南アジアの仏教美術

2005年12月8日の授業への質問・回答


聖なるものはグロテスクな様相を表すと言っていたが、グロテスクなものが持つ何か奇妙な雰囲気だとかを結びつけたかったからだろうか。魅畏という言葉をはじめて聞いたので、雰囲気を察することができない。また、仏像や仏教に深く信仰心を持っているわけではないので、仏像を見て深く何かを感じることはないのだが、それと同様な雰囲気はどうすれば味わえるのでしょうか。

前回の授業のテーマである「聖なるものは不浄なものとしても顕現する」という考え方には、「よくわからない」「不浄なものがどうして聖なのか」という感想や疑問が多く見られました。「ガンジス河の沐浴のようなことか」という質問もありました(ガンジス河は汚れているけど、聖なる河と言われるから)。これらは私には意外だったので、今回の授業で少しだけ説明をするつもりですが、宗教学や民俗学で「不浄」というのが衛生学的に問題があるという意味ではないことを、まず理解する必要があります。たとえば、死者が出た家はしばらくの間「ケガレた」状態になります。別に、家族が亡くなったからといって、その人が衛生的に問題があるわけではありません。死や死者は「ケガレ」の最も強いものなので、その力を家族も受けるということです。喪という言葉がありますが、これが死の「ケガレ」を表す言葉として、現在では広く用いられています。喪中のはがきを出して年賀状を出さないという習慣は、広く行われていますが、これは「ハレ」の日である正月に、ケガレの家からの年賀状はふさわしくないからです。このほかにも、お産もケガレと見なされます。おめでたいはずの子どもの誕生が、どうして「ケガレ」なのか理解できないかもしれませんが、お産をそのようにとらえる文化は世界中にあります。死も誕生も、われわれの理解を超えた神秘的なできごとであるからかもしれません。「魅」と「畏」は別の言葉で、熟語ではありません。「魅」は「魅力」とか「魅せられる」という用例から、何か良いイメージがある文字のように見えますが、「鬼」という文字が中に入っていることからもわかるように、本来は恐ろしい物の怪がわれわれの心をとらえて放さないことを表します。「恐ろしきもの」「グロテスクなもの」というのは、そのような力を持つものであり、それゆえに宗教学的に重要な存在、すなわち「聖なるもの」になります(コメントの中の「グロテスクなものの持つ何か奇妙な雰囲気」というのが、まさにそれなのですが)。「畏」という文字も「おそれ」と読みますが、「かしこし」という訓もあります。「賢い」などとおなじ言葉になりますが、いずれも「人智を超越した能力」をあらわします。われわれを超えた恐ろしい存在であるので、畏怖し、「かしこまる」のです。これらの「ケガレ」や「畏怖する」あるいは「不浄」という概念は、宗教学や民俗学にとって最も基本となるものです。これまで私は、このような感覚はだれでも感じることができると思っていたのですが、皆さんの中には個人差があり、ほとんど意識しないでこれまで生きてきた方もいらっしゃることが今回の授業でわかり、勉強になりました。皆さんの方も「聖/俗」「浄/不浄」「ハレ/ケガレ」などの概念を、宗教学や民俗学の本で勉強してください。参考文献をあげておきます。
エリアーデ、ミルチャ 1969 『聖と俗  宗教的なるものの本質について』風間敏雄訳 法政大学出版局。
波平恵美子 1984 『ケガレの構造』青土社。
ダグラス、メアリ 1985 『汚穢と禁忌』塚本利明訳 思潮社。

アマラヴァティーの四相図にある涅槃図で、ストゥーパの入り口によみがえった仏陀が表現されていましたが、仏陀の死は特別なもので、他の一般的な死とは違うものなのに、再生するのですか。再生してもまた仏陀となるのですか。あるいはストゥーパの「母体」としての機能を強調しているのでしょうか。

最後の「母体としての機能の強調」というのが妥当と思います(「母体」は「母胎」の方がいいかもしれません)。アマラヴァティーのストゥーパ図は、この地方にのみ見られるものなのですが、その中央に現れるモチーフに共通性があることに注目しました。すなわち仏陀、転輪王、ナーガなどですが、これらはいずれもストゥーパのなかにとどまるべきものです。仏塔が扉を開き、中から仏陀や転輪王が現れるのは、ストゥーパが単なる墓標ではなく、そこから新たな生命を生み出す母胎であることを示しています。この場合の「新たな生命」とは「世界全体に広がる法」でもあり、ストゥーパが増殖するイメージも有していたことが、これに結びつきます。後世の『法華経』で、世界中に宝塔が出現するイメージや、密教経典が仏塔の中から現れ、そこで後継者に託されるという物語が生まれるのも、ストゥーパが真理(=法)を生み出す母胎であるからです。この場合の「法」も、これまでとりあげてきた法と同じで、単なる教えではなく、「秩序」に近い意味を持ちます。

不浄のところから、アジャンターの「パーンチカとハーリーティー」のとこで、恐いから信仰するという話がありました。日本でも龍とかは強いパワーを持って神になると、人々はお祈りして、それがかなったのに何のお返しもしなければ逆に災いになるというのに近い気がします。キリスト教はなでもありで包み込んでくれる感じがしますが、恐いから祈るタイプの方が身近な気がします。そういう神は、もとからの神でない気もします。

不浄とかグロテスクなものということで言おうとしたのも、そういうことです。とくに私は「恐いもの」がもつ懲罰者と救済者の二面性(あるいは両義性)というのが好きで、論文や本でもよく取り上げます。キリスト教が何でもありかどうかはよくわかりません。グロテスクなものも聖なるものであるというのは、おそらく特定の宗教に限らず、人類に普遍的に見られるもので、むしろオットーがそれを「ヌミノーゼ」という語で呼んだのは、キリスト教(とくにプロテスタント)ではあまり意識されていなかったからでしょう。「恐いから祈る神は、もとからの神ではない」という見方は、おそらくキリスト教(あるいはユダヤ教やイスラム教)の絶対的な神や創造主としての神が、「もとからの神」であると意識と思いますが、どちらも「神」であり「聖なるもの」と見た方が、宗教はおもしろくなります。

ヤクシャが口から花綱を出すように、日本神話にも体の穴からいろんな植物を出す女神がいましたね。

古事記に出てくるオホゲツヒメです。この女神はスサノオによって殺されますが、死体からさまざまな植物、とくに食物となる植物が生えてきます。この神話のモチーフは東南アジアを中心に広く見られ、その代表てきな女神の名である「ハイヌウェレ」から、「ハイヌウェレ型神話」と呼ばれます。

・不浄観を見るのに、死体を見るあるいは描くというのは、仏教世界特有の発想のように思える。不浄なものとあえてみたいと思おうこと、それでさえも生として人間が生きる上で必要なものとして表現するのは、特殊なことなのだろうか。キリスト教ではそのようなグロテスクな生々しい有様は、まさにケガレとして忌み嫌ったり表現しない傾向があると思うが、他に不浄=生といった発想を持つ宗教はあるのだろうか。

・「死の舞踊」は死に興味云々よりも、ペストの流行など死を見つめざるを得ない状況で生まれたんじゃなかったのですか。

ヨーロッパのキリスト教世界と、授業で取り上げた不浄観とが結びつかないという感想も多く見られました。おそらく、高校までの世界史的な知識では、キリスト教が持つグロテスクや死のイメージには、ほとんどふれることがないでしょうが、おそらく仏教以上にそのようなイメージで満ちているでしょう。絵画のモチーフとしてもグロテスクなものが現れることは、ヒエロヌムス・ボッスの作品などを見れば、よくわかります。「死の舞踊」がペストの流行を密接な関係があるのはもちろんですが、「死を見つめざるを得ない」という点では、むしろ不浄観と同じ動機になるのではないでしょうか。キリスト教美術に見られる死やグロテスクのイメージは、この分野の優れた研究者である小池寿子さんの以下のような著作が参考になります。ぜひ読んでみてください。
小池寿子 1994 『死者たちの回廊  よみがえる「死の舞踊」』平凡社。
小池寿子 1999 『死を見つめる美術史』ポーラ文化研究所。

「視覚的恐怖」は、見るものにとっては自らの身に危険がなく、冒険できるという話がおもしろかったです。不浄観は身体的苦痛を味わう苦行に対し、視覚的苦痛を味わう一種の苦行であるという気がします。

前回の「不浄なものも聖」というのは、私だけが言っているのではなく、宗教学ではいわば常識なのですが、「視覚の冒険」という考え方は、授業の準備をしながら思いついたことで、それとは少し違った視点です。人間の五感の中で、とくに視覚というのは、圧倒的な情報量を持ちながら、しかも直接、身体に影響を与えないという点で、突出しています。テレビやビデオ、インターネットなどの視覚に訴える娯楽が、現在でも人間をとらえて放さないことも、その例です。不浄観が視覚的苦痛というのもそのとおりですが、苦行というのは単に苦しいだけではなく、一種の快感も伴うことがあります(マゾ?)。不浄なものやグロテスクなものを見るというのは、人間の本能に訴えかけるものがあるのでしょう。授業でも言いましたが、「怖いもの見たさ」という表現は、このようなものを見ること、すなわち視覚が冒険できることをあらわしています。聴覚や嗅覚、触覚などの他の感覚でも、このような冒険は少しは可能でしょうが、危険度はたかいでしょう(難聴、失神、怪我、やけどなど)。

ナーガ=龍王と考えていいのでしょうか。仏の生涯のいろいろなシーンに龍王は出ていますが、彼は人型であったり、ヘビの姿だったりしています。比丘たちと違って、奥さんがいると言うことは俗物なのでしょうか。しかし、アショーカ王からストゥーパを守ると言うことは、何かの神通力みたいなものがある偉い神様なのでしょうか。スジャータのシーンで、仏が皮に捨てた鉢を拾おうとして梵天に横取りされるので、立場は弱いのでしょうか。はたまたヤクシャやマカラのようなモンスターのような存在なのでしょうか。

ナーガは龍と訳されるので、龍王でいいのですが、たしかにその役割はいろいろですね。表現方法としては、仏伝などの説話図では人型で、「蛇蓋」といって、1匹ないし数匹の蛇の鎌首を頭の後ろに付けることが一般的です。前回のストゥーパ図のように、ヘビそのものをして表す方が少数派でしょう。ナーガ信仰はインドにおける民間信仰の代表的なもののひとつで、仏教もこれを大いに利用したようです。ナーガ信仰から仏教を見ると、仏教の別の姿が見えてきます(研究もかなり豊富です)。


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