アジアのマンダラ・日本のマンダラ

2006年6月19日の授業への質問・回答


九会のマンダラは、各部分みな細かく描かれていて、それが一つとなっているのがすごいと思った。今日配られたプリントは、かなり難しくて、理解するのには時間がかかりそうだと思う。
マンダラはスライドや本で見ると、小さく見えるのですが、実際はかなり大きく、空海が請来した両界マンダラの場合、一辺が4メートル以上あります。ひとつひとつの仏の大きさはそれほど小さくありません。ただし、授業で紹介した西院本は小幅本とも呼ばれるように、請来本の半分ほどの大きさしかありません。その中で、あれほど詳細に描いているのはたしかに驚きです。また、現在地方寺院などに伝えられるマンダラは、いずれも一辺一メートル前後なので、こうなると、各尊の細かいところなどはほとんど省略されてしまいます。前回、配付した資料は、『金剛頂経』の冒頭部分で、金剛界マンダラがどのように出現したかが説かれている部分です。漢訳経典の読み下しなので、ほとんど理解できない内容だと思いますが、ごく簡略にしてしまえば、前回お話ししたような実践法が説かれていますが、逆にそれで悟りが得られるはずはないということを強調しました。文面の内容に加えて、たとえば、宇宙全体の仏を実際に「感じる」ことができなければ、悟りは得られないのです。おそらくそれは、通常の精神状態ではないのでしょう。宇宙全体を体験するといった種類のものなのですから。

金剛が攻撃的なイメージをしているのはよくわかるのですが、文殊は智慧のイメージなのに、剣を象徴としているのは不思議だなぁと思いました。ストゥーパ信仰に興味があります。もっと詳しく知りたいです。あと、とても初歩的ですが、ヒンドゥー教と仏教の関係がよくわかりません。ヒンドゥー教も仏教もインドから生まれたんですよね。
文殊が剣を持つのは、中国で流行したスタイルで、インドではあまり見られません。むしろ、お経を持っていることが多いでしょう。お経、とくに般若経は智慧の象徴にぴったりです(般若とは「すぐれた知恵」という意味です)。中国や日本の文殊が持つ剣は利剣とも呼ばれ、この場合の利は「利口」の利と同じで、賢いとか鋭いという意味です。剣も鋭いですよね。ストゥーパ信仰は杉本卓洲先生の『インド仏塔の研究』が網羅的ですぐれた研究です。わたしも最近、大日如来とストゥーパの関係についてまとまった文章を書きましたが、まだ活字になっていません。出たらお知らせしましょう。ヒンドゥー教はインドの最も重要な宗教ですが、単なる宗教ではなく、生活や行動の規範、慣習なども含んでいます。ヒンドゥー教は「インド教」という意味で、仏教のように特定の開祖によって開かれた宗教ではありません。仏教が徐々にインドで力を失っていった時代、ヒンドゥー教は人々の生活の隅々にまで浸透していきました。結局、インドにおいて、仏教はヒンドゥー教のようには人々の中に根付くことができなかったのです。

このあたりになると、非常に難解で、マンダラを見ていると、なんだか理解しがたい不思議な世界に吸い込まれそうな感じがした。唯一、わかったのが、右回りに進んでいくごとに少しずつ簡略にし、一印会では、大日如来のみになっていく様子が見て取られた点ぐらいである。チベットのマンダラでいくつか4色(赤、黄、青、緑)で分けられたような感じに描かれていたのがあったが、この色分けは何か意味があるのだろうか。
マンダラとはけっして難解なものではないというのが、この授業のウリなのですが、やはり難解ですか・・・。でも、配付資料などを見て、がんばって理解してください。教科書にしてある『マンダラの密教儀礼』は、「はじめてマンダラが涙なくして理解できる」という本です(少なくとも、そのつもりで書きました)。マンダラの背景の色については、授業では取り上げていませんが、中央の色の白を加えて五色で構成されています。これはマンダラの中心にいる五人の仏、つまり五仏の体の色にも対応します。マンダラはカラフルに見えますが、実際はこの五色のみで構成されています。別の説として、マンダラの基盤となっている須弥山が、4種類の宝石でできているため、その宝石の色が描かれているとも言われます。ルビーの赤、ラピスラズリの青などです。

理趣会を概略的でもよいので知りたいです。
理趣会は『理趣経』という経典に説かれるマンダラで、金剛薩?を中尊とします。その周囲の仏は、金剛愛欲、金剛触、金剛愛、金剛慢など、おもに性愛に関する概念を仏にした女尊たちが取り囲みます。これは、『理趣経』の主題が、徹底した現実肯定、とくに性欲の肯定を説いているからです。煩悩即涅槃とも言われ、本来仏教において否定されてきた煩悩が、この経典では積極的に評価されているのです。

水天、風天、火天、地天が、神々の家を支えているように見える様は、ギリシャ神話のアトラスを思い出し、どの世界でも誰かが世界を支えるという観念があるのだなと思った。
水天などの四神は『金剛頂経』では説かれておらず、チベットの金剛界マンダラでも見られません。インドから中国に伝えられる過程で、加えられた要素と思います。たしかに世界を支えているように見えますが、四神がいるのは楼閣の内部なので、世界はその外側にあり、四神もその中に含まれているようです。インドの世界観では、世界はアトラスではなく、象とか亀によって支えられているものがあります。ちなみに中国では亀の玄武ですね。

ひとつのマンダラに九会すべてを盛り込んで、仏の世界を表すことは興味深いのだが、儀礼に使う際には、この大きくて細かいマンダラは、ちゃんと機能するのでしょうか。自分が仏と同化する必要があるのだから、自分がなる仏がわかりづらいと困るのではないでしょうか。もしくは世界全体を示すことで、実感がわいて、よりトランス状態になりやすいのでしょうか。
と書きましたが、やっぱり九会が全部あると使いづらいんですね。とすると、このマンダラは世界を理解するためのマンダラってことですか。
なぜ日本の金剛界が九会の形式であるのかは、よくわかっていません。たしかに、これでは世界全体を把握するのには適当ではないと思いますし、実際、儀礼で用いられるのは成身会に相当する中心部分だけです。おそらく、胎蔵界と対にして用いるようになったことが、この形式への変化と関係があるでしょう。堂内で向かい合わせにこの二つのマンダラをかけた場合、九会の方が胎蔵とバランスがとれるようです。しかし、天台では八十一尊マンダラを胎蔵と組み合わせるので、そのような伝統もあったのですが。結局、よくわかりませんね。

21世紀美術館でアンコール・ワット展があるとのことで、CMでスライドで見たような女性的な仏像が映っていました。考古学的成果に興味があるのですが、そちらにも注目してみてきたいと思います。ストゥーパが骨を入れるものと思っていたので、各地にたくさんあることに疑問を感じていましたが、何となく理解できました(・・・そもそも実際に仏の骨が入っているんですか)。
21世紀美術館でアンコール・ワット展があることは、私は最近まで知りませんでしたが、大学の福利厚生事業のひとつとして、入場券がもらえたので、行ってこようと思っています。金沢でこのようなかなりマニア的な東洋美術の展覧会があるのは珍しいので、楽しみです。アンコール・ワットはカンボジアの代表的な遺跡ですが、世界的にも有名で世界遺産に登録されています。昨年、この分野の日本での第一人者石澤良昭氏の著作を書評で取り上げたことがあり、私も興味があります。女性的な仏像とは、浮彫の女神像か、あるいは王妃の姿をした菩薩像かと思います。カンボジアの文化へのインドからの影響はかなり強く、それを消化した上で、独自の様式に変容していったところも、興味深い点です。ぜひ、展覧会でじっくり見てきてください。でも、どうしてアンコールワットが21世紀美術なんでしょうね。ストゥーパに対する信仰は、仏教のなかの大きな流れとして注目されます。とくに、中に入れられているものが単なる骨ではなく、仏の生きた体であることに関心を持っています。そこから、宇宙に遍在する仏である法身や、大日如来を中心とする密教の仏陀観が出現したことは、興味深いところです。実際に骨が入っているかどうかは、問題になりません。骨がなければ、増やすだけのことですし、骨がなくなれば、かわりにお経を入れてもいいのです。むしろ、骨よりもお経の法が重要という立場も現れます。ストゥーパに入れておけば、舎利は自然に増殖することも、本当かどうかはともかく、広く認められます。

マンダラの具体例についての説明を聞いていると、とても人間的でユーモラスだと感じます。シンボルが仏になったり、ヒンドゥー教の神々を「やっつけ」たり、武力でなりあがったり・・・。「三つのポイント」の一つ目、「世界は無数の仏で満ちている」を表そうとする心意気なのでしょうか。みなに菩提心があり、仏になる可能性を認めているということが、「がんばればできる」という気を起こすのでしょうか。もしかして、日本が他国のように明らかな階層社会になりにくかったのは、このあたりから関係しているのかなと、ふと思いました。
『金剛頂経』の「降三世品」は、たしかにストーリー性があって、おもしろいところです。実際の経典を読んでいただければいいのですが、そこでは自分の力を過信して、金剛薩?に無惨に殺戮される大自在天が登場して、子ども向けのお話みたいです。インドの文化史からもこの部分は興味深いところで、ヒンドゥー教の神話には、これを逆にした、ヒンドゥー教の神々による魔衆の制圧物語があります。順序としては、ヒンドゥー教の神話をベースに、勝者と敗者を逆にしたのが仏教のようです。ただし、『金剛頂経』の中でストーリーがあるのはこの部分だけで、あとはかなり単調な内容です。具体的なマンダラの作り方や、そこで行う灌頂儀礼の説明などが続きます。また、前回紹介したような、独特の瞑想の世界が説かれますが、これも実際のイメージを持っていないものには、ほとんど理解不能です。「すべてに菩提心がある」というのは、日本の仏教の大きな特徴である本覚思想に関連があります。これはインドでは如来像思想ともいわれ、すべての人間はもともと仏となる素質を備えている、あるいはすでに悟っているのに気がつかないだけという考え方です。日本仏教の用語では「山川草木悉有仏性」とか「山川草木悉皆成仏」と表現されます。人間ばかりではなく、山や川のような自然さえも、仏となることができるのです。この背景には「宇宙は仏で満ちている」さらに「宇宙は仏が顕現したものである」という密教の考え方があります。日本における階層社会の欠如と関係があるという指摘はおもしろいのですが、密教も如来蔵思想もインドで成立したので、必ずしも日本の特色とは言えないようです。

宇宙すべてが大日如来なのだから、曼荼羅も大日を表したものということになるのでしょうか。意味がわからなくなってきました・・・。というかすべて大日なら、すでに悟っていることがわかっているんだから、悟るのは当然ですよね、なんだかよけいにわからなくなりました。
そうですね。ふつうの人の考え方ではないですよね。宇宙が大日如来なら、私もあなたも、隣の人も大日如来ですし、麻原なにがしとか、フセイン大統領とか、ブッシュ大統領とか、平気で子どもを殺す大人とか、その逆の少年とかも大日如来です。それどころか、物質も大日如来ですから、机もいすも、パソコンも大日如来です。一気に飛んで、宇宙の果てにある星も大日如来ということになります。とてもそんなことは信じられません。でも、密教やそれを生み出した大乗仏教の考え方では、そう言っているのです。ちなみに、浄土教は密教とはまったく異なる仏教のように見えますが、極楽に往生できるのは、阿弥陀が法蔵菩薩の時に、すべての衆生が仏にならなければ私は成仏しないという誓いを立てたからで、実際にはすでに阿弥陀として成仏してから十劫というとてつもなく長い時間が経過していることになっています。つまり、われわれはもう成仏していることになっています。びっくりしませんか?この論理は実は、宇宙は大日如来という主張とほとんど同じことを言っているのです。


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