南アジアの仏教美術

2006年1月12日の授業への質問・回答


・インドのマンダラは「聖なるものが自分と同じレベルであることをめざす」とありました。鳥瞰とは「高いところから広範囲に見下ろす」ことですが、そうすると、「高いところ」から見下ろしているのも「自分」であるのに、その「広範囲」の中に含まれているのも「自分」となります。自分はこの世にひとりです。この二人の「自分」についてはどう考えればよいですか。
・対峙という考え方は、祖母の家がお寺だったし、仏壇もあったので、わかりやすいのですが、鳥瞰というのは、言葉ではわかる気がしたけれど、どういうことなのかと考えようとすると、とても難しいと感じました。客観的というよりは、主観で曼荼羅を見て、そういった世界を感じていたのでしょうか。

「鳥瞰」という言葉を使ったのは、宇宙=仏の世界全体をひとつのものとしてとらえることを表すためです。その場合、あまり上下の関係は問題にしていません。「対峙」という言葉と対になるようにという意図もあります。「見るもの=自分」と「見られるもの=世界」の両者に自分が現れることについては、客観的に見ればそうですが、宗教的な体験においては、見るものと見られるものの区別は、おそらく明瞭ではないでしょう。仏教においては認識主体である自分と、認識の客体である世界が、不分離であることを強調します。これは、前に読んでいただいた「インドの思想における自己と宇宙」でも取り上げたことです。ただ、このように書いている私にも、世界を鳥瞰するとか、ひとつのものとしてとらえ、自分自身と同じであることを悟るというのが、どのような状態であるのかはよくわかりません。

インドの曼荼羅においては自然は俗として排除されていましたが、日本の密教においても自然=俗という考えだったんですか。

日本では自然が「聖なるもの」としてとらえられることが多いようです(「自然」という概念そのものは近代的ですが)。たとえば、桃源郷や異界のようなイメージを考えた場合、山や海のような自然の景観が、日本では好まれました。われわれの住む現実世界に接する自然こそが、日本では「聖なる世界」だったようです。以前に授業で取り上げた来迎図は、日本人の「聖なる世界」観をよく表していると思います。仏が住んでいる極楽浄土よりも、われわれのすぐ近くまでやってきた仏が、そこには描かれていますし、その背景には山や海、滝、樹木など、自然の景観が描かれています。これに対し、インドの「聖なる世界」は、マンダラに見られるようにきわめて人工的で、「不自然」な世界です。日本の曼荼羅が、インド的な世界図から、自然の景観を取り入れた情景図に変わっていったのは、必然的なものだったと思います。

先日、NHKの大河ドラマで、山内一豊が信長を軍神マリシ天(?)と評していました。どこで生まれたどんな仏で、どのように表されているのですか。

マリシ天は摩里支天とか摩利支天と表記し、もとのサンスクリット名はマーリーチー(M?r?c?)です。この仏は女尊で、初期密教で信仰を集めました。多面多臂で表され、インドにも作例が多く残されています。マーリーチーという言葉は陽炎や曙光を表す語で、太陽神と関連を持ち、また、その関係で大日如来やヴィシュヌ神とも関係があります。日本にも密教伝来とともに伝えられ、その名称や性格から、軍神として武将たちの信仰を集めたそうです。摩里支天の呪文を唱えれば、陽炎のように敵の目をくらませる「隠身」の効果があると信じられたと伝えられています。戦闘の神としての性格は、すでにインドでも見られ、手に武器を持った勇ましい姿の像で表されます。摩里支天については『インド密教の仏たち』の第2章で詳しく取り上げていますので、読んでみてください。あまり詳しく書いたので、編集の方から「少し削ってほしい」と言われたところです。

マンダラの写真を見ると必ずと言っていいほど、上下左右が対称になっています。上下左右対称は何かを意味しているのですか。対称にして単純化しているのでしょうか。

上下左右が対称というのは、マンダラに描かれている「世界」がそのような形をしていることによります。授業で強調したのもこのことで、インドにおける世界のイメージは、われわれの持つ宇宙や自然とはまったく異なり、幾何学的で、人工的な空間なのです。自然界には厳密な意味で左右対称のものは、じつはそれほどありません。人間の顔など左右対称のような気がするかもしれませんが、実際は正確な対称にはなっていません。マンダラを構成する円や正方形も、現実世界には多くは存在しません(地球も月も太陽も、正確な球ではありません)。現実にはない理念的な世界のイメージだからこそ、聖なる世界であり、われわれが把握することが可能なのです。

・即身成仏の話を聞いて、キリスト教等で宗教のために殉死することを思い出した。自分がなりたいと願う神仏のようになれる?成仏は、ある一面とても欲深いなと感じました。「対峙する」より「成る」方が欲張りではありませんか?
・密教がめざしたものが神仏=私だと聞いて、なるほどと思いました。即身成仏というのはどういうことですか。即身仏というミイラ(?)があるというのは聞いたことがありますが、関係あるんでしょうか。

即身成仏とはその言葉のとおり、この身でこのまま仏になることです。密教以前の大乗仏教では、仏になるためには途方もない長い修行期間が必要とされます。何度も生まれ変わり、その都度、別の身体を持つので、即身ではありません。大乗仏教では仏になるための修行者を、すべからく「菩薩」と呼びます。菩薩とは観音や弥勒の名で知られていますが、実際は、悟りを求める心を起こし、仏教に帰依したものは誰でも菩薩なのです。密教はこのような枠組みを打ち破り、今、生きている生涯のうちに、仏になることが可能なのだと主張したのです。たしかに「欲ばり」ですね。即身仏はたしかにミイラで、高僧が死を迎えるに当たり、食事などをコントロールして、死んだ後も腐敗しないように加工して、そのすがたを残したものです。手塚治虫の『火の鳥』の「鳳凰編」で、その様子が描かれています。歴史的に正しいかどうかはよくわかりませんが。

仏像の頭が盗まれたという話があったが、頭を盗んでどうしたのでしょうか。売った?頭だけあっても怖いです。バチが当たりそうだし・・・。状態の悪いのもあったし、しっかり管理してほしいです。

本当にそうですね。盗んだ頭は当然売ったでしょう。アジア各地でこのようなことはいくらでも行われていて、欧米の骨董品市場では、高額で取引されています。日本の仏像もときどき、盗難に遭い、海外に流出しています。頭だけ盗んだのは、全体を運ぶには重かったからでしょう。石の固まりですから。

多面多臂の仏像が、オリッサでもありましたが、顔や腕が多いともう人の形ではなくなってしまいますが、仏とかは人が修行してなったのに、どうして多面多臂の仏像が作られるようになったんでしょうか。

インドにおける多面多臂像の出現は、インド美術史上の謎のひとつです。ヒンドゥー教の神もしばしば多面多臂をとります。どちらが先かはよくわかりませんが、ヒンドゥー教がやや先行するのではないかと思っています。作例としては、エローラあたりのものが早いので、このあたりで制作され始めた可能性もあります。「仏は人が修行してなったのに・・・」というのは面白いコメントです。密教の時代には仏は人が修行してなったものではないと思われていたのでしょう。インドの仏教美術の歴史を考えると、はじめの頃に人の姿で表されなかったことを連想させます。表現方法は違いますが、仏が人の姿をとらないという点で、むしろ密教美術はその時代に回帰しているのかもしれません。

オリッサだけでなくエローラでも思ったのですが、仏像の腕が長いですね。肩幅も不自然に広く見えます。大威徳明王は正直よく見えませんでした。水牛まではなんとなくみえるのですが・・・。あとは心の目で見ます。八難救済ターラーは、観音が脇侍から独立したように、人気を得て単独で作られるようになったのでしょうか。ブリクティーの単独像はないのでしょうか。

仏像の腕が長いのは、三十二相のひとつに含まれていることにもよります。大威徳明王は、やはりよくわかりませんでしたか・・・。わたしにはありありと見えるのですが。ターラーはそのとおりで、もともとは観音の脇侍だったのですが、単独像がさかんにつくられるようになり、さらにターラーも脇侍を従えた三尊形式をとります。ターラーのマンダラもあります。密教の時代は仏の種類が増加した時期でもありますが、このように「出世」をする仏がいろいろ現れます。ブリクティーの単独像はターラーに比べるとずっと少ないのですが、14点ほど現存作例があります。

・仏教とは少し離れてしまいますが、授業の中でインドの遺跡や遺物の保存法が悪いと言われていました。貴重なものなので、その重要性に早く気づいて大事に扱ってもらいたいです。また先生はインドでたくさん写真を撮っていますが、インドの遺跡などでは、写真を撮ってはいけないということはあるのでしょうか。先生は許可を得て行っているのですか。
・今まで資料の写真は先生がどこかの資料から引っぱってきているのだと思いましたが、実際に現地に行っておられたのですね。先生はお正月にインドに行っておられたそうですが、発掘などをされているのでしょうか。

インドの遺跡で写真を撮るときには、原則として許可が必要です。デリーにあるインド考古局や、各地にある支部に許可証を発行してもらいます。アジャンタやエローラは観光客も多いので、許可はなくても撮影可能なのですが、いずれも三脚が使えません。この場合、撮影許可に加え、三脚使用の許可も取ります。撮影した後も、そのデータを当局に提供したり、刊行物に用いた場合、それを何部かを贈呈することも求められます。いろいろなルールがあるのです。なお、授業で使っている写真は、できるだけ自分のものを使うようにしていますが、日本の作品や、インドのものでも入手していないものは、文献から複写しています。前回や今回の東インドは、何回か調査に行っていますので、ほぼ、自分の資料を使っています。考古学者ではありませんので現地では発掘は行いません。また、日本人が飛び入りで発掘をさせてもらうことも不可能です。作品の調査と写真撮影が中心ですが、限られた時間なので、いつもデータを集めることに時間を割いて、作品をじっくり見ることがおろそかになります。帰国してから後悔しています。

・曼荼羅で五色というのは、視覚的に簡略できる最低限の色でしょうか。それとも「五色の糸」みたいな感じなんでしょうか。色もおのおの違うのでしょうか。同じなのが変色して違うように見えるのでしょうか。
・鳥瞰のとこで、マンダラの色が五色、円と正方形のみというのに驚きました。でも、聖なるものとして把握したものだけで作った世界だから鳥瞰できるし、そうでなければ無理だというのがわかります。視聴覚メディアの授業で、デジタル化は有限化という話を聞きましたが、無限を有限にすることはいろいろな分野であるのですね。わかる形にしてわかるというか、わかることしかわからないという気がします。

五色というのは白、青、黄、赤、緑です。五色の糸の五色もこれと同じです。密教内部では、この五色が五智、すなわち仏の5種類の知恵を表すというような解釈が行われます。日本のマンダラはいろいろな色の顔料が用いられていますが、インドで作られた儀礼用のマンダラや、その流れをくむチベットの砂マンダラは、5色の砂だけで作られています。「デジタル化は有限化」というのはおもしろい表現ですね。そのうち、授業などで私も使わせていただきます。

仏像が立像の時に、よく腰の部分が曲がっているときがありますが、何か意味はあるのでしょうか。

インドの彫刻で古くから見られる形式で、三曲法(tribha?ga)と呼ばれます。マトゥラーのヤクシー像でも見られましたし、中国や日本に伝わった樹下美人図も、その影響下にあります。

インド仏教美術地図を見ると、仏教遺跡は大きな川沿いに多く分布していました。これは水が仏教と何らかの関連があるからなのでしょうか。それとも単に川沿いに都市が発展するからなのでしょうか。考え過ぎかもしれませんが、密教美術の「ふるさと」のオリッサも、米作地帯があるので、それなりに水源=水が必要になります。

そのとおりですね。仏教遺跡の多くは川の近くにあります。この水は、生活用水であると同時に、流通の経路でもあったでしょうし、都市の形成にも関連するでしょう。僧院は都市の内部には作られませんが、かといって、あまり離れたところでは、寄進が受けられませんから、成り立ちません。仏像を作るためには石を運ばなければならないので、そのためにも川が用いられたと考えられます。また、多くの儀礼で水が必要とされたことも、関係するでしょう。密教の文献には僧院の立地条件が記されているものがありますが、それにも川沿いに作るようにという指示があります。現実にそのようなところに作られたので、それを推奨したということだと思います。

テキストで、地域によって説話的要素を含むものと、ほとんど含まないものというように、仏像の種類に違いが見られるということが書いてあったが、どうして地域によって、このような違いができているのだろうか。

インドの仏教美術で、説話的な作品と、説話的な要素を含まない礼拝像的な作品が、どのように出現するかは、興味深い問題です。サンチーやバールフットなどの初期の仏教美術は説話に大きな関心を寄せていましたが、マトゥラーではすでに礼拝像が好まれる傾向にあります。サールナートを経て、今回取り上げるパーラ朝では、八相図という礼拝像化した仏伝図に、説話的な要素はほぼ限定されます。しかし、その南のオリッサでは八相図さえありません。一方、アジャンタとエローラを見てみると、きわめて近い位置関係にあるにもかかわらず、アジャンタではジャータカや仏伝の壁画が多数残されているのに対し、エローラではほとんどありません。どうしてなのでしょうね。


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