アジアのマンダラ・日本のマンダラ

2006年7月3日の授業への質問・回答


 今回は前期の終わりにあたりますので、出席者全員の質問・コメントを取り上げました。私の回答は通常にくらべて、若干短めです。
 前期は「アジアのマンダラ・日本のマンダラ」というテーマで、インドにおけるマンダラの成立とその意味、機能などを解説し、代表的なマンダラである金剛界と胎蔵界の構造、日本におけるこれら二つのマンダラの代表的作例を紹介しました。「内容がむずかしい」という感想がときどき見られましたが、熱心に受講して、内容豊かなコメントを提出してくれた方も多く、やりがいのある授業でした。
 後期は「マンダラから見た日本の宗教」をテーマにします。日本におけるマンダラの受容と展開をたどり、そこから日本文化の独自性をあきらかにしたいと思います。當麻曼荼羅から立山曼荼羅まで、およそ「曼荼羅」と名の付くものは、できるかぎり取り上げて、日本の「マンダラの世界」の多様性を紹介する予定です。

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正統系の曼荼羅よりも非正統系の曼荼羅の法が、細部まで描き込まれていて、きれいだし、丁寧だった。非正統系の曼荼羅は、歴史的に見て正統系のものより軽視されていたりするのですか。
正統系の曼荼羅も、剥落や破損がなければ、細部まで丁寧に書かれていたと思います。非正統系の代表である西院本は、保存もきわめて良好で、独特の様式が魅力的です。とくに非正統系のものが軽視されていたということはありませんが、正統系が空海以来の請来本の姿を伝えていることで、真言宗の中でとくに重要であったことはたしかでしょう。

曼荼羅に出てくる仏たちはふくよかな体型が多いと思った。以前、比文のセミナーの中で、インドかチベットかの母神の話があったのだが、その中にやせ細った母神がいたのを思い出した。人を助けてくれたりする神は、体格がいいというようなイメージがあるのだろうか。
やせ細った母神というのは、カーリーやチャームンダーと呼ばれる女神で、子どもの神や、天然痘の神という性格を持っています。インドの母神には、このようなやせ衰えた老婆のようなイメージと、ふくよかで豊満な女性のイメージの両者が現れます。両義的な存在だからでしょう。

マンダラは儀礼のため以外に作られることはありますか。あと、京極夏彦の小説に、宗派がない寺が登場しました。ほんとうに日本に存在しますか。
授業ではマンダラと儀礼の結びつきを強調しましたが、むしろ、日本では仏画の一種として、礼拝や供養の対象であることのほうが多かったでしょう。また、一般の人が曼荼羅を目にすることも、ほとんどなかったと思います。「マンダラとは何か」という問題自体が存在しなかったのです。「宗派がない寺」というのが具体的にどのように説明されているかわかりませんが、浄土真宗や真言宗といった伝統的な宗派には属しないで、一か寺でひとつの宗派(あるいは宗教法人)となっている仏教系のお寺は無数にあります。

東寺で西院本の複写が2000円くらいで購入できると聞いたが、それくらいなら部屋にセットで掛けてもいいなと思った。両界曼荼羅に挟まれて生活できたら、どんなにありがたい気持ちで暮らせるだろうか。
密教美術をはじめとする宗教芸術は、「場」と結びついてはじめて意味をなすということだが、たしかにそうだと思った。授業のスライドや美術館の展示としてみる宗教芸術は、私たちにとっては、あくまで「美術作品」であって、鑑賞の域を脱するものではない。それらから法や真如といったものを悟るのは不可能だろう。しかし、それでも思わず手をあわせて拝みたくなるような気にさせてしまう力があるということは、たとえそれがどの場であっても、またたしかなのではないか。
先週、御室版の資料で星宿の神々を見たが、蟹座や牡牛座はともかく、山羊座もまだ何とかみれる程度だったが、サソリがたいへんなことになっていた。形はたしかにサソリとわかるものではあったが、頭部が人面になっていた。なんてことをするんだと思わず声に出しそうになったほどで、あれでは降魔成道の魔衆に加えられても仕方ないのではと思えた。
マンダラで部屋を飾るのは趣味の問題なので、とくにいうべきことはありません。わたしはあまり気がすすみませんが・・・。「場」にとらわれずに、作品そのものが力を持つというのはたしかにそうでしょうね。本で見る曼荼羅は実物とはかけ離れたイメージですが、それでもわれわれの心を打つのは、そのような力があるからでしょう。胎蔵曼荼羅の外金剛部には、ほんとうにいろいろなイメージがあります。これだけでも研究するとおもしろいでしょうね。

子島曼荼羅の黒っぽい布に描かれた様子は、今まで見てきたものと違い、ひきこまれました。どのような意図があってそのような斬新な形式で描かれたのか知りたいと思いました。
子島曼荼羅は紺地の絹の綾に金銀泥で描かれています。高雄曼荼羅は紫の綾だったので、少しイメージが異なりますが、金銀泥は同じです。これ以外にも紺や紫の綾に描かれた曼荼羅はいくつか知られていますが、高雄曼荼羅を意識したものでしょう。その意図は残念ながらよくわかりません。基本的にマンダラは色が重要なのですが、日本の曼荼羅にはこのような伝統も見られるのです。子島曼荼羅は現在、奈良博で展示中です。近年、復元模写が完成し、これもあわせて展示されています。現在の子島曼荼羅は、銀泥が酸化して黒ずんでいるのですが、復元模写では鮮やかな銀色が描かれていて、全体の印象もずいぶん異なります。直接、本物を見に奈良博までいっていただくのがいいのですが、図録を買ってきたので、比較文化の研究室においておきます。関心がある人はどうぞ見てください。

今はもう失われてしまったマンダラの存在は、どうやって把握しているのかが気になる。やはり文献などに残っているのだろうか。マンダラは色が美しいのが見どころだと思うが、やはり美しさというのも、装置としての役割で重要なのかなと思った。
寺院の記録などの文字資料がやはり中心です。日本におけるマンダラの伝承の場合、作品が重要な役割を果たしますが、それを裏付ける形で、古文書などが活用されます。マンダラの美しさは、むしろ、日本におけるマンダラの扱いが、儀礼の装置としてよりも、礼拝の対象であったことによると思います。チベットの砂マンダラは、見ようによっては美しいのですが、一種の工芸品のようなもので、日本人の美意識とはあまり相容れません。

いろいろな曼荼羅が残っていて興味深かった。
そうですね。残っていること自体が奇跡に近いのです。

高雄曼荼羅を研究している人は多いが、血曼荼羅等を研究している人は少ないといっていたが、なぜだろうか。メジャーとマイナーの差だけが問題なのであろうか。
血曼荼羅の研究は皆無ではありませんが、高雄曼荼羅や西院本に比べると、少ないでしょう。子島曼荼羅も意外にあまり研究されていません。曼荼羅というものが真言宗や天台宗の寺院にとって至宝であり、秘宝でもあるので、研究者の手に預けることが、これまであまりなかったからでしょう。

現在に至るまでに曼荼羅が長い歴史をたどってきたことがわかったが、現在における曼荼羅の役割は変わってきているのだろうか。
伝統的な曼荼羅は昔と同様、灌頂や修法の道具や装置として用いられています。また、寺宝として展覧会の目玉となったりします。かわったところでは、マンダラに「癒し」を求める人もいて、たとえば「マンダラ塗り絵」なるものも最近はあります。ただし、私はあまりマンダラに現代的な意味を見いだしたり、場合によってはあまり根拠のない意味をこじつけたりするのは好きではありません。

マンダラとは何かということについて、半分も理解できなかったが、「仏の世界である」などの抽象的なことばだけでは見えてこなかった側面から、密教儀礼の流れの中での産物としてとれることができた。私にとってはかなり難しい内容の授業ですが、後期も受けてみたいと思います。
ぜひ受けてください。後期は日本のさまざまなマンダラを扱う予定ですが、7,8割の理解が得られるように私も努力します。

西院本や879年にできたものなのに、とてもきれいに残っているのでおどろいた。甲本と比べてみたときには、まるで甲本の方が時代が古いもののように感じた。どのように保存されていたのだろうか。
甲本、乙本、永仁本の3本は、幅の広い板に巻かれて保存されていたようで、それが破損をもたらしたようです。これら3本も西院本も、いずれも東寺宝蔵の屋根裏から見つかったのですが(西院本の方が若干はやく見つかりました)、保存の方法でずいぶん異なる結果になったようです。もっとも、西院本は儀礼で用いられることは少なかったようで、使用頻度の違いも関係あるでしょう。

永仁本のボロボロっぷりは、おどろいた。なぜ図像がわからなくなるまで、元禄本が作られなかったのだろう。儀礼に不都合はなかったのだろうか。
今ほどひどい状態ではなかったでしょうが、元禄本を描くときに参考となる現図系の曼荼羅がほとんどなかったことはたしかなようです。マンダラの図像に関する情報は、かならずしも儀礼には必要なかったことになります。これも日本的な変化でしょう。

・現在、日本においてマンダラ絵師(というのか?)は存在するのだろうか。それとも、そのような人々は寺社で販売されている産物のマンダラを描くだけなのだろうか。
・醍醐寺五重塔のマンダラは通常でも見ることができるのだろうか?もし見られるのなら見に行きたい。
・紫綾金銀泥絵のマンダラは完全に残っていたり、制作当時は本当に神々しいほど美しいのだろう。見たかった!
・大日如来に関して。西院本と甲本とでは、甲本の方が知性を帯びているように思える。西院本は原始的というか、化粧を施していないような感じで、これは当時の人々の美意識の変化というものが表れているのだろうかと感じた。私は西院本の方が愛嬌のある感じで好きです。
仏画師がマンダラを描きますが、普通の一尊や数尊の仏画と異なり、マンダラを描くのはとてもたいへんだそうです。すべての仏画師が描けるわけではないのです。それでも、曼荼羅を描く仏画師はかなりいますし、それぞれ重要な作品を残しています。子島曼荼羅の復元模写もそのようなもののひとつです。醍醐寺五重塔は残念ながら公開されていません。板絵の一部は醍醐寺の宝物館で見ることができるようですが、内部の全体の雰囲気はそこからはなかなかわかりません。金銀泥のマンダラについては、上にも書きましたように、子島曼荼羅の復元模写で少し雰囲気を味わえます。大日如来の描き方は、西院本と甲本で本当にずいぶん違います。私はどちらかというと、現図系の甲本の方が好きです。このあたりは趣味の問題ですね。

日本ではマンダラは掛けられるため、上の方はよく見えないということでしたが、同じ大きさのものを敷いてある状態で見ると、掛けてあるよりはよく見えるのではと思いました。見上げるのと見渡すのでは、印象が違うだろうと思います。これも「空間」に対する感覚の違いなのでしょうか。
奈良博で子島曼荼羅を見たときも、そのように感じました。展示されていたのは胎蔵でしたが、よく見えるのは中尊よりも下のあたりで、単眼鏡を使っても上の方はよくわかりません。高雄曼荼羅などは子島曼荼羅よりもさらに一メートルほど大きいので、上はかすんでいるでしょう。血曼荼羅もそうでした。一方、敷曼荼羅はこれらのマンダラほどは大きくなく、弟子や阿闍梨など、儀式に参加するものが一望に見わたせる程度でしょう。たしかに、掛けるのと敷くのとでは、印象はずいぶん異なります。

インドではひとつのマンダラで世界すべてを表していたのが、日本に伝わってくると、金剛界・胎蔵界二つの曼荼羅がセットになって、はじめて完全となるという風に、マンダラのとらえ方が変化するのが実に興味深い点でした。先生はこの「左右に二つのもをおいて完全なものとする」考え方を中国から来たものであるというようにおっしゃっていましたが、そのあたりの流れをもっと詳しく知りたいです。
私もこのあたりのことはよくわかりません。少なくともインドでは、「二つで全体」という発想はほとんど見られません。これに対し、中国や日本では陰陽や風水のように、二つや偶数で全体を表すことを好むような気がします。空海に中国の思想が与えた影響というのは、重要といわれているのですが、日本の密教研究でもなかなかむずかしいテーマのようです。

「芸術と儀礼」において、「・・・礼拝の対象ではなく、いわばわれわれが同化すべきものなのだ」という文章に感銘を受けた。仏像と同じく、仏が描写されているにもかかわらず、マンダラに向かって合掌している姿は、どこか異質な感じがする。また以前「マンダラとは?」という問いに対していろいろ提示されたが、「われわれが同化すべきもの」というくだりが、自分の中で最もしっくりくる。
私はこの文章の中で「同化する」という表現と使いましたが、「悟る」とか「大日如来と一体となる」というような言い方をする方が適切であったかもしれません。このあたりのことは、『金剛頂経』における悟りの構図でお話ししたようなことを意図しています。

おそらく描くのにたいへんな時間と労力をかけたであろうマンダラが、なぜ板に巻かれて今や見る影もなしなのか、とても残念です。学業を離れても「修復されたマンダラが公開されます」というニュースを見たら、気になって見に行ってしまう気がします。
東寺の甲本などが板に巻かれていたのは、それが当時の一般的な保管の方法だったからのようです。乙本、永仁本の修復が終わり、公開されるまでにはしばらく時間がかかるようですが、そのときにはぜひ見に行ってください。子島曼荼羅はまさに今展示されていますので、学業に離れる前に見に行くことができます。ぜひどうぞ。


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