南アジアの仏教美術

2005年12月1日の授業への質問・回答


VPN接続後、キーワード入力して送信、しおりをつけて終了したと同時に再起動になりました。その後、「システムに深刻なエラー」といわれました。ショッキングな提出方法ですね。出されてなかったら怖いです。

それはほんとうに怖いですね。提出されているので安心してください。上の説明が該当するようでしたら、設定し直してください。

マトゥラーの像は卑猥なものが多く、インドでは「聖なるもの」をプラスに考え、こういうものこそが寺院の装飾にふさわしいと考えられていると聞いたが、幼い子も訪れるだろうに、いいのだろうか。インドでは「聖なるもの」をよく考えられているのであるから、子供にも悪影響とかいうことは考えないのだろうか。

「卑猥」というと「いやらしい」という感じですが、あまりインドの女性像には当てはまらないような気がします。もちろん、インドのお寺には子供もお参りするでしょうし、近所の子供の遊び場にもなっています。でも、それが「卑猥な像」だとはおそらく思っていないでしょう。余計な話ですが、インドの博物館には、授業で紹介したヤクシー像のような、女性(女神)の裸体像がしばしば陳列されているのですが、見る人が胸や性器の部分を触っていくので、黒光りしていることが多いです。しかし、だからといって、それが卑猥な像だと思っているわけではないようです。隠した方がよっぽどいやらしく感じられるでしょう。以前、プロの写真家の方から伺った話ですが、ヌード写真は撮る人の意識に応じて、美しくもいやらしくもなるそうです。そういうものなのでしょう。

・以前、女性の仏教美術は少ないと聞きましたが、マトゥラーでは女性を表した美術が多いとわかりました。女性は「ものを生み出す力」があるから、表現の対象になったとのことですが、いつ頃からなぜ、そのような傾向になったのですか。また、大地は女性のイメージという話で、「大地讃頌」という歌の「母なる大地」という歌詞を思い出しました。

・女性の像からは、たしかにいやらしい感じではなく、何かしらのパワーが感じられるような気がします。社会的には女性は弱いイメージがありましたが、こういう根本的なところで重要視されているというのは、女性としてはなんだかうれしく思います。

女性の像についてのコメントが、今回は多く見られました。「女性の仏教美術は少ない」ということは、あまりお話しした記憶はないのですが、たぶん、それほど少なくないと思います。ただし、仏や菩薩は基本的に男性なので、尊像彫刻などの女性像は比較的少なくなります。女性は「ものを生み出す力」を持つことから、生命の根元、あるいは生命力そのもののイメージとして、世界中広く見られます。日本の土偶も西洋古代のヴィーナス像も、いずれも女性、とくに母のイメージでしょう。生物学的な知識として、すべての生物は基本的に女性であるということを読んだことがあります。生物というのは次世代の子孫を残すことが最も重要であるため、そのような構造になっている。しかし、有性生殖をするためには子孫を残す働きを持つメスと、その機能を少しだけ分けてもらって、生殖を手伝えるオスに分かれる必要がある。そのため、はじめはメスとして生まれ、受精卵から成長するプロセスでメスから無理にオスに変える。ということです。そうしますと、われわれオスはきわめて不自然な存在になるようですし、平均寿命が短いのも当然です。

インドネシアのラクシュミーの背面になる蓮の彫刻は、アールヌーボーの美術品のように見えました。インドの蓮の描き方より、美しく感じました。写実的なものに目がなれているのかもしれません・・・。あるいは形の問題かもしれませんが。

「おっぱいが流れ出ている像」の乳房を抱えている腕も、ラクシュミーのものですか。それとも背後から別の人が愛撫しているのでしょうか。

ヴィーナスは「海の泡から生まれた」というのが私の聞いた話だったので、包み隠した表現だったのかしら・・・と思いました。

エリアーデの文章は知識・情報の多さにも驚かされますが、何より流麗な文体に感動しました。儀礼研究をする人って、皆こうなんでしょうか。フレーザーの『金枝篇』も、少しだけもを通したことがありますが、非常に美しい表現がなされていたと記憶しています。

「性交する」の意で「まぐわう」という言葉がありますが、「まぐわ」というのが畑を耕す道具であることを、エリアーデの文章で初めて知りました。あれ、ひょっとして一般知識??

すべてに答えるのはたいへんなので、一部について。「おっぱいが流れ出ている像」の乳房を抱えている腕も、ラクシュミー本人のものです。私は腕の多い像は見慣れているので、そのようなことは思いつかなかったのですが、ほかにも同じような質問をされた方がいました。たしかに、そう見えなくはないですね。エリアーデは20世紀を代表する宗教学者ですが、小説も書いています。私も一冊持っていますが、幻想的な内容で、あまり趣味に合わず、読了していません(福武書店などから出ています)。授業でも紹介しましたが、エリアーデは宗教学の領域にとどまらず、人文学のさまざまな分野に大きな影響を残した「知の巨人」です。私より上の世代の研究者にも、エリアーデのファンだった人はたくさんいます。何よりもその博覧強記に驚かされますが、そこからきわめて平明な原理を見いだすことも、彼の得意とするところです。私の先生は「エリアーデはテレビだ」と言ったことがありますが、「何でもありで、わかりやすい」ということなのでしょう。しかし、われわれがそれのまねをしても、軽薄にしかなりません。「まぐわ」と「まぐわう」はおもしろいと思ったのですが、「広辞苑」をひくと、農具の「まぐわ」は「馬鍬」つまり馬につける鍬で、「まぐわう」は「目を見合わせあうこと」(目+交わす)から「男女が愛情を知らせること」「性交をすること」になるそうで、残念ながら、語源的には別のようです。

すべての仏塔にはほんとうにシャカの骨(とされるもの)が納められているのでしょうか。それとも、仮に骨がなくても、それをあがめるものとして役割を果たすのでしょうか。

シャカの骨は有限ですから、世界中にある仏塔すべてに納めることはもちろんできません。もしあるといっても、それはおそらくニセモノでしょう。しかし、授業でも紹介したように、仏塔の持つ「生命を生み出す機能」は、中に納めた舎利を増殖させる働きがあったようです(ほんとうかどうかわかりませんが)。涅槃の後に建てられた8つの仏塔から、アショーカ王が舎利を取り出し、それを八万四千の仏塔に納めたという伝説があります。8を八万四千倍するわけですから、ひとつは芥子粒のようになるでしょうが、その行為そのものが、仏教の興隆や、仏法による世界の秩序化を意味しているわけです。はじめの頃の授業で取り上げた、仏の身体よりも法そのものの方が重要という立場からは、かならずしも実際の舎利ではなくても、法身偈をかいた紙でも舎利になります。日本では水晶を舎利と見なす伝統もありました。

日本で性的なものがタブーとされてきたことと、「男尊女卑」の考え方というのは密接につながっているような気がします。「女性が劣っている」という考えは、女性に生命力やものを生み出す力というものを全く見いだしていないように思えるからです。

たしかにそういうところはあるでしょう。でも、日本でも男性や女性の性器をご神体にしたところや、それを用いた祭礼などが各地に残されています。こけしや道祖神なども、このような性器信仰との結びつきがあります。仏教に関しても、一時期弾圧された歴史があるのですが、密教の中に「真言立川流」(しんごんたちかわりゅう)という伝統があり、性を前面に出した教義を持っていました(真鍋俊照『秘教真言立川流』筑摩書房という本もあります)。信仰の世界とは、歴史の教科書で習うような「きれいな」(というより無味乾燥な)世界ではないのでしょう。また、社会的に女性の地位が高いか低いかと、信仰のレベルで女性が重要な役割を果たしたということは、分けて考えた方がいいと思います。

毎回スライドショーを楽しみにしています。今日ふと思ったのですが、仏像は髪が短いイメージが強いです。日本にある仏像でも、髪が長い仏像はあるのでしょうか。あるとしてもイメージがわきにくいです。

仏像と言うと如来形の螺髪がイメージされるので、短いと思われるかもしれませんが、実際は髪の長い仏像はたくさんあります。如来の中でも大日如来は菩薩形をとることで知られ、肩まで垂れた髪を有しています(垂髪と言います)。ウェーブもかかっていてなかなかおしゃれです。菩薩は基本的に長髪です。なかでも観音は丁寧に編み上げた髪が頭上にそびえます。髪髻冠(ほっけいかん)と呼ばれます。ほどけばおそらく腰くらいまでは軽く届くでしょう。明王系の仏たちは、炎髪といって、炎のように逆立つ髪がしばしば見られます。怒髪天をつくという表現が当てはまります。その中で、不動明王は少し特殊な髪型で、頭頂に7つの輪を作り、さらに、左側に弁髪を垂らします。蓮の花を頭の上に載せる場合もあります。仏像の髪型は他にもいろいろありますので、注意して見ていてください。スライドショーは前回は新作を作れませんでしたが、今回はヒンドゥー教と仏教のイメージの交流をテーマにしたものを紹介するつもりです。

釈迦の姿を現すとき、菩提樹など象徴として描かれるのはいつ頃までなんですか。どの地域でも初期は象徴として描かれていますが、いつの間にか仏像など、本人が描かれるものに変わってると思うのですが。何か変わってゆくきっかけはあったのでしょうか。

前回まで取り上げていたガンダーラとマトゥラーで、紀元1世紀頃に相前後して仏像が現れました。授業では仏像誕生よりも別のトピックに注目したので、あまり気がつかなかったかもしれません。いずれも、外来民族であるクシャン朝の時代におこったようで、インド土着の伝統が変容した時代だったようです。仏像誕生の直接の契機は、クシャン朝の民族が持っていた王の肖像彫刻の伝統と、仏教が成立当初から持っていた、釈迦と王とのイメージの共通性があると考えられています。王と共通するイメージがあったから、クシャン朝において王を肖像として表すという発想が、仏陀にも適用されたということです。

「生」の反対には、というよりも、同じ面にあるのでしょうが、必ず「死」というものがついてくると思います。ヤクシャやヤクシーは生を強調することで、生命力を表しているということは、同時にどこかに「死」への恐怖のようなものが表されているのではないか、と思ったのですが、どうなのでしょうか。

そのような見方も可能でしょうね。宿題で読んでもらっている文章でも、死のイメージがインドでは単純ではなく、生との循環や等値のような関係で現れていることを、いくつもの例をあげて紹介しています。ただ、カーリーのような死の女神や、破壊の神シヴァなどは、ストレートに死と結びついていますが、生(性)を謳歌しているようなヤクシーの像に、死のイメージを見いだすことは、かなり困難という気もしますが。

豊穣と女性というと、乳房、女性生殖器、腰(尻)のはりですが、土偶、ヴィーナスの誕生、ミロのヴィーナスなどに比べて、ラクシュミー/ヤクシーには「くびれ」があります。それによって上下を強調しているのでしょうか。それともインド的美にはくびれが不可欠だったのでしょうか。

不可欠だったのでしょう。古代以来、インドの理想的な女性像には、ほぼ例外なくウェストのくびれが見られます。その反動のように、胸や臀部は極端に大きく表現されます。インドの女性の伝統的な衣装にサリーがありますが、これは腰のはりがなければきれいに着こなせないといわれています。日本人は一般にあまりはりがないので、すぐに着くずれてしまうそうです。サリーの場合、おなかの部分を露出させるのも、そのような体型と関係があるのでしょう。ただし、インドを旅行すればわかるのですが、胸や臀部の大きな女性が多いのはたしかですが、必ずしもその全員がウェストがくびれいているわけではありません。

アマラヴァティーの仏像は、前回までのと比べて躍動感があって、見ていて楽しかった。かたくるしくない感じがした。あと、なぜアマラヴァティーだけ三次元構造の作品を生み出すことができたのか気になった。何か外国からの影響とかあったんだろうか。

影響があったようです。当時、地中海世界との交流があったことが知られていて、空間の表現方法にも、インパクトを与えたという説があります。われわれの想像以上に、当時の人々の活動の範囲は広いようです。

インドネシアのラクシュミー(母乳を出している)を見て、眠気が吹き飛びました。「母なる大地」というくらいだから、農耕儀礼に、男女の性が表されているというのはイメージがわきますが、建築の儀礼にもそれが現れているというのが興味深かったです。現代だと死=終わりのような感じがあるので、死者=種子というのが明るい見方だなーと思いました。

毎回ラクシュミーのような作品があるといいのですが・・・。


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