アジアのマンダラ・日本のマンダラ
2006年5月8日の授業への質問・回答
世界の面積、距離などが細かく数字まで決められている感覚が、私たちにはわからないものだなと思いました。図式がいろいろありましたが、どれも見たことあるなと思ったら、教養で受けたときの記憶でした。私たちのイメージする宇宙も、地球のある太陽系以外にも同じような宇宙があるという説もあるし、蓮=宇宙とか、宇宙は部分でしか表せないというのに通じるものもあると思いました。蓮の上に毘廬遮那仏がいるということは、仏=宇宙ということなんでしょうか。他にも仏はいるから、仏の数×無限に世界があることになるのでしょうか。
授業で紹介した仏教のコスモロジーは、『倶舎論』(くしゃろん)という文献に書かれているものです。これは仏教の中のアビダルマと呼ばれる学派の基本文献で、その中の「世間品」という章にのっています。アビダルマとはダルマを分析するという意味で、この場合のダルマとは「法」だけではなく、あらゆる存在物も含む森羅万象です。そこでは悟りもダルマになります。アビダルマは徹底した分析哲学を特徴とし、世界の構造もこのように数値に置き換えられます。当時のインド人がみんなこのように宇宙をとらえていたわけではもちろんなく、知的レベルの高い僧侶という非常に特殊な人々が考えた宇宙の姿です。しかし、それでもインドで生まれてコスモロジーとして重視されるのは、彼らの思考の枠組みのようなものがそこに認められるからです。日本ではこのような緻密な、あるいは数字に換算できるようなコスモロジーは生まれませんでした。前回の残りのスライドにあるように、それはたとえば身近な自然の景観を用いたものであったり、時間の変化を前面に出したものです。なお、授業で紹介した図は、ご指摘のとおり、教養の授業(密教美術の世界)でも使っているものです。教養の授業に出てくれた方には、すでにおなじみの内容でしたね。図の出典は定方晟『須弥山と極楽』講談社です。この本は、授業でも紹介したように、私のはじめて買った仏教関係の本の一冊で、高校1年生のころでしたが強烈な印象を受けました。今でもよく使うのは、それが原点のようなものだからでしょう。ただし、定方氏の著作も先行研究に負っている部分があり、小野玄妙仏の『仏教世界観』大東出版社(1936)がとくに重要です。質問の終わりの方の「仏の数×無限に世界がある」のはそのとおりですが、その中で毘廬遮那は別格です。毘廬遮那はあらゆる存在物、あらゆる現象の背後にあり、それを成り立たしめている真理なので、法身(ほっしん)と呼ばれます。仏=宇宙は毘廬遮那にのみ当てはまります。無限に存在しているように見える仏たちは、すべて毘廬遮那の仮の姿でしかないのです。
私たちの抱く宇宙のイメージの中に、私たちが存在しないことが問題という話でしたが、そのイメージを抱いているのが私たち自身であるという事実は、それには関係ないのでしょうか。
デカルトの哲学のようですが、インドではすこし考え方が違うようです。彼らは、宇宙全体を観察する、あるいは思考する存在として私たちが存在するから、宇宙の中には私たちは含まれていないとは考えなかったでしょう。そのような世界の観察者は、世界とは別に存在する神のようなものですが、インドでは神そのものも宇宙の中に含まれるという考えが一般的でした。ウパニシャッド哲学以来のインドの思想では、世界を一元的に説明するのが主流で、その場合、神が宇宙そのものとなります。キリスト教的な、創造主としての神と被造物としての宇宙という対立的な図式はとならないのです。わかりにくいかもしれませんが、これがインドの思想の基本です。
本能のない色界や、仏界というのは、具体的にどのようなものなのかイメージがわきません。むずかしいです。「悟りの世界」はどこからのことをいうのですか。
私もイメージがわきません。本能のない世界は色界から上ですが、われわれ人間の楽しみが、基本的に本能の存在を前提とし、その体験から享受するものですから、色界や無色界でそれを超えた楽しみがあっても、想像できないでしょう。日本では六道絵といって、六道輪廻の世界を描いた絵画が数多く作られました。六道絵のひとつに天道すなわち天の世界があり、それは六欲天以上の欲界と、色界、無色界のすべてを含むのですが、実際は六欲天の部分しか描いてありません。具体的には、阿修羅と戦う帝釈天とか、かつての若さや容貌が衰えて、嘆き悲しむ天の者たちの姿を描き、天の世界でも無常のことわりから逃れることはできないことを表しています(後者は天人五衰と呼ばれています)。画家にとっても、色界から上の世界をイメージすることは困難だったようです。なお「悟りの世界」は輪廻を超えた世界ですから、三界とは別です。我々の感覚を超えた世界であり、われわれの理解できるような構造を持っているわけではないので、「無色界の上にある」というような表現をとることができません。
本覚思想は他の授業でも多々扱われているが、本覚思想のはじめは「石や植物でも、悟りを開くことができる」だったと思う。それがゆがんでのちのち伝わっていったのだろうか。
べつにゆがんだわけではなく、一貫しています。ただしそのためには「現象世界のすべてのものは、それ自身が真実である」という定義が前提となります。これは諸法実相(しょほうじっそう)と呼ばれます。その上で、「すべての生きとし生けるものは、仏となる資格がある」(一切衆生悉有仏性)となり、さらに「すべてのものは仏である」(山川草木悉皆仏性)となります。これは天台の思想の基礎であり、そこから日本の仏教のさまざまな思想が展開します。単に「石や植物でも悟りを開くことができる」と言うと、すべての存在物には魂が宿っているという「アニミズム」的な思考ですが、「現象世界のすべてのものが真実である」というのは、上にも述べたような「世界はそれ自体が神である」という一元論的な世界観になり、インドの思想にもつながります。なお、アニミズムという言葉はかなりよく知られているようで、日本の宗教を説明するときにも用いられますが、このような日本仏教の思想を過小評価させることになり、私はあまり好みません。
私は宗教とは感覚で感じるものだと思っているのだが、こうも理論的、説明的に密教の世界を表現されると変な感じがする。人間はあまりにも賢すぎるから、不思議なものやことに対しても、納得する何かがほしいのであろうか。理論と悟りとは、相反するもののようにみえるが・・・。布教する場合、相手を説得するために、あるいは自分で自分の行為、信じる教えを正当化するために、具体的な数や理論が必要なのだろう。でなければ信じられないのだろう。逆に教えの世界(宇宙)をイメージできないのは、ものすごい広い世界だから当然なのだという風に、へんに納得させる効果もあるのでは?宗教を信じていく人の心の変化の過程を研究するとおもしろいことがわかるかもしれない。逆に、心に着目して教理の成立過程を見ていってもおもしろいだろう。
基本的に宗教は心の問題なので、感覚で理解したり、心の変化のレベルでとらえることが適切というのは正しいでしょう。しかし、インドでは思想や哲学が宗教と密接に結びつき(これはインドに限らないでしょうが)、きわめて形而上学的、観念的になります。存在しないものや眼に見えないものに対して、インドの人々は徹底して考察することを古代から好みました。彼らにとって相手を説得することはきわめて重要で、むしろ論破することを最大の目的とすることさえあります。彼らの著した哲学書のほとんどは、他学派や他の宗教への論争という形式をとり、その論破のプロセスすなわち論証過程を縷々述べています。このあたりは日本人的な、議論をあいまいなまま終わらせるような立場とはまったく異なります。
マンダラが灌頂に用いられる装置であるというのはわかったが、そのように大切な儀礼に使われる装置であるなら、誰もが作ってもよいようなものではないように思われた。どのような人によって作られているのか。やはり阿闍梨などの手によって作られるのだろうか。
マンダラを作るのはお坊さんたちで、阿闍梨が指導します。輪郭線を引くのは阿闍梨自身で、弟子が一人加わります。色の付いた粉を置いていくのは、根気のいる作業で、時間もかかりますので、弟子たちが協同で行いますが、中尊の一部となる最初の粉は阿闍梨が置くようです。また、できあがったマンダラに魂を吹き込む(仏たちをおろしてくる)のも阿闍梨です。密教においては、先生に当たる阿闍梨は、このようにきわめて重要な役割を果たします。この伝統は密教が伝わった日本でも、あるいはチベットやネパールでも同様です。
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