アジアのマンダラ・日本のマンダラ
2006年7月3日の授業への質問・回答
インドではひとつひとつ独立した仏の世界として理解するのに対し、チベットではそれらまとめてひとつの仏の世界として理解すると説明されていたが、よくわからなかった。また、どうしてチベットでの理解のしかたが、インドよりもランクが上ということになるのだろうか。サンヴァラマンダラや時輪マンダラは幾何学的で美しかった。日本のマンダラを見てからだと、マンダラであるという認識すら危ぶまれそうだ。弘仁本が制作されてから十数年でボロボロになったということがやはり不思議だった。いくらマンダラが掛けっぱなしで使用されていたとはいえ、そんな短期間でだめになってしまうものなのだろうか。
チベットのマンダラの世界は、この授業ではほとんど取り上げていませんが、インドとも日本とも異なる独自の歴史的展開を見せます。その重要な特徴としては、インドで生まれたマンダラのほとんどすべてを継承し、しかもそれを総合的にとらえることが可能であったこと、マンダラが儀礼のためや仏画として描かれる以外に、建造物の壁画や天井画として描かれ、その構造と密接に関わったことがあげられます。先週の授業ではこれをまとめて、ごく簡単に述べたため、よく理解できなかったのではないでしょうか。ただし、「チベットでの理解のしかたが、インドよりもランクが上」とは言わなかったと思います。はじめの点については、インドでは、長い時間をかけていろいろな種類のマンダラが少しずつ出現したのに対し、後世のチベットではそれをまとめて俯瞰できたということです。たとえば、19世紀の終わりには、チベットに伝わった140種ほどのマンダラをすべて集め、その具体的な説明と、それぞれのマンダラに関わる儀礼文献が整備されました。建築物についての例もいろいろあげられますが、代表的なものに、ギャンツェのペンコル・チョルテンという巨大な仏塔があります。この仏塔は八層からなりますが、上に行くほどレベルの高いマンダラが、壁画として描かれています。なお、この場合の「レベルが高い」というのは、チベット人の密教の体系においてという意味です。日本のマンダラに関する後の質問について。十数年でボロボロになったのは、空海の請来本の方で、弘仁本は、第二回転写本である甲本が制作されたときまでは、少なくとも残っていました。請来本が十数年でボロボロになった理由は、不思議なことに誰もあまり問題にしていません。私は、マンダラが持つ特別な力のようなものを、当時の天皇や貴族がマンダラに実際にふれることで得ようとしたのではないかと思っています。あるいは、灌頂の敷マンダラの役割を、請来本が果たしていたのかもしれません。どちらもあくまでも推測(邪推?)でしかありませんが。
空海の時代の曼荼羅がまだ残っているなんて、すごい。どう保存してあったのだろう。また、マンダラのいい保存方法は模索されているのでしょうか。もともと、儀礼の後に壊してしまう存在なので、保存に重きはおかれていないのでしょうか。
高雄曼荼羅ははじめは神護寺にありましたが、その後転々として、最終的にはふたたび神護寺の所有となりました。ほんとうに、よく残ったと思います。儀礼の後に壊してしまうマンダラは、インドの砂マンダラの場合で、布に描いた中国や日本のマンダラは、壊したり、廃棄することは念頭にはないでしょう。灌頂で用いる敷きマンダラは、儀式が終われば、巻かれて箱などにしまったと思います。一方、高雄曼荼羅をはじめとする軸装のマンダラは、普段は寺院の本堂に向かい合わせに掛けられるものもありました。掛けっぱなしのため、褪色が進むことはやむを得ませんが、高雄曼荼羅も、高野山の血曼荼羅も、全体はよく保たれています。今回紹介する甲本や乙本、永仁本は、いずれも横長の板に巻かれて保存されていたようです。これが全体の破損につながったようです。これらは現在東寺が保管し、一方、高雄曼荼羅は京都国立博物館に委託されて保管されています。いずれも最新の技術で、褪色や劣化から守られているでしょう。
胎蔵界マンダラの豪華本の中に、星座が描かれているマンダラがありましたが、十二星座は西欧世界の伝説(ギリシャ神話)から来ているものだったと思っていたため、とても不思議に感じました。なぜ、仏教のマンダラに十二星座のシンボルが描かれているのでしょうか。
インドの占星術や天文学は、アラビアに起源があり、ヨーロッパ世界も同じであるため、同じ十二宮が登場します。起源が同じなので、それ以外にも多くの共通点があります。インドの占星術は平安時代の日本にも、「宿曜経」などの形で伝来しています。平安貴族たちも、牡羊座とか天秤座とか、われわれと同じ星座で占いをしていたのです。もちろんまったく同じではありませんし、もっと複雑です。インドと密教の占星術については、京都産業大学の矢野道雄先生が第一人者です。いろいろ本も出しておられるので、関心があれば読んでみてください。マンダラに星座が登場するのは、星宿神が仏教のパンテオンに組み込まれていたからです。ヒンドゥー教の神々や、ナーガ、ヤクシャなどと同様です。日本密教では「星曼荼羅」という、星座や天体の神で構成されたマンダラがあります。別尊曼荼羅のひとつですが、星の信仰や占星術に関わる儀礼で用いられました。別尊曼荼羅の中では、よく研究されているマンダラのひとつです。
三百以上も女神がいることに驚いたが、アルファベットの組み合わせで作られたということに、さらに驚いた。もともといた仏も、作られた仏(神)も、他宗教の神も同じ空間に描かれているのだとあらためて不思議な感じがした。でも、神の中にも人種(?)があるみたいでおもしろいと思った。
時輪マンダラになると、ひとりひとりの仏の個性とか特徴とかは、かなり稀薄になります。その顕著な例が、身密輪の女神たちです。実際のマンダラではひとりひとりの女神を描くことができませんので、丸のような記号で表されます。マンダラの仏や神がどこから取り入れられたかとか、どこに起源があるかなどで、そのマンダラの性格や位置づけがわかります。後期密教の多様なマンダラも、慣れれば、このようなグループごとに仏たちを把握できるので、じつはそれほどむずかしくありません。
清盛が自分の血を混ぜて曼荼羅を作っているとは驚きだ。高価な曼荼羅に自分の血を混ぜて作る・・・。権力の象徴でもあり、信仰心の表れか。悪趣味にはちがいないが・・・。
高野山の血曼荼羅にまつわる清盛のエピソードは、『平家物語』に含まれ、この曼荼羅が取り上げられるときには必ず紹介されます。しかし、その意図や真意を明確にしたものは、あまり見たことがありません。単に赤い絵の具を増やすために血を混ぜたのではないことは明らかです。また、わざわざ胎蔵曼荼羅の中尊の大日如来の宝冠に、自分の頭の血を混ぜた絵の具を用いたことも重要だと思います。赤い色を塗るためであれば、もっと赤がはっきりわかるところ、たとえば阿弥陀の身体の色などが当然、あげられるからです。また、血を出すのも、べつに頭ではなくても、もっと出しやすいところがあったでしょう。これまでにも紹介してきたように、灌頂は王権と密接な関係を持つ儀礼です。とくに、古代や中世の日本では、国家を統治する「王法」と「仏法」が重要なキーワードとなります。大日如来とは密教の仏の世界では、最高の存在です。そして、大日如来が頭にいただく宝冠は、そのまま、灌頂儀礼において与えられる宝冠と同じであり、仏の智慧を象徴しています。冠をいただくというのは、もちろん戴冠式のイメージでもあります。それを描くために、清盛が自らの頭の血を用いたことは、このあたりと関係があるのではないかと思っています(まとまりがありませんが)。
御請来目録の文章がおもしろかったです。その中に、「一目で見て成仏」という言葉がありますが、この言葉は儀礼とは相対するものではないですか。でも、マンダラの仏が増えたり、シンボルが取り込まれたりするのは、「よりわかりやすく」「オマージュしやすく」という親切さとも思えます。
御請来目録は、読んでいただいただけで、説明を省略してしまいました。できれば今回、少し時間を取って説明しましょう。「法はもとより言なけれども、言にあらざれば顕れず・・・」というはじめの文章も、密教ばかりではなく、宗教美術一般についても当てはまる含蓄のある言葉です。「一目で見て成仏」のところは、私はむしろ逆説的に理解しています。マンダラは、見れば誰でも必ず成仏するような魔法の絵ではないのです。「空間」や「場面」と密接に結びついた芸術であり、その最も重要なコンテキストが儀礼だと思います。
チベットではすべてのマンダラを仏の世界とするとあったが、私はとても自然なことだと思う。イメージでは戦国時代(個々のマンダラが成立・発展)→江戸時代(ひとつの権力が統一)というかんじだ。むしろ、なぜインドではそのような考えが生まれなかったのかが不思議だし、チベット仏教にある種の寛容さのようなものを覚えた。
戦国時代と江戸時代というたとえは、なかなか的確かもしれません。チベット仏教が寛容というのも、ある面では正しいでしょう。ただし、インドのマンダラのとらえ方が継承され、発展すると、チベット仏教のマンダラ観ができあがるというわけではなく、チベットにはチベットの独自のマンダラ理解があります。おそらく、インドよりも「世界」とか「宇宙」などへの関心は低かったでしょう。だからこそ、複数のマンダラで「全体」を作るような発想が生まれたのだと思います。なお、インドでもさまざまな種類のマンダラを集成しようとする動きがありました。マンダラの歴史では、時輪マンダラがほぼ最後に位置するのですが、それが生まれた11世紀前半から、さらに200年近く、インドには密教が存続します。この間には、その時代に流布していたさまざまなマンダラについて、総合的な解説書を著した人物もいます(私はじつはこの文献を、学生のころから主に研究してきました)。
転写することにより、図柄や色彩や違うものにかえられるということはないのですか。(転写本はオリジナルのものを正確に伝えるものなのですか)。
極力、正確に伝えるように努力しています。実際、たとえば高雄曼荼羅と御室版という現図系の同系列の作品をくらべると、驚くほど図像は一致しています。しかし、転写の過程で「描きくずれ」が起きたり、元本の剥落、欠損などの理由で、正しく描かれないこともしばしばあります。また、絵画なので、それぞれの時代の様式や画家の個性が入り込みます。今回は、そのような図像の細かいちがいにもふれるつもりです。これも「マンダラの研究」なのですが、これまでのような「マンダラと何か」という問題ではなく、純粋に美術史的な研究になります。
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