南アジアの仏教美術

2005年12月15日の授業への質問・回答


頭上にストゥーパや仏像を載せるのはおもしろいです。文献に出典はあるのでしょうが、図と文どちらが先なんでしょう。図が先ならなぜ付けるようになったのでしょう。マンダラは建造物の平面図や立体図をひとつにまとめたものと、読んだプリントにあり、またスライドの説明を聞いていたのですが、さっぱり見えてきませんでした。インド、チベットの空間の考え方はわからないです・・・。エローラは変化がなくて、私としてはあまりおもしろくないなぁと思いました。画一化が始まっているのですね。

菩薩が頭のところに小さな仏像や仏塔を載せるのは、グプタ期頃(西インドではサータヴァーハナ朝など)から流行し、パーラ時代にはほぼ定着しました。その起源や理由はよくわかっていません。文献よりも作例が先行するのはたしかです。仏像を載せるのは一般に観音で、仏像は観音と密接な関係のある阿弥陀ですが、はじめの頃は観音以外でも見られ、揺れがあります。仏塔は弥勒が一般的ですが、金剛手にも見られます。弥勒と仏塔の結びつきは、釈迦の涅槃の象徴である仏塔と、釈迦の実質的な後継者である弥勒がつながるからです。マンダラの構造については、たしかにマンダラを見ているだけではなかなかわかりません。壁や門は設計図のように平面的に描いてあるので、頭の中で組み立て直さなければなりません。また、天井や屋根は描いてありませんので、想像になります。最近ではCGをつかった解説のCDなども、海外で販売されているのを見ますが、それが本当に正しいか疑問です。エローラが変化がないように見えるのは、授業で私が紹介したスライドによるところが大きいでしょう。実際は、30窟あまりあるエローラはヴァラエティに富んでいて、見飽きることがありません。とくに、第14窟以降のヒンドゥー窟は、傑作揃いです。神々の像は変化や動きにとみ、迫力があります。第16窟のカイラーサナータ寺院は、インドのヒンドゥー教寺院の代表例のひとつにもあげられます。私はこの冬休みに4日ほどエローラに滞在しましたが、丁寧に見ていたら、すべて見ることができませんでした。なお、仏教窟に関して言えば、授業で取り上げた八大菩薩などがある窟は11、12窟で、たしかに画一化が進んでいますが、それよりも前の窟(1窟から10窟)は、変化のある像が多く見られます。

・エローラの女尊や女尊の脇侍を伴った観音などで、片足をおろしている姿の像が目に付きました。ああいう座り方が、当時の身分の高い人々などで一般的だったのでしょうか。他の地でもそうであったのに、私が気づかなかっただけかもしれませんが。

・エローラの仏たちは半跏座がとても多いのに驚きました。また、立像が軽く重心をずらした感じで、正面性の強いマトゥラー系よりガンダーラ系に近いように思います(しかし、女尊のリッパな腰などは、中インド系のと同じですが)。こうした「曲線」は仏の「力強さ」より「優雅さ」が好まれたことの表れかと感じました。それは、装飾的要素の多い菩薩像が流行したことと関係があるのでしょうか。

片足を下におろす半跏坐は、菩薩の坐法として一般的です。菩薩はまだ仏になっていないので、瞑想や禅定に入った姿である結跏趺坐はとらないからです。また、はじめの方の指摘にあるように、菩薩のイメージのもとにある王侯貴族のすわる姿として、半跏坐のような形が、マトゥラーや南インドのアマラヴァティーなどで広く見られます。立像の姿が曲線を強調しているのはそのとおりです。マトゥラーに見られた正面性の強い弥勒や観音像とは異なるイメージで、ヤクシャやヤクシーなどに見られた優美さに通じるものがあります。同じような曲線的なイメージは、南インドでも見られました。アジャンタやエローラの仏教美術は、これらの地域の影響を受けて成立したのでしょう。また、西インドには、前期窟と総称される早い時期の石窟もあり、当然、その流れもくんでいます。曲線的なイメージの持つ「力強さ」よりも「優美さ」は、このあとのパーラの時代になるとさらに顕著になります。それに比べれば、西インドの石窟の菩薩像などは、まだまだ力強いイメージが支配的に思います。オーランガバードの守門神などはじつに堂々としたものです。

エローラでは独特の三尊形式があったとされたが、三尊になった理由等、何かあるのであろうか。仏の従者として左右ひとりずつ配置したとしても、仏はひとりか団体のイメージが強かったもので、やはり3という数字に仏教的な何かがあったのかと勘ぐってしまった。掛け軸等で見る、雲の上からやってくる仏たちは団体のイメージです。それらの仏とは起源の違う話なのでしょうか。終わりにやった9体の仏パネルの方が、四方八方守るという意味でしっくりきた。

三尊形式は仏像が誕生して、かなり早い時期に現れます。ガンダーラでもマトゥラーでも見られ、とくにマトゥラーでは、後世の観音と金剛手に相当する従者も確認できます。ガンダーラでは観音と釈迦(成道前の悉達多太子)、あるいは弥勒の組み合わせが好まれたようです。説話美術では、三道宝階降下の釈迦と梵天、帝釈天の組み合わせも、形式としては三尊です。三尊形式はインドの仏教美術で最も好まれた形式のひとつなので、その流れをたどることで、それぞれの地域の相互関係が明らかになることがあります。「掛け軸等で見る雲の上からやってくる仏たちの団体」というのは、はじめの頃の授業でも紹介した来迎図を指すと思いますが、インドには来迎図や、それを含む浄土系の美術は残されていません。来迎図は中央アジアで成立した極楽浄土図に付随する九品往生図に由来するようです。また、来迎図は阿弥陀を中心とする集団ですが、その先頭には観音と勢至が必ず位置し、阿弥陀とこの二人の菩薩だけで構成されることもあります。その場合はやはり三尊形式となります(阿弥陀三尊)。

昔は公開処刑とかさらし者とかも、一種の娯楽として、見物にいったんでしょうね。自分が殺される側ではないときはいくらでも残酷になれるのでしょう。信じがたいけれど、石窟なんて掘れるもんなのだなと思う。人間って可能性がほんとうに無限ですね。

ほんとうに人間というのは残酷なものです。いまでもマスコミが殺人事件などのニュースをこと細かく報道するのは、このような「ひとの不幸」を見たい人間の心理をとらえているからでしょう。石窟を掘るのはたしかにたいへんでしょう。この冬休みの調査旅行で、アジャンタ、エローラはじめ、西インドの石窟を10以上見て回りました。どこも規模が大きく、それを機械がない時代に、「のみ」や「たがね」そして金槌だけで掘っていくのですから、昔の人たちの根気強さには驚かされます。10年や100年の単位でものを作っていったようです。倦まずたゆまず、黙々と岩山を刻み続けたのでしょう。実際にできあがった石窟は、まるで石を積み上げたようにきれいで正確なことにも感心しました。精密な設計図があるわけではないので、勘と技術だけでそれをなしえたのでしょう。仏像やヒンドゥー教の神の像が掘り出されたところもありますが、それも最初から計算しながら掘っていったわけです。このときにご一緒した建築学の方にお聞きしましたが、石窟は基本的には上から下に掘っていったそうです。洞穴のような構造をしているので、前から後ろに掘っていったと思っていましたが、力をかけるためには、当然、上から下に掘る方がずっと楽なのです。

不浄なものについての話ですが、たとえば、死は非日常であるということで、自分たちの世界とは異なる世界(神のところ?)へ行く、または、そこに関係するという点において「聖なる力が宿る」といえることですか?それとも、非日常に至る過程で、何らかの力(=聖なる力)が働いたと考えるということですか。

もちろん、そのように考えることも可能です。その場合、俗なる世界であるわれわれの世界と、聖なる世界を区別し、その間の運動や移動に注目していることになります。また、聖なるものが力を持っていることも、おそらく宗教に関わる人間には普通に感じられることでしょう。ただし、不浄なるものが聖なるものであるという考え方は、そのような二つの空間や力を用いなくても、理解できることだと思います。死が不浄であるというのは、死という現象をはじめ、死体、死者に関わる人間や社会、それらがいずれも不浄なものとなり、特別な扱いを受けるということで、「聖なるもの」と見なしうるということです。出産や月経などの女性に関わる不浄観も同様です。

マンダラでは中心にいる方がより位が高いのですか。胎蔵マンダラではシャカが外側にあり、八大菩薩尊像では、中心に位置してました。そのときの仏のうちで、位の高いものが中心ということでしょうか。

基本的にはそうです。マンダラの中尊に選ばれるのは、その時代の仏教(密教)で最も重要と見なされる仏です。そのため、インドやチベットでは時代ごと、さらに経典や流派ごとに異なるマンダラがあり、その数は100を超えています。しかし、マンダラが仏のヒエラルキーを表した図であると見なすのも、いささか問題で、むしろ、そのマンダラを生み出した人々が、仏たちをどのような関係でとらえていたかを表したと見る方が適切です。たとえば、マンダラの一番外側にはヒンドゥー教の神が描かれていますが、これは「異教の神」であるため位が低いと見るよりも、マンダラの構造上、そのような神を境界上に配置することがより効果的であったと考えるべきでしょう。実際、内部の仏教の仏はどんどん顔ぶれを変えていきますが、ヒンドゥー教の神々は、初期のマンダラから終末期のマンダラまで、主要なメンバーはあまり替わらずに登場します。私はかれらこそマンダラの「影の主役」ではないかと思っています。

先生の新聞記事の中で、チベットやネパールのマンダラは灌頂で用いられる装置とありましたが、マンダラが用いられたのは灌頂の時のみなのですか。たとえば、普通の民間人が信仰の対象に用いるということはなかったのでしょうか。

あります。ただし、日本とチベット・ネパールでは異なります。日本の場合、金剛界と胎蔵界の二つのマンダラ(両界曼荼羅といいます)が重要で、これを用いて灌頂をはじめ、さまざまな修法(儀礼)が行われました。ほかにも別尊曼荼羅という一群のマンダラがありますが、これもいろいろな儀礼と結びついてます。加持祈祷の世界です。しかし、いずれの場合も、マンダラを見ることができたのは、儀礼を行う僧侶と、その儀礼を依頼した天皇や貴族に限られたでしょう。一般大衆がマンダラを見る機会は、最近の数十年を別として、日本史上、ほとんどなかったと思います。ただし、当麻曼荼羅や参詣曼荼羅などの別の形式のマンダラは、人々への布教に用いられたので、また別です。これに対し、チベットやネパールでは、マンダラはもう少し広く公開されています。普通の人たちが拝むためのマンダラはたくさんありますし、ネパールでは寺院の庭に石造や金属製のマンダラが置いてあります。チベットでは砂マンダラを作りますが、その砂は御利益があると信じられていたので、儀礼の後には信者に配られます。一言でマンダラといっても、その内容や機能はさまざまなのです。なお、来年の私の授業(仏教学特殊講義)は、マンダラを中心にしたものを予定しています。「これでマンダラのすべてがわかる」という授業を目指しているので、関心がある人は受講してください。

私の記憶違いかもしれませんし、とても曖昧な記憶なんですが、昔、曼荼羅に(ハスの?)華を投げて、それが落ちたところに描かれているのが自分の守護神的存在であるといったような儀式があると聞いたことがあります。本当でしょうか。

本当です。灌頂の儀礼の一部で、投華得仏(とうげとくぶつ)と言います。灌頂を受ける弟子が目隠しをしたままマンダラの前に立ち、合掌した手に持つ花(日本ではシキミという植物の葉を用います)を、マンダラに向かって投げます。その落ちたところに描かれている仏が、その弟子の一生の守り本尊になります。ルーレットかくじ引きみたいなものですね。その後、弟子は目隠しをとって、師(阿闍梨)からマンダラを示され、灌頂水を注がれたりします。灌頂とは弟子がマンダラの中尊(日本では大日如来)と同じであるという自覚を与える儀礼ですが、投華得仏で選ばれた仏は、その橋渡しのような役割をするのでしょう。なお、空海が中国で2種の灌頂を受けたとき、投華得仏ではいずれも中央の大日如来のところに花が落ちたと伝えられています。そのため、日本の真言宗ではそれにあやかり、どこに花が落ちても「大日如来のところに落ちた」としてしまうそうです。司馬遼太郎が『空海の風景』の中で、このことを痛烈に批判しています。

白峰に行ったとき、白山の神々を縦に並べ、一番上に菊理姫を描いた絵がありました。絵こそ日本風でしたが、あれもマンダラだろうか。

マンダラです。でも日本独自のマンダラで、ジャンルとしては「神道曼荼羅」のひとつになります。神道曼荼羅は春日曼荼羅や那智曼荼羅が有名ですが、北陸の神道曼荼羅として白山曼荼羅は重要です。

マンダラ=密教というイメージが強いのですが(というより密教儀礼で使うそうですが)、鎌倉仏教の中でマンダラを使っているところはないのでしょうか。

マンダラは本来密教のものでしたが、上記の神道曼荼羅からもわかるように、仏教を中心にさまざまな宗教が取り入れます。鎌倉仏教では浄土宗の浄土曼荼羅(とくに西山派の当麻曼荼羅)、日蓮宗の名号の曼荼羅、著名な神社仏閣の景観を含む社寺参詣曼荼羅などが、鎌倉以降も作られます。

三つの宗教が同じ建物の中に存在し、受け入れられているというのに驚いたが、三つとも起源や内容に似たところがあるので、互いに自分の教えに組み込んだり、影響しあっている部分が多いので、人々が同じく信仰し、エローラを作ったのも納得できる。私は観音等の釈迦以外の仏が中心になっている作品の方も普通に見ていたので、違和感がなかったが、釈迦以外にスポットライトが当てられたのが、エローラからだというのを逆に初めて知った。

エローラのように仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教という三つの宗教が共存していたのは、インドでもめずらしいと思います。ただし、34ほどあるエローラの石窟は、大きく三つの地区に分かれ、12窟までの仏教窟、13窟から29窟までのヒンドゥー教窟、30窟以降のジャイナ教窟と、棲み分けられています。成立時期もずれがあり、一部は重なっていますが、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の順にできていったようです。石窟の中にいた僧侶たちや依頼主は別ですが、石工は共通しているので、建築様式や尊像の形式には共通点がありますし、影響関係も当然認められます。余談ですが、今度の旅行で目についたのがチベット人の参拝者たちです。その多くはインドに在住している人たちです(1960年代以降にインドに亡命したチベット人とその家族)。かれらは仏教窟だけではなく、ヒンドゥー教窟でも熱心に参拝していました。「それは仏像ではないよ」と言ってあげたくなりましたが、彼らにとってはヒンドゥー教の神様も、仏教の仏の一部なのかもしれません。これもエローラならでは参拝風景でしょう。観音等が中心となるのは、必ずしもエローラがはじめてではありませんが、西インドの石窟で流行した形式で、これがパーラ朝でも継承されるようです。


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