アジアのマンダラ・日本のマンダラ

2006年6月5日の授業への質問・回答


簡単に仏像の魂を出し入れできるというのが不思議です。日本の仏像は元来は安置してむやみに動かすものではないということでしょうが、一年ごとに塗り替えて、一年ごとに魂を出し入れする例など、仏の魂に対するとらえ方がどのようなものなのか、疑問を持ちました。
日本で仏像を毎年塗り替えるというのは、あまり聞いたことがないですね。でも、インドやその伝統を受け継ぐネパールやチベットでは、それほど珍しいことではありません。むしろ、仏像が日本のように古びて、古色蒼然となっているのは、「聖なるもの」としてふさわしくないと思うのでしょう。チベットの仏像などは、いつも金ぴかです。仏像は仏なのですから、その身体的な特徴である金色相が、つねにそなわっている必要があるのです。インドでも、毎年とか、何年かに一度とかに、ヒンドゥー教やジャイナ教の神様の像を灌頂し直す儀礼があると聞いたことがあります。大規模なものはインド各地から信者が集まり、新聞やテレビでも報じられるようです。聖なるものにはつねに刷新が求められるということでしょうか。これを知ったときには、灌頂という儀礼が、インドではとてもポピュラーなものだと思いました。ここまで書いて思い出しましたが、私の出身地の滋賀県には琵琶湖の中に竹生島(ちくぶしま)という島があり、そこには弁財天がまつられています。毎年、八月に大規模な法要があり、そのときに近在の村から選ばれた人が、法要の壇越(つまりスポンサー)となるのですが、その都度、新しい弁財天の像を奉納したそうです。現在では経済的な負担が大きすぎるので、めったに新しくは作らず、以前のものを再利用するそうですが、かつて毎年納められていた弁天像が、竹生島にはたくさん残っているそうです。これなどは、ひょっとしたら、像の刷新と関係があるのかもしれません。

「ほらを吹く」のが「法を説く」という意味になるのはおもしろいですね。「ダヴィンチ・コード」を見てきました。正三角形と逆三角形が男性と女性を表すシンボルだということから、話が発展していたのですが、それはキリスト教世界の話だと思っていました。ヒンドゥーでもそうなんですね。
「ほらを吹く」ことについては、他の方からも類似のコメントがありました。いつ頃からそのように用いられるようになったのかはよくわかりません。日本では法螺貝は灌頂で用いることよりも、おそらく修験道の山伏が持つことの方がよく知られています。ひょっとしたら、山伏の中にいいかげんなものがいて、その言動から用いられるようになったのかもしれません(まったく根拠はありませんので、調べてください)。よく似たものに「ごまのはい」というのがあり、「護摩の灰」つまり密教の儀礼の護摩でできた灰を、薬といって売り歩くものが、あちこちで窃盗をしたことから、そのようなものを「ごまのはい」と呼ぶようになったそうです。ダヴィンチ・コードは私は見ていませんが、正三角形と逆正三角形は、おそらく世界のあちこちで見られるシンボルでしょう。ヒンドゥー教でもとくにタントリックな宗派であるシヴァ教やシャークタ派で好まれます。仏教のマンダラにも、その影響を受けたものがあります。同じ形は、ユダヤ教徒を示す「ダヴィデの星」としても知られていますね。

灌頂という通過儀礼の話を聞いて、「儀礼」そのものに対する根本的な疑問を持ってしまった。弟子(仏像)に対して、灌頂や完成式を行うものは、しょせん人間である。人間が手を加えた行為によって、はたして俗なるものが聖なるものへと変化しうるのだろうか。儀式を行う人間が、聖なるものだというのなら、結局さかのぼっていけば、単なる人間がその儀式を行うことになるのではないだろうか。これらの考えから、儀礼とはそれを行うものが仏でない限り、俗なるものから聖なるものへと変化させることができないという考えにたどり着いた。もちろん、この考えが適切なものとは思えないし(適切だったら、いかなる宗教においても、儀礼が存在しなくなってしまうからである)。したがって、私の解釈にいかなる矛盾があるかを教えていただきたい。
別に矛盾はありません。儀礼はそのようなものなのです。儀礼に限らず、宗教とは頭で合理的に考えられるものではなく、心に関わるものです。儀礼を行うことで何かが変化すると信じるのは、実際に変化するかどうかではなく、それを信じるか信じないかによります。儀礼を行う人がただの人間であるのか、あるいは神や仏が宿った人であるかも同様です。もっとも、多くの儀礼の場合、ただの人であっても、とくに問題はありません。儀式や儀礼という特定の状況では、行為やことば、あるいはそれに用いられる道具や装置などに、特定の働きがあると、多くの人が信じています。たとえば、七五三や厄年のお参りを神社で行うと、お祓いを受けたり、祝詞(のりと)を唱えてもらったりします。それを唱える神主さんなども、たいていただの人でしょうが、それをしてもらうことで、悪いことがなくなったり、幸せや健やかな成長がもたらされると、多くの人は信じているでしょう(あるいは少しは期待するでしょう)。灌頂のような密教儀礼の場合、阿闍梨に神をおろすというようなプロセスがあるので、かえって、儀礼とはそのようなものだと思われるかもしれませんが、これはきわめて特殊な儀礼なのです。神がつくとか神が宿るというのも、また別のレベルで、実証不可能な心の問題です。ちなみに、わたしは仏像やマンダラの授業が多いのですが、一番、専門的にやっているのは後期密教の儀礼研究です。儀礼についての質問は大歓迎です。

「仏の魂を抜く」というお話で、具体的にどのような儀式(?)をするのかということが気になりました。また、再び魂を入れる儀式は、灌頂と同じで、頭に水を注ぐということなのかと思いました。あと、シュリーヤントラとかコーラムとかは、マンダラとどう関係しているのかよくわかりませんでした。
日本仏教で魂を入れたり抜いたりする儀式は、私もよくわかりません。おそらく宗派によって異なると思いますが、開眼作法などに、灌頂と共通する要素があるのではないかと思っています。スライドで紹介したネパールでは、あきらかにプラティシュターやアビシェーカと同じ構造です。水の壺から水を注ぐプロセスが必ずあります。シュリーヤントラやコーラムは、円や正方形の幾何学模様や、花のデザインを基調とするところが、マンダラに共通し、しかも、そこに神を招き寄せる「よりしろ」のような役割をするところも同じです。密教のマンダラは、このようなインド世界の「神のよりしろ」が、独特の展開をしたものではないかと思っています。日本のマンダラではなかなかそのようには思えませんが、チベットに残るマンダラには、仏の姿を描かずに、丸い印などでその位置を示しただけのような、シンプルなものもあります。また、マンダラの門や楼閣の表現は、ヒンドゥー教のヤントラにもほとんど同じ形のものが見られます。

マンダラの話をするとき、つい「構図」ということばを使いたくなってしまうのですが、先生が「構造」という語を使っているのに気づき、そういえばマンダラは建物のようにとらえられるのだったと思い出しました。
そういわれればそうですね。たしかに私は「構造」ということばはよく使いますが、「構図」はほとんど使いません。絵画や写真では「構図」というのがふつうですが、マンダラの場合、たしかに構図ではしっくりこないようです。無意識のうちに立体として見ているのでしょうね。

アスファルトに花の模様が描かれているスライドなどを見て思い出したのですが、昨年、インドネシアのバリに旅行した際に、朝市で葉で作った皿に花々とお米を入れたものが大量に売られていました。バリの人々は朝市でその花皿を買い、玄関や車にお供え物として置くそうで、町やホテルのあちこちで、その花皿を見かけました。仏教や密教が伝わっている地域では、「神」と「花」とに密接なつながりがあるのだなぁと感じました。
バリにはヒンドゥー教が早くから伝わり、現在でもバリ・ヒンドゥーとして根強い信仰があるようです。葉っぱのお皿に花や米などの穀物を供えるのは、インドで広く見られ、ヒンドゥー教のお供えの方法です。もともとは民間信仰的な儀式で、プージャーと呼ばれます。仏教も早くからこれを取り入れ、花や香、灯明や線香をお供えしました。日本の仏壇やお墓のお供えも、基本的にはこれらを踏襲したものです。

インドでは原始的なマンダラの形のような「よりしろ」がよくあるということですが、日本ではあまりないことのように思えます。日本では「仏壇」など、聖なる空間(?)が屋内に限られていると思うのですが、インドでは、家そのものを囲むという意識があるのでしょうか。
日本の仏教にはたしかに「よりしろ」(依代)に当たるものはあまりないようです。仏壇がそれに相当するかもしれませんが、たとえば、浄土真宗の仏壇は「よりしろ」というよりも極楽浄土をイメージしたものです。むしろ、神道で「よりしろ」に相当するものがあるのではないでしょうか。屋外で盛り土をしたり、祭壇をきずいて榊をたてたりします。「よりしろ」ということば自体、神道で用いられていると思いますが、私もよくわかりませんので、一度調べてみてください。

千手観音菩薩と金剛蔵王菩薩は構図(?)は似ているが、絵の表情が全然違う。なぜこのように似ているが、まったく違う二種類の絵があるのであろうか。
この絵について、前回はまったく説明ができませんでした。胎蔵曼荼羅(現図)では、この二尊は蘇悉地院に描かれていますが、実際は中台八葉院の左右にある蓮華部院と金剛手院にそれぞれ属している仏たちで、スペースの都合で、下に出されたようです。胎蔵マンダラの中でもとくに大きく描かれている二尊なので、その雰囲気を知ってもらうために、コピーを付けました。塗り絵で楽しんでもらってけっこうです。どんな色でもいいですが、曼荼羅には彩色本もあるので、参照すると本物っぽくなります。


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