アジアのマンダラ・日本のマンダラ
2006年6月26日の授業への質問・回答
悟るときに一切如来と法身毘盧遮那と金剛界如来が同一だと感じるとありますが、一切如来の加持によって法身毘盧遮那が自分(一切義成就菩薩=金剛界如来)に入ってくるのに、その力を与えてくれる一切如来と自分(金剛界如来)が同一だと思うようになるのは、変だと思いました。力を与えてもらって仲間にしてもらう感覚なのだろうか。
前回補足した『金剛頂経』の五相成身観については、思ったほど皆さんからの反応がありませんでした。この方の感想は、その中ではめずらしく、はっきり疑問を呈してくれています。私も五相成身観において繰り広げられている一切如来と一切義成就菩薩、そして法身毘盧遮那のやりとりを、はっきり理解できているわけではありません。しかし、第4段階と第5段階でのこれら三者の同一化は、すっきりしたものだと思います。仏教とは仏となることが最大の目標ですが、それがここでは法身毘盧遮那との同一化となっています。一切義成就菩薩の心(=菩提心)に金剛界すなわち法身毘盧遮那が入り、一切如来によって灌頂され、自分が仏であると観察するという3段階を経たところで、突如として、一切如来が自分の薩?金剛(菩提心)に入った瞬間が、私は重要だと思います。そのときに世界はそれまでとはまったく異なる様相を呈するからです。一切如来とは形を持った宇宙全体に相当するのですから、それが自分と同一となったということは、自分自身が宇宙全体となったことになります。「宇宙がひっくり返る」とでもいった感覚ではないでしょうか。しかもそれは、瞬間的な体験だと思われます(ただし、当事者にとっては瞬間であると同時に永遠のようにも感じるかもしれません)。しかし、授業でも言ったように、このような体験は通常の人間が日々の生活で味わうようなものではありません。きわめて特殊な精神状態で実現するものだと思います。その点で、密教とはやはり「秘密の仏教」であり、だれでも実践できるものではないのでしょう。私も想像して書いているだけです。
・毘盧遮那や摩摩◎(きへんに只)母のように漢字表記で示されるものもあれば、タッキラージャなどのように、カタカナ表記のままであるものがあるのはなぜだろうか。日本に入ってくる際に使用されなかった仏が存在するから?それとも単純に変換できない漢字だったからですか?
・これだけ仏がいるのにすべて覚えられるのか。あまりにいすぎるとありがたみが薄れるような気がするのですが。何度も思うのですが、これだけいると、役割がだぶってくることもありえそうなのですが。
仏の名前を漢字で表記するか、カタカナで表記するかは、漢訳経典に登場するかどうかによります。密教の経典はある時期を過ぎると中国には入ってこなくなります。そのため、後期密教の大半のマンダラやその中の仏たちは、漢字による表記そのものが存在しません。さらに、漢訳されていても、ほとんど当て字の場合は、読みにくいのでカタカナ表記にする場合もあります。たとえば、摩摩◎(きへんに只)母は、私はたいてい「マーマキー」とカタカナで表記します。日本人にとって仏の名前は漢字で表記するのがふつうなので、できるだけ漢字にしたいのですが、漢訳名があってもあまりに読みづらいものは、カタカナにするのです。しかし、一般向けの本などを書く場合、カタカナの仏の名前がたくさん出てくると、読者が読む気を失うので、これも難しいところです。マンダラの仏が大勢いるのはたしかです。チベットでは百種類以上のマンダラがあり、そのすべての仏をあげれば千を超えるでしょう。しかし、ある程度、マンダラになれてくると、同じ系統のマンダラには同じ仏のグループが登場することがわかります。実際は多くの仏が複数のマンダラに含まれるので、主要な仏はそれほど多くはありません。逆に、それまでにはほとんどマンダラには登場していない仏が大量に出現するときに、新しいタイプのマンダラが生まれるのです。
「五蘊」を表す五仏と、認識の対象となる外界の要素を表す四妃が結合することにより、世界ができるという仕組みを聞いて、日本書紀にある日本の生まれた伝説(イザナギ、イザナミの結合)を思い出しました。男性の仏は五人いるのに、女性の仏が四人なのが不思議です。誰と誰がペアなのでしょうか。それともカップリング自体、存在しないのでしょうか。また、男尊と女尊の描かれ方に違いが全くないように、スライドでは見えたのですが、よく見るとどこかが違ったり、何かの印があったりするのでしょうか。
後期密教のマンダラの仏たちは、ほとんどがパートナーを伴っています。しかも、マンダラに描かれているのはその両者が結合した姿です。これは、後期密教を含め、仏教一般で「二項対立」を解消することが悟りの本質であると考えられたからです。われわれは世界を認識するときに、かならず差異や区別を意識しますし、そうでなければ生きていけません(たとえば、帽子と妻とが区別できないのでは、生活することは不可能です)。しかし、仏教においてはそのような差異や区別は「分別」と呼ばれ(この場合の「分別」は悪い意味です)、迷いであり、輪廻の原因になります。そのため、分別を解消し、あらゆる対立物が存在しなくなることを、男女の仏の結合によって象徴するのです。その一方で、後期密教の実践法として、実際に女性のパートナーを用いた方法が行われるようになります。そこでは特殊なヨーガ(しばしば性的な要素を含みます)によって体の中にさまざまな変化を生じさせ、その結果、悟りを体験すると考えられました。マンダラの仏たちはこのような実践者のモデルでもあったのです。なお、五仏に対して四妃しかいないのは、中央の阿?(あるいは文殊金剛)のパートナーは、金剛女の中のひとりだからです。また、男尊と女尊では描かれ方には違いがあります。男性の菩薩は天衣(てんね)や条帛(じょうはく)を付ける以外は、上半身が裸ですが、女尊は衣をまとっています。これは日本のマンダラでも同様で、女性の仏には中国の貴族の女性が身につける衣装が見られます。
秘密集会マンダラの、世界を認識の主体と客体に分けてとらえるという考え方は、哲学くさいと思った。仏の姿でもって描かれているけれど、この考えを説明するのに、仏を持ち出す意味があまり感じられない。同じく秘密集会マンダラで、八大菩薩のそれぞれ対応する身体のうち、文殊の「意」とは何のことだろう。意識、心のことだろうか。
「哲学くさく」感じるかもしれませんが、仏教とはそういうものです。釈迦の説いた四諦八正道も、十二支縁起も徹頭徹尾哲学的ですし、中観の空の思想や、唯識の三性説など、哲学以外のなにものでもありません。仏教の論文や研究書の大半は、哲学的な内容です。マンダラが哲学的なのは、むしろ、仏教からすれば当然なのです。私はあまり仏教の哲学や思想をあつかいませんが、それはどちらかといえば少数派であり、マンダラを儀礼や実践から読み解こうとするのも、一般には教理や哲学からの解釈がマンダラ研究の主流だったことへの反発なのです。八大菩薩は眼識から意識までの六識と、摩那(まな)識と阿頼耶(あらや)識という八種の認識に対応します。文殊はこのうちの意識です。摩那識と阿頼耶識は仏教、とくに唯識に固有の認識主体で、深層心理のようなものですが、それとも違います。一度、仏教入門のような本を読んでみてください。仏教がいかに高度な思想や哲学を持っていたかがわかります。
なぜ、限界まで神を増やす必要があるのだろうか。足りないからと言って、ヒンドゥー教の神々まで付け加えることはない気がする。
マンダラの周囲にヒンドゥー教の神々が登場するのは、胎蔵や金剛界でも見られ、マンダラを成り立たせるための重要な条件のような気がします。見方を変えれば、このようなヒンドゥー教の神を周囲に置くことで、はじめて安定的な仏の世界を構築することができたのかもしれません。後期密教のマンダラは、このような異教の神々を必要とせず、まったく新しい発想で仏の世界を作り出したように見えますが、その発展形態であるカーラチャクラマンダラでは、結局、ヒンドゥー教の神々を再び動員して、これまでにない規模のマンダラを作り上げます。そして、これを最後に、新たなマンダラは生み出されず、密教そのものも、インドから姿を消してしまいます。そのような意味で、マンダラの歴史の中で、ヒンドゥー教の神を大量にかかえたマンダラが登場すると、それ以上マンダラは発展できず、一種の限界に達するように見えるのです。そのような意味での「限界」です。
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