南アジアの仏教美術

2006年1月26日の授業への質問・回答


授業の終わりに当たって

 「南アジアの仏教美術入門」というこの授業も、前回で終わりました。インドを中心に代表的な仏教美術を紹介してきました。それと同時に、あるいはそれ以上の時間をかけて、仏教美術を成り立たせている考え方や、インドの思想についてもお話ししました。その背後には「聖なるものはいかにして表現が可能か」というテーマが、つねに意識されていました。このような抽象的な話はわかりにくいという感想もしばしばみられましたが、それがなければ、単なる「インドの仏像鑑賞会」になってしまいますし、それならばNHKの番組などの方が、ずっと上手に作ってあるでしょう。以下の質問等への私のコメントにもありますが、このようなテーマの授業で、聞いたことがすべて理解できたり、納得できるわけはありません。わからないことを考えるのがおもしろいのです。皆さんそれぞれの関心にしたがって、授業の内容を反芻して、今後の研究に何かヒントになればいいと思います。
 今年度のこの授業は、教育学部の科目にもしていただいたので、教育学部の方が大勢、受講してくれました。教育の方たちの出席率が高いことや、中途で放棄する人がほとんどいなかったことには感心しました。法学部、経済学部の方も何人かいて、いずれも熱心に受講してくれました。もちろん、7割ほどは私の所属の文学部の皆さんで、文学部ならではの斬新な質問やコメントで、いろいろ刺激を与えてくれました。
 今回の「質問と回答」は、最後なので、全員の方のものを掲載しました(掲載不可に印が付いている場合はとりあげていません)。作業を始めてわかったのですが、100人近くのものを入力するのは、なかなかたいへんでした。その分、わたしのコメントはあまり長くありません。
 インドをはじめ、仏教美術は壮大な世界です。授業で取り上げたのはそのほんの一握りにすぎません。これからも関心を持つ続け、作品に接する機会を作っていただければと思います。

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ボロブドゥールの回廊はどれも大きくて、制作するのがたいへんだったと思いますが、下書きのようなことは行なったのでしょうか。正方形にブロックしてありますが、制作を分担するためか、組み立てやすくするためか・・・気になりました。
ボルブドゥールの実際の制作のプロセスについては、私は知識がありません。インドの例から考えると、簡単な略図のようなものは作るでしょうが、あとは棟梁の指示で作業が進められたのではないかと思います。

今日、はじめて「うつし巡礼」ということばを知りました。特定の地域の寺院に置き換えるとありましたが、たとえばどういった寺院が置き換えられるのでしょうか。個人で決めてしまっていいものなのでしょうか。
古いものはそれなりに由緒がありますが、最近でもあちこちに生まれています。その場合、個人というよりも、その地方の有力寺院や有志が決めて普及させるようです。北陸にも北陸三十三観音という、西国三十三カ所の北陸版がありますが、これもこの地方の仏教会のようなところが、1981年に作ったものです。

この講義は内容がむずかしくてついて行けないときもあったが、仏教美術のスライドや講義前のスライドショーは、見ているだけでおもしろかった。高校時代に見た絵や図がたくさん載っている日本史の資料集が、ふと思い出されました。
一部の内容が理解できないことは、私の説明不足もありますので、別にそれほど気にしないで、わかった範囲で、自分の研究に役立ててください。

私はアンコールワットに行ったことがあるのだが、それぞれ一面の壁画にストーリーや意味があって感動したのだが、ボロブドゥールも同じなのだと知り、行ってみたいなぁと思った。しかし、本当にあれだけの壁画の彫刻に、いったい、どれだけの月日と人間を要したのかと思うと、気が遠くなる。すべての壁画を見ていたら、どれだけの時間がかかるだろうと思う。それだけすばらしいものだった。
私はアンコールワットに行ったことがないので、機会を見つけて行ってみたいです。ボロブドゥールはインドネシアのジョグジャカルタから、車で一時間ほどです。じっくり見るなら一ヶ月ほどは要るでしょう。

今さらながら思ったが、無数の仏が釈迦の後に涅槃に入っただろうはずだが、釈迦以上あるいは同等の地位(扱い)になるものはいないように思える。少なくとも、人間として確認され、悟りを開いた釈迦がそうした仏の中では最高位の扱いを受けているように感じる。それはやはり、彼が最初に悟りを開いたからだろうか。今後、彼以上の仏は現れないのだろうか。
無数の仏が現れるのは大乗仏教の特徴のひとつですが、その場合、われわれの世界に次に現れるのは弥勒で、ずっと先の未来です。また、阿弥陀や薬師は別の世界の仏なので、釈迦とは別扱いです。

ボロブドゥールや、そのストゥーパは高校の時の世界史で習った。授業で習うほど有名で、歴史的価値のあるものだということだ。僕はそういったものを間近で見た経験があまりないので、ヒマとお金があれば、いろいろ見に行ってみたいと、この授業で感じさせられました。自分の感性に大きく影響を与えてくれそうです。
ぜひいろいろ見に行ってください。

生物界を利用しての部分と全体の説明がありましたが、古代インドではそんな考えがされたとは思いにくいのですが、どんな風に考えられていたのでしょうか。
もちろん、古代インドの人々に、近代的な生物学的な知識があったわけではありません。言いたかったのは、部分と全体が同じというインド的な考えは、理解不能と思われるかもしれませんが、むしろ、現実の世界ではあり得ることだということです。古代のインドの人々は、そのことに直感的に気づいていたのでしょう。

あの巨大なボロブドゥールに、複数存在する回廊すべてに、壁画や石の彫刻がなされているということは、その数はとてつもなく膨大なものなのだろう。そう考えると、仏教美術の壮大さは計り知れない。
それを研究する人もいるのですが、なかなかたいへんです。

今日でこの授業も終わってしまいました。インドの仏教美術という自分にとってなじみのない授業だったせいか、インドでとらえられていた宇宙観などは理解に苦しむところがあった。レポートに取り組むことで、仏教美術に対して、多少なりとも理解を深めて行ければいいなぁ。
そうですね。レポートを役立てて下さい。

インドの作品もおもしろいですが、東南アジアやチベットへの影響を見るのも、やはりおもしろいですね。それがまた中国を経て日本で、私たちが見ることのできる作品につながっていると思うと、仏教文化の力強さを感じずにはいられません。
インドやチベットのものを見てから日本の仏像を見ると、ほっとするところがあります。そこにつながりが見いだせるのは、たしかに興味深いところです。

やはり巡礼というのは、聖地ではなく、聖地に行く過程が大事にされていたのだと思った。聖地に行くまでに苦労することで、自分の信仰心を試す役割も巡礼にはあったのではないだろうか。
もちろん、そのようなまじめな(?)巡礼者もいたでしょうが、一般の庶民にとっては、巡礼はイベントであり、お参りすることだけではなく、そのあとの精進落としのようなものも楽しみだったでしょう。

お釈迦様が下のレベルの仏ということにされていたり、上のレベルの仏が女性を抱いていたりという日本の仏教のイメージとずいぶん違っていて意外だった。
そうでしょうね。最近、このあたりの仏教を詳しく説明した『インド後期密教』(春秋社)という本が出ました。日本人には信じられないような仏教の世界が、そこでは繰り広げられています。私も一部書いていますので、一読をおすすめします。著者割引(定価の2割引)で販売もしています。

仏教における「巡礼」の意義というものは、大きなものであると感じた。
仏教以外でも、たとえばイスラム教でも重要です。

・インドでは巨大建造物がないというのは意外でした。「部分が全体」という話はむずかしかったですが、生物学の例を聞いてなるほどと思いました。
・宇宙全体をあらわす建造物として、インドには存在していないということが、とても驚いた。
これは少し誤解を招く説明をしたようです。宇宙全体を表す建造物はインドにもあるのですが、その場合、東南アジアやチベットと異なり、巨大化や、細部の詳しさでそれを表すのではなく、むしろ単純化していることに、注意を向けました。また、巨大建造物には有名なタージマハールがありますし、各地のヒンドゥー教寺院にも、ボロブドゥールに匹敵するような巨大なものがあります。

巡礼の「直線的」の意味が少しわかってきました。図形を描くことを考えているのではなく、ただ目的地をめざしているということですね。また、時間のことについて触れていた資料も納得できました。
そういうことです。

ボロブドゥールは前にS先生の論で映像を見たことがあります。ジャングルの中に突然どかーんとあってびっくりしたし、当時はジャータカとか〜界とか知らなかったので、すごくふしぎなものに見えました。降魔の魔衆に怪物的なのはいないけど、かわりに動きが大きくておもしろいですね。チベットの方で、スライド27のパドマジャーラの手のひらが赤いのは、何か意味があるんでしょうか。最後のまとめの話はすごく納得した気分です。発生が関係あるかはわかりませんが・・・。
わたしもボロブドゥールに行くまでは、ジャングルの中に埋もれた古代遺跡というイメージだったのですが、実際に行ってみると、それほどまわりは密林に覆われているわけではなく、むしろ、巨大な空き地にどーんと立っているという感じでした。パドマジャーラに限らず、チベットの仏像は手のひらを赤く塗っています。これは、チベット人が実際にそうなのですが、手の甲に比べて、手のひらは異様に赤く見えます。

たしかに仏に見えない絵が多かった。
慣れるとだんだん仏にみえてくるのですが・・・。

ペンコル・チョルテンの第7層の妻を伴った仏の壁面で、夫妻が同じような顔をしていました。顔はどうでもよかったのですか。妻も仏で、仏は同じ顔なのでしょうか。または、あの顔がもっとも「良い顔」で、だから二人とも同じ顔なのでしょうか。また、妻を伴うことに、どういった意味があるのですか。
仏の夫妻が同じ顔をしているのは、文献にそのように規定されているからです。「良い顔だから」というのは、それに近いかもしれません。ちなみに、人間も夫婦が長いと、だんだん同じような顔になっていくという説もあります。毎日同じものを食べて、同じところに住んでいるのですから(どうでもいい情報ですが)。妻を伴うことの意味は、簡単に言えば、密教では女性を修行のパートナーにするからです。このあたりのことは、上記の『インド後期密教』で詳しく説明してあります。

もともとはすべてインドから発した仏教であって、しかも建物が層になっているという構造も同じであるにもかかわらず、上位、下位の仏が国によって違う。しかも、チベットでは、日本では仏とは逆に感じられるようなものが上位に来ているのは、それぞれの国自体の文化を少なからず反映しているのかと思った。
たしかにそうなのですが、チベットの場合はむしろ、インドの伝統を忠実に受け継いだからです。

聖なるもののイメージは、人を超越したもので、神や仏、預言者といったものや、崇高なるものといった感じである。ある意味でそれらは、聖なるものと言うだけあって、人間の生を操り、性のシンボルとされることもある。聖、性、生といった観点からレポートに取り組みたいと思う。
期待しています。

ボロブドゥールの四角と円でできているのを見て、なんだかマンダラみたいだなぁと思いました。国によって仏のレベルが変わるのはおもしろいと思いました。国ごとに重要視するところが違うということでしょうか。チベットの仏はビンディー?おでこにあるやつがすごい強調されている。まわってるうちに迷子になる→自分がどこかわからなくなる→建物に取り込まれる→聖との融合って連想したんですけど、考え飛びすぎですか。
ボロブドゥールは実際に「立体マンダラ」と説明されることがありますが、厳密な意味での密教のマンダラとは異なります。マンダラが「宇宙モデル」ということであれば、マンダラと呼んでもいいのですが・・・。最後の連想はおもしろいのですが、自己についての認識があいまいになることから聖なるものと一致するという方向性は、インドやチベットの聖なるものとは異なるでしょう。実際、参拝に来ているチベット人は、建物を回ったからといって、聖なるものと一体になったとは思っていないでしょう。

インドとインドネシア、チベットの仏教のとらえ方の違いがよくわかった。でも、全体を重視する考え方も、部分を重視する考え方も、どちらも良い面、悪い面あるように思った。
そうでしょうね。良い悪いというより、どちらがしっくりくるかということでしょう。

チベットの仏塔で、層が上がるほど化け物じみた仏が出てきましたが、二人で抱き合っているのに偉いのですか。それはまた、セクシャル=聖ということでしょうか。それともすべてを超越したからですか。
セクシャル=聖ということまでは念頭にありませんでした。あくまでも、仏の世界の全体を仏塔で表現しているということを意図しただけです。

S先生の授業でボロブドゥール遺跡についてのビデオを見ました。何でも遺跡そのものが仏教の三界を表しているそうで、壁面の彫刻も興味がそそられました。一度じっくり回ってみたいです。現在は「隠れた基壇」というものは見ることができないのでしょうか。
一部は見ることができます。

守門神がサーンチー仏塔の下側にあるヤクシーたちと姿が似ているように思いました。
南インドのヒンドゥー寺院の守門神が、もっと似ています。

円壇の中に「仏」が隠すようにおかれているのは「聖なるもの」は見えないという観念に通じているからでしょうか。市松模様にすかしてあるところを見ると、完全に見えないというわけではないようですが、共通しているということは否めないような気がします。
無色界なので、見えないように表したと言われていますが、本当かどうかわかりません。

・今日見た遺跡はどちらもマンダラのような整然とした印象を受けました。直線(正方形)と円で構成された様子は、見ていて気持ちよく思いました。
・サーンチーなどでは見ることのなかった極彩色の仏像や壁画がとても新鮮に見えました。体の色が青い仏がいましたが、表情を見ると忿怒仏に分けられるのでしょうか。歌舞伎の隈取りでも、色にそれぞれ意味があり(赤は正義で青は悪いイメージだったような気がしますが)、ここでも色に何か意味があったりするのでしょうか。
・やはりボロブドゥールは死ぬ前に一度行かなければならないような気になります。
チベットの絵画は色鮮やかです。仏塔の周りが荒涼とした景観であることを考えると、その対比はより強烈です。これに対し、インドの遺跡は色が少なく、逆に周囲は自然が豊かで、その景観はさまざまな色で満ちあふれいています。仏像の色にはいろいろ意味があります。青が忿怒尊に多いのはそのとおりです。

大きな建物の中を回っていると、全体の構造はわからないということはよくわかった。
実際に経験してみると、さらによくわかります。

巡礼のこと、少しわかった気がします。でも私の認識であっていたのでしょうか・・・と少し不安になります。巡礼って誰が決めたものなんですかね。その意味などは理解できたのですが、なぜ始まったのかはわかりません。また、思念の礼拝は、そこを自分で思い描いてお祈りするということなのでしょうか。自分の想像の中だけということでしょうか。部分と全体に関しては、わかるようでわかりません。もう少し詳しく説明してくれるとありがたいです。
「思念の礼拝」は想像の中というよりも、そのような瞑想法があったということでしょう。瞑想は単なる想像ではなく、実践のひとつです。部分と全体について、ここで詳しく述べる余裕はないのですが、要するに、部分はそれだけでもひとつの完全体であるということです。部分と全体と対比させると、部分は全体を分割したもので、それゆえ、不完全であると思ってしまうのですが、必ずしもそうではないのです。

日本の仏像はモノクロの作品が多いが、なぜ、ボロブドゥール、チベットの仏像には、カラフルなものがあるのでしょうか。とても違和感があります。
日本の仏像も、平安時代の密教仏などは、極彩色でとてもカラフルです。マンダラもそうです。時間がたつと、どうしても色あせてしまい、補修をしても彩色まではあまり戻しません。

この講義は、内容についてはとてもむずかしいものでしたが、多くのスライドによって視覚的に学習することができ、非常に満足しています。ありがとうございました。
それほどむずかしいとは思っていなかったのですが・・・。要は「慣れ」の問題かと思います。

密教の仏様がほんとうに仏っぽくなくて驚きました。
これも慣れの問題で、見ているとだんだん仏っぽく見えてきます。

「全体」というと、広いとか大きいとかいうイメージが私にもやっぱりあったが、大きくすればするほどとらえられないことがわかった。部分は不完全なものでないということで、部分は全体という話がわかったように思う。
そういうことです。

密教というもの、密教仏について、はっきりと何かということはわかりませんでした(すみません)。でも、日本で見ることのあまりできない変わった像や、日本の仏教(風習?)ではあまり考えられない、目立つ色遣いなどは、見ていてとても楽しかったです。ブラフマン、アートマンについては、ことばではうまく表せないけど、何となくですが、少しわかった気がします。
ブラフマン、アートマンは、インドのあらゆる思想家たちが何千年もかけて考察してきた問題です。簡単にはわからなくて当然なのです。

仏教での巡礼とは、その巡礼地が必ずしも聖地でなくてもよいというような印象を受けました。キリスト教やイスラム教は、イエスやムハンマドとの関わりが深い聖地がひとつではないですが、それほど多くはない数で存在していると思われます。仏教とは多神教とまでは言えないものの、一神教とも言い難いことが、この違いを生んでいる理由のひとつなのではないでしょうか。昨年度の授業は仏像の説明、仏教の地域的な広がり(インド、日本)が中心でしたが、今年度は仏教の思想内容に踏み込んでいて、むずかしいと感じました。来年度もできれば授業を受けて、その部分を理解(とまではいかないかもしれませんが)できたらいいと思います。
ぜひまた受けてください。来年度の仏教文化論は文殊と弥勒という菩薩を取り上げます。仏教学特殊講義はマンダラです。

部分と全体が本質的に同じというのは、はっきりとはわからなかったけれど、感覚的につかめたような気がしました。インドの思想はおもしろいですね。
そうです。おもしろいです。

半期のみでしたけど、ありがとうございました。
こちらこそ。

それぞれの国や地域によって、表現の仕方が違っておもしろい。インド、日本、インドネシア、チベットなど、それぞれその国らしさがあっていいなぁと思った。
違いがあるのはもちろんですが、その一方で「変わらないもの」があるのもおもしろいところです。

この授業はたいていスライドショーと先生のお話に分かれていて、そして先生が最後のまとめとして、その思想的なことと実際に作品として現れているものとを結びつけていることが、毎回すごいなと思ってしまいます。私なんかはつい、思想についてばかり考えてしまったりして、それがどのように図像に現れているかの考察がおざなりになってしまうので、レポートでもそのあたりをきちんとしなければいけないなぁと思いました。
自分でも、ちょっと強引に結びつけすぎたかなと思うこともときどきありました。

インドに大きな建造物(世界を表すもの?)がないのは、部分と全体が一緒だからという話でしたが、インドでは理論→宗教だったから、もので表す必要がなかったということですか。他の場所では宗教が入ってきたから、イメージの具体化という形で、建造物ができたのですか。
理論→宗教というのは、あまり考えていませんでした。インドネシアやチベットでは、インドの仏教美術を総体的に受容でき、全体像を把握することが可能だったため、それを表す巨大建造物が造られたということを指摘しました。しかし、それ以上に、インドでは全体を表すために単純化を進めたり、部分でそれを表すことが伝統的に行われてきたことを、重要視しました。

遠くはなれたインドネシアとチベットで、似た変化が起きるというのはおもしろい。ただインドという文明が、それだけ特異だったのかと思った。
インドの文明が特異というより、われわれの日本を含め、周辺のアジア諸国の文明とはかなり異質なものだからでしょう。

きれいなスライドで楽しかったです。半年ありがとうございました。
どういたしまして。最後の回のチベットのスライドは、うっかりして解像度の低いものを持ってきてしまいました。本当はもっときれいです。

教養と違って資料がオールカラーで見やすかったです。ビデオで撮ったりするのも新鮮でした。(結局見る機会がなかったですが、これから見てみようと思います)
ビデオ撮影は、大学で進めているe-learningという授業のIT化の一環として行いました。12月以降の授業はまだアップしていませんが、近いうちにするつもりです。講義全体が終わってからアップしても、復習などには役立ちませんが。

ボロブドゥール遺跡やアンコールワットなどの巨大な建造物が、宇宙の縮図であるというのもおもしろかったが、なにより人間の精神の中にはさらに正確な宇宙の縮図が表現されているというのは新鮮な驚きであった。古代インド人の精神に対する思慮の深さには圧倒される。とてもおもしろい講義をありがとうございます。
生物学や宇宙物理学などの研究者は、研究をきわめていくと、しばしば生命や宇宙の背後に神の存在を感じるという話を聞いたことがあります。精神も含め、人間そのものが、宇宙と同じ無限の広がりをもっているということなのでしょう。

最後の説明がたいへんわかりやすいまとめでした。インドが部分としてシンプルに宇宙全体を表現していて、その影響を直接受けたはずのチベットやインドネシアでは、インドの考えと正反対の考えが芽生えてしまったとは、伝来という動きがいかに真実をゆがめてしまうことがわかりました。仏教でなくても、キリスト教においても言えると思います。聖書の内容を地方で都合の良いようにかきかえたり・・・。結局何が本当かはたいへんわかりづらいものになっていくことはさけられないのだと感じました。重要なのは自ら何を信じていくか。自分の人生なのだから真実は自らの中から見つけ出さなければならないのではと思いました。
宇宙などの全体をどのように表現するかという問題は、日本まで視野に入れると、さらに興味深いでしょう。日本では巨大化によって全体を表現するという発想すらなかったようです。真実とは何かという問題はむずかしいですね。オリジナルに近いほど真実であるという立場もあれば、次第に発展し、真実に到達したという立場もあります。

次の時間、ちょうど生物の授業なので、人が受精卵になってから誕生するまでに、これまでの進化の過程をたどってくるというのはよくわかりました。
生物などの理系の授業も、宗教や思想を考える上で役に立ちます。わたしもときどき趣味で読んでいます。

チベットやインドネシアと、インドの仏教美術の関係がよくわかった。「部分と全体が同じ」という考え方は、理解できるようで、むずかしいと思った。
むずかしいですが、いろいろ考えてみてください。

ボロブドゥールやチベットでは、巨大化することで宇宙を表していたのに対し、インドは部分のみを提示し、観念によって宇宙を表現しようとしていたということですね。たしかに人間が物理的に宇宙のような大きなものを作っても宇宙の大きさにはかなわないけど、イメージの世界ではそれが可能だということには納得しました。今までの内容で「イメージ」ということばが多く使われていたのは、イメージによって現実に作ることはできない神秘性のようなものを、自分の中に再現できるからなのかと思いました。
そうですね。「神秘性のようなもの」というのが、授業で繰り返しとりあげた「聖なるもの」です。

部分と全体の話は、いまいち理解できずに終わってしまいました。
理解できた範囲で結構です。

仏塔は釈迦の骨や遺品などが納められていると聞きました。実際に今までも納められている仏塔はあるのですか。日本の五重塔、三重塔などに納められているとは思えないのですが。
基本的に納められているべきです。日本にも本物かどうかは別として、舎利(釈迦の骨)はたくさん
あります。舎利の代わりに宝珠を納める場合もあります。

今までお疲れ様でした。この講義を受けたことによって、仏教の知らなかった部分をいろいろ学べて非常に良かったです。
知らなかったことを学ぶのは楽しいことです。

全体を表現したいために、それに少しでも近づくような大きなものを作ることは、宗教という影響力を大切にする世界では単純でわかりやすいことであり、効果的なのだが、本質を持った部分(パーツ)を表現することが、全体表現につながるという観念に重きを置くインドの仏教観には少し感心させられる。
授業ではあまり紹介できなかった仏教の具体的な思想にも、この機会に接してください。おもしろいですよ。

ボロブドゥール等の建物は、上に行くほど高レベルの仏がいて、一番上は宇宙を支配する仏がいるということでしたが、私が思うのは、下の方の仏が宇宙を支配していて、上の仏はそれを超える何かを支配しているのではと考えました。上には上があるといいますが、頂点というのは存在するのでしょうか。建物の構造は錘状にするのではなく、柱状にするべきなのではと思いました。
「宇宙を超える何かを支配」と言うことも可能ですが、それをも含めて「全体」(つまり宇宙universe)というのです。

私も四国を回ってみたいと思った。四国には切ない空気が流れてます。一回、修学旅行で行きました。
機会があれば回ってください。

聖なるものを全体で表すというより、ある部分だけで表す方が、他の部分と比べることもでき、相対的に見えてわかりやすくていいと思った。
そういう利点もありますね。

「聖」を形や場所で表すときも、いろいろな場合があると思った。自分のまわりでも○○を象徴するというか、別の表し方をしているものが、けっこうあるなぁとムダに思いついたりしました。
ムダではないと思います。

巡礼にはあまり意味がないと思っていましたが、そうでもないと思いました。何を信じるかが大切なんだと思いました。
そうですね。

今更の疑問かもしれないが、インドの仏教美術は石造の彫刻ばかりだと、チベットの絵画を見て思った。インド人は絵を描くよりも、彫刻をすることを好んだのだろうか。
インドにも絵画作品は残されていますが(たとえばアジャンタの壁画)、宗教美術の大多数は彫刻です。これは石像やブロンズ像がもつ耐久性にもよるでしょう。礼拝の対象が簡単に壊れたり、腐食しては困るからです。日本の仏教美術では木彫が主流だったこととは対照的です。

たしかに第7層の仏は、高位の仏とは思えませんが、第8層の仏には、すべてを超越したという近寄りがたいオーラが、写真からも伝わってくるように感じます。
そうですか?私はペンコルには実際に入ったことがないので、機会があれば確かめてきます。

インドネシアとチベットが「全体」を巨大建築で表そうとし、インドがシンプルにして表そうとしたと理解したが、日本はどうだろうか。前者ではない感じがするが、後者ほど考えたのだろうか。
ぜひ、よく考えてみて下さい。レポートのテーマにもなります。私の考えでは、日本は全体や宇宙についての関心が希薄ということがポイントだと思います。

実習でこれないことも多く、また専門ではないので理解できないこと、知識が乏しいことが多々あった。しかし、文化や宗教は真理と結びつく場合もあり、興味深かったです。
専門ではなくても理解できることをめざしているのですが・・・。それはともかく、自分の研究に役立つことが少しでもあればよかったです。

ボロブドゥールの建物と、ペンコルチョルテンの構造は、上に行くほどレベルが上がって、仏の世界に近づくと知りました。中世ヨーロッパに見られる集中式の建築も、上に行くほど神の世界へ近づくという垂直軸を持っているので、似ていると思いました。中世ヨーロッパにはバジリカ式の建物もあり、それは軸が水平で、入り口から奥に行くほど、神の世界に近づくので、東洋にもおそらくそのような建物があるのだろうと思った。
インドではヒンドゥー教の寺院が、水平軸と垂直軸の両者を持っています。キリスト教の教会も、仏教やヒンドゥー教の寺院も、「神の家」(あるいは仏の世界)を表すという点では共通です。これは、中世ヨーロッパはもちろん、ローマ時代のカタコンベから当てはまります。東西の宗教建築の比較もおもしろいテーマです。

善財童子は日本のものかと思った。全体と部分のは話は何となくわかる気がしました。
善財童子のすがたは、日本では文殊の従者として多くの作例があります。

巡礼の札だけを移したやつを総持寺で見ました。他の宗教巡礼はどのようになっているのですか。
他の宗教における巡礼という意味でしょうか。うつし巡礼は日本に特有のようです。

最後の先生の話で、建造物が宇宙を表現しているが、見ているわれわれは大きすぎてわからないというのが、すごく興味深いと思った。しかし、逆に、全体が見えてしまえば、それは悟ったということなのではなかろうか。ということは、そこで道に迷うとは、未熟さの故、仏の世界に右往左往することなのかと思った。インドでそのような全体を巨大化で具体化しなかったのは、全体は把握できない(仏が表現できなかったように)ものとしたことと、その全体と部分のとらえ方で納得できた(でも半分よくわからない)。
おそらく、ボロブドゥールもペンコル・チョルテンも、それを回ることで悟りに到達するという機能はなかったでしょう。建造物全体のプランを作る人と、実際に参拝する人とは、発想や視点が異なるからです。これは鳥瞰的と対峙的という用語にも対応します。それはともかく、納得できた点があれば、理解が半分でもよかったと思います。

頭の中で考えている限りでは、全体を表す巨大化してしまう方が、圧倒的で、宇宙観のようなものを感じやすいようにおもいますが・・・。いろいろな文化の発端となっているインドは奥深いですね。
現代の日本人としては、おそらくそのような圧倒的なものの方が「全体」にふさわしいイメージでしょう。

部分が全体を表すというのは、細胞のひとつがあれば、クローンを作り出すことが可能ということと同じなのですか。
クローンはあまり念頭にありませんでしたが、喩えとして使えそうですね。

先週の補足説明(巡礼について)で、先生が『論集』から引っぱってきていた説明がわかりやすくておもしろかったです。私は構造的プロセスだと思っていたので、新たな発見でした。
『論集』の論文全体は、私のHPからもダウンロードできるようになっています。関心のある人は読んでみて下さい。

ボロブドゥールの遺跡が階層構造になっていたことをはじめて知りました。いつか行ってみたいです。
行ってみて下さい。

全体を表すために巨大化するとわからなくなるというのは、ナスカの地上絵みたいだと思った。最後の話は、人間(生物の中のひとつ)が生まれる過程の中で、生物全体の進化が再現されるということで、部分=全体ってことでしょうか。
そういうことです。「個体発生は系統発生を繰り返す」といいます。

私ははじめて文学部の授業をとったのですが、いつも授業で配られた質問などを読んでいると、着目点も違うなと思い、尊敬しました。レポートも文学部の授業だから、十枚くらい書かされると思っていましたが、そんなことはなく安心しました。
教育学部の皆さんにも、いろいろおもしろい質問やコメントがありました。レポートは5枚としましたが、べつに10枚でもそれ以上でもいいですよ。

私は昔からなぜ巡礼といった面倒なことをするのかと思いました。意外に現実的な目的によってなされているんだなと驚きました。
巡礼にはいろいろな仕掛けがあります。全体の数を定めること、朱印帳というスタンプノートを準備すること、ご開帳を組み合わせることなどです。とくに朱印帳はスタンプラリーのようなもので、集め始めるとすべて集めたくなります。

この授業を受けて、仏教美術に対する意識が変わった。今まで仏像を見ても何も考えることなく、ただ眺めていただけだったように思う。
知識が増えると、それだけ対象に対する関心も大きくなります。

チベット仏教の仏の絵的イメージは、本当におどろおどろしく奇妙な感じでした。文化圏が違うと同じ仏でもこうも違うのかと思いました。
意外に思うかもしれませんが、日本人にもチベット美術が好きな人がけっこういます。好みの問題でしょう。

今日の説明など聞いて、「フィクション」「巡礼」「部分と全体」といったことに関して、何となくわかった気がします。特に生物学の例は「ああなるほど」と。もちろん全部がわかったわけではないですが、何か「コトリ」とはまったような気がしました。
それはよかったです。さらに「聖なるものの表現」における象徴化、単純化などとも結びつけてみて下さい。

チベットのレベルの高い仏は、一見気持ちが悪いようにも見えるけれど、迫力があってきれいだと思いました。
実物を見るとさらに圧倒されるでしょう。

ボロブドゥールの仏塔がすごく大きくてびっくりした。実際に自分の目で見てみたいと思いました。いつもていねいなレジュメをありがとうございました。
レジュメはパワーポイントのコピーとあわせて、まとめてとっておくと便利でしょう。

チベットの仏たちは女性とともに描かれていたりして、なんか平和な感じがした。ボロブドゥールやペンコル・チョルテンは、上にのぼっていくほど偉い仏になっていくが、実際、巡礼している人にとっては、それがわかりにくいというのは、巡礼しても意味なさそうだなぁと思ったけれど、行くことに意味があるなら、そうなっても仕方がないのかなと思った。
おそらく、ほとんどの巡礼者はひとつひとつの壁画を見て、拝んで終わりでしょう。それはそれで意味があるのです。

ボロブドゥールやペンコルチョルテンの建物の構造(建築方法、世界観)は本当にすごいと思った。曼荼羅と同じように、基本は丸と四角を使うんですね。
そうです。でも、繰り返しになりますが、丸と四角だけでできた建物は、とても使い勝手が悪いです。大阪に国立民族学博物館という研究機関がありますが、ここがやはり丸と四角でデザインされています。とくに、その最上階は四角い回廊状のところに研究室が並んでいて、いつも、どこを歩いているのかわからなくなります。

パドマジャーラとかブッダヘールカとか、日本人から見るとあんまり仏っぽく見えないなと思いました。でも国が変わると感性も変わるんですね。きっと・・・。ボロブドゥールは生きている間に一度いってみたいと思っている場所なので、今日のスライドはたいへんおもしろかったです。
感性は国や人でも違いますし、同じ人でも変わっていきます。いろいろな作品を見て、その変化を体験して下さい。

仏にもレベルがあるという考えがとてもおもしろかった。宇宙を表している作りであっても、その中に入ってしまう人間は全体を感じることは難しいということで、やっぱり、目の前にある一部を見ることはできても、「全体」を理解するのはすごく困難なことなのだろうと思います。関係ないかもしれませんが、私自身の生活でも、目の前にあることは理解できても、それを含む全体にまではなかなか目がいかないなとも居ました。
そうですね。全体を見ることは難しいですね。でも、一部を見ただけで全体を見たつもりになるというインド的な思考法も、場合によっては危険でしょう。

見るものの視点と作ったものの視点があまりにかけ離れているのがボロブドゥールなのかなと思った。全体を見ようとすると、全体からかけ離れていくというのは、人の気持ちに似ているなと思った。
「人の気持ち」まではあまり考えていませんでしたが、そうかもしれませんね。

玄奘は「フィクションとしての巡礼地」を巡ったから、その荒廃を目の当たりにして、ショックを受けた。本来の趣旨とは異なる巡礼をしてしまったから。という解釈でよいのでしょうか。
巡礼はあくまでも実際に訪れるのが本来の趣旨です。巡礼地を瞑想するという「フィクションとしての巡礼」は、それができないことから考え出された次善策でしょう。

はじめに地域における仏像の違いは、どのような点にあるのかという疑問があったが、少しはわかった気がする。特に顔立ちの違いはおもしろかった。インドの建造物が巨大化されなかった理由はおもしろいと思う。さすが、仏教発祥の地だけあると思った。
インドの中でも仏像の姿は千差万別です。授業で紹介した作品はごくわずかですので、図書館の本などでいろいろ探してみて下さい。私のHPの「アジア図像集成」の部分も、近々、拡充するつもりです。

途中、マンダラに囲まれた部屋というのが出てきたが、マンダラをたくさんはることで、何か宇宙の壮大さを表すような意味合いがあるのだろうか。前にマンダラは教養を表すといっていた気がするが、どんな意図なのだろうか。なぜ8ではなく、7層?6層?バランス悪くないですか。
ペンコル・チョルテンを含め、チベットには壁画として多くのマンダラを描いた建造物がたくさんありますが、それが「宇宙の壮大さをあらわす」ということはないようです。「マンダラは教養を表す」というのは、言ったつもりはないのですが、何かの聞き間違いでは?マンダラは仏の世界や悟りの境地を表すということは、よく言われています。8層というのは8階建てという意味です。全体はピラミッド型なので、何階建てでもバランスはあまり関係ないとおもいますが・・・。

レポートが難しそうです。ちゃんとできるか心配。早めに取りかかろうと思います。
それがいいですね。

これから先、先生の授業で得た知識を大事にし、いろいろな仏像を見たときに、いろいろ考えながら仏像をみれたらいいなと思った。
仏像には参考書もたくさんあります。予習復習をして鑑賞するといいでしょう。


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