人たちがほとんどだったでしょう。僧侶が生きていく上でも、世俗の人の寄進や布施が必ず必要です。そのような人々にとって、見たこともない仏のイメージをつくり出すときに、実際に存在してる王のすがたや肖像は大いに参考になったのでしょう。なお、インドでは、世俗の世界よりも聖界が上位におかれるという考え方が支配的なのはたしかです。たとえば、いわゆるカースト制度では、僧侶階級であるバラモン(ブラーマン)の方が、戦士階級であるクシャトリアよりも上位におかれます。そのような意味では、世俗の王との同一視は、インドの中ではやや邪道かもしれません。最後の質問の、複数の場面をひとつの石に刻むという伝統は、初期の仏教美術のバールフットやサーンチーでも見られる伝統的なものです。絵巻物のようですが、実際はそれほど単純には筋をたどることはできません。時間の流れよりも空間の配置が優先されることがあるからです。

聖なる領域の頂点と、世俗の領域の頂点のイメージが共通しているというのは、今の感覚からすると理解しづらいと感じた。通常、二つの領域は別々か聖なる領域の方が上位にくる感覚である気がする。三十二相のようにかなり細かいことまではっきりと規定したのは、当時も「仏=王」というイメージが、当然のように受け入れられるものでなかったことも表しているのではないかと思った。
聖なる領域と俗なる領域については、上に書いたとおりです。「<仏=王>というイメージが、当然のように受け入れられるものでなかった」という指摘はおもしろいですね。三十二相そのものの役割がさらに大きくなります。私も検討してみたいと思います。


(c) MORI Masahide, All rights reserved.