アジアのマンダラ・日本のマンダラ

2006年5月15日の授業への質問・回答


インドと日本の宇宙観・世界観は、それぞれ、空間・時間に重きをおくということですが、そのような違いは大きく現在にも影響しているのでは、と思いました。条件はいろいろ異なるとは思うのですが、日本が大胆に明治以降、西洋化できたのは、時間中心の世界観を持っていたからなのでしょうか。西洋の持つ進化論になじむことができる素地があったというか。キリスト教などでは時間に重点が置かれているのですか。
インドと日本とを対比させると、時間と空間の重視の違いが異なることをお話ししましたが、ヨーロッパのことはあまり念頭にありませんでした。キリスト教ではどうなのでしょうね。終末論やキリストの復活などのことを考えると、時間を重視していたとも思いますが、現代の宇宙論は、基本的に西洋近代科学が生み出したもので、その背景には神学や哲学があったはずです。ヨーロッパにおいて哲学的な意味での「世界」が、つねに重要な問題として扱われたことも関係すると思います。進化論は純粋に時間的な変化を問題にしているのではなく、このような世界観やコスモロジーにもとづいた考え方ではないでしょうか。日本で時間が重視されていたというのは、明治以降も変わらなかったという指摘は興味深いです。ただ、私の念頭にあったのは平安や鎌倉といった古代、中世の日本人の発想で、授業で紹介した宗教美術以外にも、文学の世界などがあげられると思っています。たとえば、小野小町の「花の色はうつりにけりな・・・」や、在原業平の「月やあらぬ・・・」の和歌などを連想します。

仏の数が足りないから、新しい仏をでってあげなくてはならなかったという。よくわからない。私の考えからすると、数が足りないよりも、仏をでっちあげる方が、よっぽどとんでもないことに思える。そうまでして、数を増やしたかった理由は何なのであろう。なぜ、それまでの胎蔵曼荼羅ではあり足らず、金剛界曼荼羅が作られたのかという疑問でもある。
前回の感想では「仏をでっちあげる」という表現に、疑問を持った方が多くいました。「仏の数をふすために、人工的に作る」という程度にすべきだったかもしれません(同じこと?)。それはともかく、増やした理由は二つあります。仏の世界を表すマンダラは、特定の経典にもとづくのですが、そのような経典が新たに生み出されるとき、独自性や権威を持たせるために、大規模なマンダラを好んで「創作」します。あるいは、それまでには知られていなかったような仏に、がらりと入れ替えます。その背景には従来の仏教や、他の流派との対抗意識もあったのでしょう。そして、そのようなマンダラでは、新しく生み出された仏は、中尊以外はグループを構成することが多いのですが、幾何学的な配置になるように、4の倍数であることが一般的です。これは、前回のコスモロジーとも関係して、インドの宇宙は幾何学的な構造を持ち、左右上下がシンメトリーになるためです。これに対して、日本で生み出されたマンダラは、幾何学的なコスモロジーを前提としないので、登場する仏の数を4の倍数にする必要がありません。山や建物などの中に適当に配置すればよかったからです。

インドにおいてみられる世界観が、日本においてなじまなかったというのが興味深かった。おそらくそれは、日本ではアニミズムと結びついた信仰が根付いていたのが原因だと思う。
たしかにアニミズムを理由にすることは可能だと思います。ただし、私自身はあまりアニミズムというとらえ方が好きではないので、授業でもほとんど用いません。それですべてが説明できてしまうようで、かえって、日本の宗教の本質を見失うような気がするからです。アニミズムという用語そのものは、本来、人類学で用いられていたもので、「アニマ」に由来しますが、それは20世紀前半ころまでの人類学で、最近の人類学ではあまり重視されていないのではないかと思います。アニミズム的な思考は多かれ少なかれ、あらゆる文明に見られます。インドの宗教やヨーロッパの宗教をアニミズムといっても、別に間違いではないでしょう。既成の概念を知ることは重要ですが、それを分析概念とするだけでは、なかなかオリジナリティーが生まれないのではないでしょうか。

インドに四季はあるのでしょうか。時計は12時間を2周して1日になります。午前と午後には分けられるけど、4つに分けることはないと思います。4つの顔、12の腕が四季やなんかに対応すると考えられるのは、日本的ではないでしょうか。脇侍のターラーはかわいらしかった。
ご指摘のとおり、インドでは季節は4つではなく、雨季と乾季を入れて6つですね。四面十二臂が時間と関係するかどうかは、たしかに論証困難ですが、時間を表す数字が六十進法を基本とすること、その場合、4や12は時間の単位として重要であること程度のことを考えています。時間が十進法ではないことは不思議ですが、六十進法にすることで、公約数がたくさんでき、時間のサイクルを分割したり、まとめたりすることが便利になるのでしょう。その反対に、公約数を持たない素数も、時間には関連するようです。曜日を表す7もそのひとつでしょう。昨年話題になった本に『素数ゼミの謎』というのがあります。アメリカで大発生するセミを取り上げて、繁殖の周期を素数にすることで、種が絶滅する危機を乗り越えたという話です(くわしくは本館にあるので読んでください)。これらを見ますと、生物が生き続ける(つまり時間の流れの中にある)ということは、数が重要な意味を持つことがよくわかります。

インドでは空間の方が重視されるというのは、ジャータカの作例などにも表れていますね。ただそこに時間も合わさるという感覚がいまいちつかめません。時間→車輪という表現も不思議ですが、回ることで、時間、車輪自体が空間だと考えればいいんでしょうか。マンダラの仏が正面を向いているのは、シンボルを目立たせるというか、わかりやすくするのにも役立つのかなと思いました。
インドでの空間重視の話は、インドのジャータカの図像を取り上げると必ず言及していますね。コスモロジーで、時間をも含む空間といったのは、それほど複雑なことを考えているわけではなく、初禅、二禅、三禅といった空間の構造の中に、大の三災という時間のサイクルが連動しているという程度です。そのようなサイクルは表現されなくても、空間の構造が潜在的にそれを表していると思っています。車輪が時間のシンボルというのは、むしろ車輪が太陽の象徴として扱われ、太陽が時間と結びついているからです。マンダラの仏が正面を向いているのは、わかりやすくするためという理解でいいのですが、それは儀礼を行うものにとってです。彼らは儀礼において、瞑想の中で仏と対面するので、横を向いたり、斜に構えた仏では困るのです。密教の仏画はほとんどが真正面を向いて描かれますが、それも同じ理由です。

マンダラの中にヒンドゥー教の神々が描かれているという点にたいへん興味を惹かれました。「中心部分の仏たちの存在を引き立たせるために、ヒンドゥー教の神々を周辺部に配置した」とご説明がありましたが、とくに多用された神や、ヒンドゥー教の神々を利用する際の規則性などはあったのでしょうか。
ヒンドゥー教の神は引き立て役であるのですが、実質的にはヒンドゥー教の神がいなければ、マンダラは成り立たないほど重要だと思っています。ヒンドゥー教の神々の世界を前提にして、そこに仏の牙城をなんとか作っているという感じです。ヒンドゥー教の神を大規模に導入するマンダラは、ある種の法則をもって出現するのですが、それについては、インドにおけるマンダラの歴史の中で紹介しましょう。

・キリスト教でも「七」という数は特別な意味を持つものとして多々使用されるが、仏教においても「火災を七回繰り返す」といったように「7」が多く出てくるのには、何か意味があるのだろうか。そもそもなぜ「七」という数は特別な数とされるのだろうか。
多くの文化において、7は全体を表す数のようです。これについては私の『インド密教の仏たち』の第2章でも取り上げています。
・ひとつのマンダラで幾多の空間(須弥山世界)を含むというクロスオーバーはとてもおもしろく、「ひとつで宇宙を表す」という意味が理解しやすくなった。
・マンダラに比べて十界図のような日本人の世界観はとても人間的で、親近感を持ちやすい。私も日本人なんだなぁと感じた。
・熊野観心十界図に見られる赤と白の月(太陽?)は、なぜ色分けがされているのだろうか。もしくは太陽と月の療法が単に描かれているだけ?
赤が太陽、白が月です。おそらく赤が胎蔵界、白が金剛界のマンダラを表し、両部不二という概念を表しています。
・蓮や車輪など、ディテールがきれいに見ることができないのは非常に残念だ。やはりマンダラは実物を見た方がよいなぁと思う。圧倒的な雰囲気などは、やはり実物に限る。
それはたしかにそうです。どんな写真やスライドも、実物にはかないません。授業で実物をお見せできればいいのですが・・・。マンダラの歴史のところで、もう少し細部までわかる写真を準備しましょう。チベットのマンダラの図録などは、私の研究室や比較文化の研究室にかなりありますので、いつでもどうぞ。
・ヘーヴァジュラ9尊マンダラはとても躍動的で、見ていてとても楽しい。このようなマンダラはあまり作例がないのだろうか。
ヘーヴァジュラ・マンダラはチベットに多くの作例があります。とくにサキャ派と呼ばれる宗派がヘーヴァジュラを重視したため、サキャ派の寺院に多く伝えられます。
・牡牛座や山羊座などが神として登場するということは、ギリシャ的な星座の観念が入って来ていたのだろうか。もしくは元来、ヒンドゥー教のものであったものが、ギリシャなどにもたらされたのだろうか。
インドやヨーロッパの占星術(天文学)の起源はアラビアあたりにあるようです。同じところから伝わったので、同じ星座が用いられます。日本にも密教経典とともに伝来していて、たとえば、星曼荼羅と呼ばれる日本のマンダラには、十二宮がすべて登場します。平安貴族もわれわれと同じ星座を使って星占いをしていたのです(もちろん、今のようなものとは違いますが)。

降三世明王の足許にいるヒンドゥー教の神というのが気になった。ヤクシャや動物に乗っている図像は見たことがあるけれど、明王の下にいる神とは誰のことなのだろうか。
大自在天というヒンドゥー教の神と、その妻である烏摩妃です。彼らについては金剛界マンダラの構造のところで説明しますが、くわしくは『インド密教の仏たち』の第7章を読んでみてください。

宇宙のサイクルに「空劫」という無の期間があるということに、「ゼロ」を生み出したインドらしさを感じた。やはり「無」という状態に重きをおいていたのだろうか。
そうでしょうね。ちなみに仏教では「空」と「無」を別なものとして扱います。空(.zuunyataa)は実体がない、存在するものが何もない、物事にはその本質となるものは存在しないことなどをいいます。これに対して、無(abhaava)の場合「何もない」ということが実在します。無が存在するから、われわれは「無い」ということを認識できるのです。すべては空と見なした場合、無も存在しません。『般若心経』の「色即是空」の空です。


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