南アジアの仏教美術

2006年1月19日の授業への質問・回答


・「フィクションとしての巡礼」の意味がよくわかりませんでした。想像上の巡礼というのは、具体的に何をするんでしょうか。頭の中で、こんなところなのかと思い浮かべるんですか。
・八相図は時にその内容が変わることもあると授業で聞いたことがあると思うが、八相図と八大聖地はやはり関連があるのだろうか。釈迦の有名な説話があるのだから当然だろうか。実在する聖地をまわるのは「対峙」することと同じで、実在しない聖地をまわることは「鳥瞰」することと同じだというが、いまいちはっきりわからなかった。たとえ巡礼がフィクションだとしても、巡礼としては成り立つということが、宗教はまさに「心」のよりどころたり得るのかと思った。
・キリスト教やイスラム教の聖地は、今なお各宗教によって手厚く保護され、しっかりと巡礼地となっているのに、仏教の聖地が荒れている、現存しないということには、あらためて不思議に思う。理由は明快だけど、何で?と思います。実在しない聖地を面でとらえるという話は、よくわかりませんでした。

 前回の授業でとりあげた「聖地と巡礼」については、これまでにないほど「わからない」という感想が多く、かなりショックを受けました。今回、あらためて補足説明をするつもりですが、ここでも補っておきます。
 まず、前提として、仏教徒は釈迦のゆかりの地である仏跡地、つまり誕生や涅槃の場所である聖地を参拝することが、経典などで奨励されていることがあります。マウリヤ朝のアショーカ王も、実際にそれらの地を参拝し、そこに仏塔を建立したり、アショーカ王柱と呼ばれるモニュメントを建てたりします。密教の時代に流布していた経典に『八大霊塔名号経』という文献があり、その中には、八大聖地に建立された仏塔を礼拝することの功徳が説かれています。しかし、同書には、実際に礼拝できない場合は、それぞれの聖地の仏塔を思念して礼拝することが勧められています。玄奘がインドを訪れた6世紀頃には、すでに八大聖地の多くは荒廃していたことを考えると、実際の八大聖地の巡礼はおそらく行われず、思念することによって礼拝するという方式がとられていたと考えられます。しかし、全体としては衰退の途を辿っていたインド仏教ですが、サールナートとブッダガヤという二大聖地だけは、最後まである程度の繁栄を保ち、インド各地、さらにはスリランカやカシミールなどからも巡礼者が訪れていたようです。これは当時の記録や、仏像に刻まれた銘文などから確認できます。その場合の巡礼とは、八大聖地をまわることではなく、目的地である聖地と自分の住む場所との往復運動としてとらえられたと考えられます。これはインドに限らず、日本やヨーロッパでも、巡礼とは目的地に行って、再び帰ることが重要であり、複数ある目的地がどのような構造をとっているかは、巡礼者には問題にならないこととも一致します。おそらく当時のインド人にとって、仏跡参拝は円環的なイメージではなく、直線的なイメージでとらえられていたと考えられます。しかし、経典などの文献では、すでに述べたように、複数の聖地はネットワークを構成し、その構造が重要と見なされます(これはマンダラの構造などにも重ねられます)。これを称して、文献の中では「実在しない聖地」や「フィクションとしての巡礼」が説かれていると言ったわけです。「実在しない聖地」という表現が誤解を招いたところもあるのですが、まったく実在しないわけではなく、すでに聖地としての機能を失っていたということです。その上で、実在しない聖地がネットワークを構成し、特定の構造を持っているのは、聖なるものを全体としてとらえ、ひとつの構造物として見なす「鳥瞰的な視点」に通じるものがあり、一方の現実の往復運動としての巡礼は、対象と向かい合う「対峙的な視点」と対応するというのが結論です。
 八相図や宝冠仏の問題は、これとは別の方向への発展的な問題です。以前に取り上げたこともありますが、歴史的な釈迦の生涯は、大乗仏教の時代になると、さまざまな仏たちの生涯のモデルとなります。あらゆる仏たちは、釈迦と同じように母親の右脇から生まれ、29歳で出家し、35歳で悟り、80有余の生涯を終えて涅槃に入ります。もともとは釈迦がモデルであったこれらの事績が、大乗仏教の時代には逆転してしまい、釈迦もその「法則」にしたがって生涯を送ったことになってしまいます。そのとき、釈迦の重要な事績である八相は、この「すべての仏に共通する生涯のできごと」の代表と見なされます。八相が釈迦固有のできごとから、すべての仏に共通するできごとへと変化したことと、八相図の中に現れる仏が、歴史上の釈迦から普遍的な仏へとイメージの上でも変わっていったこと(とくに宝冠仏として表されること)が、対応するというのが、ポイントです。その上で、八相の舞台である八大聖地が実在しないことや、全体がネットワークを構成していることも、この変化の前提となると考えています。ふりかえってみると、かなり複雑な話でした。

当時も伊勢参りのように、巡礼をダシに楽しむなどということはあったのだろうか。人間の考えることはいつも同じだと思うのだが。

あったでしょう。私も基本的に人間が考えることは、インドでも日本でも共通するところが多いと思っていますし、聖地や巡礼に期待することはそれほど違いがないと思います。生活環境がまったく異なる現代のわれわれと、当時の人々との巡礼のとらえ方の違いの方が大きいでしょう。当時の巡礼は今よりも苦しいことやつらいことも多かったでしょうが、基本的に旅は特別な体験だったでしょうし(一生に一度のイベントだったかもしれません)、聖地でもさまざまな経験ができたでしょう。たとえば、聖遺物にふれたり、霊験あらたかな像を拝んだり、あるいは現地の僧侶からその聖地の由来や奇跡の物語を聞いたりしたでしょう。その代償として、巡礼者がお金やモノを寄進をすることで、聖地も存続できたはずです。そのメカニズムは、時代を超えて普遍的であるようにも思います。

四国巡りの目的が、歩いて一周することだとはじめて知った。今、うちの祖父母が毎週ペースで、滋賀と四国のそれぞれのお寺を少しずつ通っているのだが、それではあまり意味はないのかなぁと思ってしまった。

意味がないことは全然ありません。少しずつまわることも立派な巡礼です。四国八十八カ所は、昔は歩いてまわるのが一般でしたが、現在では少数派です(それでもあえて挑戦する人は大勢います)。車やバスが一般的で、極端な例としてはヘリコプターでまわる人もいます。たいていは、すべてを一度にまわることはできませんので、何か寺ずつかをわけてまわるのも普通です。余談ですが、二年ほど前にNHKの「にんげんドキュメント」という番組で、歩いて何周も四国を巡る老人を取り上げていましたが、その後、この老人がかつて傷害事件を起こした指名手配者であったことがわかり、番組がきっかけで逮捕されるということがありました。お遍路さんひとりひとりにドラマがあるのですね。

私は(お遍路ではなく)四国を一周したことがあり、そのときにお遍路さんを見て思ったのだが、聖地巡礼というものは、聖地自体が重要なのでなく、「聖地に行く」というつらい修行をすることが重要なのではないだろうか。そうやって、それぞれが仏と対峙して旅をするから、お遍路さんはふしぎな体験をしたり、仏の姿を見たるするのだと思う。(実際、人ではない者をよく見かけたりするそうで、そういうときは追いかけてはいけないそうだ)。

そうなのですね。「聖地に行く」というプロセスを重視するのは、私も同感です。日本ではとくに聖地をまわることで、少しずつ変化が生じ、別の存在(生まれ変わるという意味で)になるというとらえ方が、巡礼には認められます。これについては、以前に書いたものがありますので、資料として添付しておきます。世界の巡礼を見てみると、聖地で何をするかに重点が置かれる場合もたくさんあります。聖地というの一種の「しかけ」であり、宗教が成り立つための重要な素材だと思います。なお、四国の巡礼についてはいろいろな言い伝えや物語があります。「同行二人」という言葉があり、いつも御大師様(つまり弘法大師)と一緒というのが基本的な考え方です。

授業の内容とはまったく関係のないことなのですが・・・。授業中に四国の八十八カ所のお寺をまわるお遍路さんの話が出ましたが、映画の『死国』で、逆回りでお遍路さんをしたら、死者がよみがえるという話がありました。本当にそうだとは思いませんが、何か背景があるのでしょうか。

逆回りにまわることを「逆打ち」といいます。それほど特殊なことではなく、熟練のお遍路さんがよくやるそうで、古くからの記録にもあるそうです。逆打ちは通常のルートよりも「きつい」そうです。というよりも、八十八カ所をいかにまわりやすく巡礼するかで、現在のルートが成り立っているのです。巡礼というのは地図の上で線を引くような作業ではなく、実際に一歩一歩進んでいくことで、そのためにさまざまな合理的な工夫がなされているのです。巡礼の用語や裏ワザ?については下記の本が詳しいです。ただし、オカルト的な話はあまりありません。

白木利幸 2000 『こころを癒す巡礼参拝用語事典』小学館ライブラリー、小学館。

今日の講義で出てきた葉衣、陀羅尼など、仏教には本当に変わった名前が多い。また、仏にも怖いものや親切なもの、子の命を司るもの(生かしたり奪ったり)など、さまざまなものがいて驚いた。紹介されている仏像は何百年も前のものと思われますが、今、現在インドの仏教はどれが主流なのですか。

密教美術の魅力のひとつが、仏の多様性にあります。とくに私は両義的な仏や二面性のある仏が好きなので、授業でも「変わった仏」を取り上げる傾向があります。現在インドには伝統的な仏教は存在しません。密教の時代まで続いた伝統的な仏教は、13世紀頃にはほぼインドから消滅します。現在の仏教は「新仏教」とよばれる新興宗教的なものや、スリランカやタイの上座部仏教が再輸入されたもの、さらにチベットの仏教などです。

今、テレビドラマで西遊記が放送されているが、実際の西遊記では、三蔵が旅で見たもの、伝えたものまでは伝えているのだろうか。

西遊記は孫悟空を主人公とした物語で、三蔵法師の記録ではありません。三蔵法師のモデルは玄奘といわれますが、中国からインドに経典を求めて旅した僧侶は相当数に上り、その一般的なイメージが投影されているにすぎません。玄奘が残した記録は『大唐西域記』です。これは公式の旅行の記録で、帰国後、唐の皇帝に献上するために執筆されたものです。インドに行って帰ってきたということは、玄奘がさまざまな情報、とくに軍事的な情報をその旅程で入手しているということでもあります。それを公式の報告として、当局が要求したのです。ただし、『大唐西域記』の内容はかなり表層的なもので、軍事機密のようなものはあまり含まれていません。そのため、古来より、『大唐西域記』にふたつの版があり、より詳細なものは公にされなかったという説もあります。『大唐西域記』は平凡社の東洋文庫で、三巻本として刊行されています。テレビの西遊記は私は見ていませんが、私の世代は夏目雅子が三蔵法師をしていたときのイメージが強烈です。ゴダイゴというバンドがテーマソングを歌っていて、エンディングテーマは「ガンダーラ」といいました。このころはシルクロードブームでもあった頃で、NHKのシルクロードのはじめのシリーズが放映されたのも、たしかその少し後のことです。もう30年近くも前のことです・・・。


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