密教美術の世界

2006年4月27日の授業への質問・回答


・釈迦を、好きな人に置き換えると、釈迦の姿を菩提樹などで表す理由が納得できた。でも、釈迦のことをあまり知らない人にとっては、樹木や法輪よりも、その姿を像で表した方がわかりやすいと思った。
・仏像や絵画などで仏を人の姿で表すと、人の持つ「限界」というものが、仏の力にもあるということにつながる危険性があり、初期の仏教が、仏の姿を、樹木や法輪など人でない姿で表したのは、理にかなっていると思う。しかし、仏教の信仰を広めるという点では、もっとわかりやすいモチーフがあった方がよいだろうし、そのような理由から仏像などで、仏が人の姿で表されるようになったのだと思う。
同じような内容ですが、なかなかよいコメントなので、二人分まとめて紹介しました。たしかに仏教をひろめようとする場合、樹木や法輪などのシンボルを用いるよりも、仏を人の姿で表す方が、インパクトがあるかもしれません。また、見る人にもわかりやすいでしょう。実際、日本に仏教が伝来したときには、経典とともに仏像ももたらされました。文字情報だけではなく、イメージも必要だと考えたからでしょう。しかし、そのようなイメージ、つまり人間の姿をした仏も、その表し方には、民族や文化で違いがあります。それに比べて、シンボルはそのような差を超えて、普遍的な広がりを持つことがあります。たとえば、法輪は単なる車輪ではなく、光り輝く太陽のシンボルにもなりますが、太陽をそのように表す人々は、特定の地域に限定されないでしょう。また、われわれは釈迦を人の姿で表した方が、ありのままで、本物に似ていると思いこんでいますが、本当に釈迦がそのような姿をしていた保証はどこにもありません。あくまでも、ある時代のある人々がイメージする釈迦でしかないのです。そもそも、「ありのままに表す」こと自体、厳密に言えば、不可能です。彫刻や絵画によって表現するためには、対象を変化させる必要があるのですから。なお、シンボルによる仏の表現の説明に、好きな人を例にあげるのは、皆さんにとって身近な題材であるという理由もあるのですが、宗教というのが神や仏に対する一種の恋愛感情に似たものであるからです。宗教とは合理的な判断にもとづくものではなく、もっと心情的なものです。

本当はすべての宗教は偶像崇拝を禁止したいという話が印象的でした。説明にはとても納得することができました。宗教が過激な思想に考えられてしまうのは、その宗教にいかに傾倒しているかの表れなんですね。
「本当はすべての宗教は偶像崇拝を禁止したい」というのは、極論かもしれませんが、あえてそのように表現するのは、偶像崇拝は特定の宗教の特別な考え方であるという、おそらく皆さんの持っている「常識」に疑問を持ってもらいたいからです。「聖なるもの」は基本的に表現することができないということも、この授業でのポイントです。宗教に傾倒するのは悪いことではないでしょうが、それによって視野が狭くなったり、他の考え方を認めることができなくなると、しばしば悲劇が起こると言われています。しかし、宗教に傾倒したからといって、つねに悲劇が起こるわけではなく、むしろ、それによって心の平安を得られる人もたくさんいます。簡単にはとらえられないのが宗教です。

私はいけない本を読んだからなのか、自分の中で勝手に解釈したのか、偶像崇拝はタブーなのだと認識していました。スーリヤという太陽の神様をスライドで見ましたが、インドでは仏と神はどのような関わりがあるのでしょうか。
「いけない本」かどうかはわかりませんが、少なくとも、仏教の場合、偶像崇拝はとくに禁止されたり、人々がそれを避けようと意識していたわけではないということです。むしろ、多くの宗教に共通する考え方として、神や仏を表すことが困難であるということを強調したかったのです。スーリヤは、古代インドのヴェーダ文献から登場する神です。仏教が現れる前のことで、西北インドからインドに侵入してきたアーリヤ人たちの信仰の対象でした。太陽神崇拝はギリシャやローマでも盛んで、アポロンの名で知られる神も太陽神です。スーリヤとアポロンは起源は同じ神なので、いろいろ共通する要素もあります。スーリヤは仏教の時代でも信仰され、スーリヤを祀った寺院もあちこちで建立されました。仏教内部にも取り入れられます。仏と神の関係については、この授業の終わりの方(7月頃)で取り上げるつもりです。

ひとつの像で複数のシーンがあるのが印象的だった。ヤクシャのいろいろ多彩な表現がおもしろい。仏像が登場してからも、印や象徴を持っているのは、古代仏教の影響ではないのか。
ひとつの像で複数のシーンがあるのは、インドに限らず、世界のあちこちで見られる形式です。日本でも絵巻物などにはよく用いられます。「異時同景図」と呼ばれることがあります。仏像が登場してからも印や象徴を持っているのは、たしかに、初期の仏教美術の伝統が受け継がれているからです。そして、その伝統は密教の仏像やマンダラでも見られます。聖なるものをシンボルで表すという考え方は、それほどインドでは強力なのです。

どうしてほとんどの仏像の後ろに、丸い円盤みたいのがあるのだろうか。お釈迦様に対する崇拝の強さはよくわかったが、いろいろな方法で表して崇拝するよりも、ひとつに限定してありのままであった方が、いいのではないかと思う。これも部族なんかの違いなのかな。
丸い円盤は頭光(ずこう)といって、頭が光り輝いていることを表しています。丸いものをくっつけているのではありません。全身が光っている場合は、光背が表されます。「後光が差している」という表現もありますが、これも、仏の体が金色で、光っているからです。同じような表現は、キリスト教の美術でもあり、頭の上に丸い輪や、頭の後ろに同じような円形の光が表されます。「いろいろな形よりもひとつに限定」という発想は、初期の仏教美術ではほとんどありませんが、密教美術では、そのような傾向があります。すべての仏は決まった形式を持ち、それに従って表現されるからです。しかし、このような規制が加えられると、芸術は自由な力を失って、衰えてしまうのがつねです。キリスト教の中でもギリシャ正教は、イエスやマリアを表すために、厳密な規定を設けましたが、そこからはルネッサンスやその後の華やかなヨーロッパ美術は生まれませんでした。コメント文中の「ありのままに表す」ことが困難であることは、すでに述べました。

釈迦の生誕のスライドには、驚かされましたが、逆に死の推移はどうなんでしょうか。その辺を表したスライドを見たいです。
釈迦の死は涅槃と呼ばれて、それを描いた作品もアジア各地に数多く残されています。日本でも涅槃は絵画で表され、涅槃図と呼ばれます。釈迦が亡くなったと言われる12月9日には、涅槃図を掛けて行う法要があちこちのお寺で行われたため、多くの涅槃図があります。涅槃の図像については、簡単な読み物が私のホームページにの「講義録」に「テキストを読む・図像を読む」という題でアップしてあるので、関心がある方は参照してください。

マトゥラーの仏頭を見たとき、頭の渦巻きはわかったけれど、おでこの点も説明してほしかった。
おでこの点は白毫(びゃくごう)といって、頭の渦巻きと同様、仏の重要な身体的な特徴です。これについては今回取り上げます。


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