南アジアの仏教美術

2005年11月24日の授業への質問・回答


宿題の文章読みました。何度も読み返したりしながら読み、進めていったので、一時間半ぐらいかかりましたが・・・。最初に書いてあった少女の話にはとても衝撃を受けました。

とつぜん宿題が課されたので、たいへんと思った方も多いでしょうが、できるだけ読みやすいものを選んでいるので、がんばってください。仏の神変を理解するためには、「宇宙と私は同一」というインドの思想から説明しなければいけないのですが、それだけで1回分はなくなりますので、そのかわりの宿題です。ジニーの話はたしかにとても衝撃的です。今の時代も幼児虐待があとを絶ちませんが、それともまた違うレベルの恐ろしさを感じます。文章の最後に書いたように、私はイギリスでBBCの「ホライズン」というドキュメンタリー番組で、ジニーのことを知りましたが、映像による紹介なので、さらにショッキングでした。その番組でも取り上げられていましたが、ジニーは人間の言語習得の点でも注目を集めました(格好の研究対象になったといった方がいいでしょう)。人間の脳の発達において、言語はある年齢を超えると習得が困難になるということの一種のモルモットにされたのです。ジニーは発見されて保護されてからも、このような研究者たちに翻弄されて不幸な時期を過ごしたようです。これについては『隔絶された少女の記録』(晶文社)にくわしく紹介されています。

マトゥラーの仏像は赤褐色が少し入ったような赤みのあるものが多いと思った。その土地によって色味が異なってくるのがわかった。

マトゥラーの作品はこのあたりから産出される赤色の砂岩が素材として用いられます。インドの仏像はそれぞれの地域で異なる素材が使われることが多いので、注意して見ていると、色だけでもどこのものかわかるようになります。

説話図は読書感想画、礼拝像の儀軌は作品解説と考えていいのでしょうか。礼拝像のモチーフやイメージは説話と関係ないところから出てくるのですか。

最近の小学校では読書感想画というものがあるようですね。たしかに似ているでしょう。儀軌は作品解説というよりも、やはり製作のマニュアルといったところです。礼拝像のモチーフやイメージも、説話とは無関係ではありません。むしろインドでは、説話図の中から象徴的なもののみを残して礼拝像を作る傾向があります。説話図と礼拝像は単純に分類できる項目ではなく、座標軸の端を指すだけです。実際の作品はその中にプロットされることになります。

シャカというのはゴータマが悟りを開いてからの名前ですよね。であるならば、彼が若いときや子どもの時の像もあると思うのですが、それは仏像と呼ぶことができるのでしょうか。

広い意味では仏像です。観音のような菩薩や、明王、女尊も、仏ではありませんが、その像は便宜上、仏像と呼びます。悟りを開く前の幼少の釈迦は、ガンダーラに多数の作例があります。インド内部ではほとんどありませんが、前世の物語(ジャータカ)に登場する釈迦は、むしろガンダーラよりもインドで好まれました。

説話図に関する説明は、日本の絵巻物に置き換えると理解しやすいように感じた。たとえば、伴大納言絵巻は応天門の変という出来事を題材として、モチーフに民衆の生き生きとした表情を描いており、こうした二つの関係から作品が成立しているというふうに。

ご自分の専門の近いところに引き寄せて、いろいろ考えてみるのはいいことです。日本の絵巻物も説話図の代表的なものですし、その中には仏教的な内容を持ったものが多数あります(むしろ、大多数は仏教と何らかの関わりを持ちます)。インドの説話図の伝統を受け継いだものも、その中にはあるでしょう。日本史では絵巻にとどまらず、さまざまな図像史料(資料)を用いた研究が近年盛んになってきました。インドとか日本とか西洋とかの枠組みをはずして、有効は方法はどんどん使っていくといいでしょう。

先週のQ&Aで、仏のアイデンティティが「仏より法が上」という概念によって失われていっているというふうに言っていた人がいましたが、それを見て、仏は実際には生きていないし、もちろん感情や気持ちなどはないのですが、なぜか私にはひとつの生体に感じます。それは私たちのすぐ身近に仏はあるということなのでしょうか。ふと思いました。

仏のような存在をどのように感じるかは人によってさまざまでしょう。仏に感情や気持ちがないかどうかもわかりません。われわれと同じレベルではないにしても「生きている」と考える人もいるでしょう。インドではむしろ本当に生きているのは仏だけで、それ以外は映像のようなものと考える立場もあります。授業では宗教のもつこのようなデリケートな部分にはふれませんが、宗教的な感覚や、聖なるものを感じる能力のようなものは、宗教美術を理解する上ではとても大事だと思います。

よく作品が作者の手を離れてさまざまに解釈されるとは言うけれども、仏教の礼拝像にもその現象が起きていたんだなと思いました。礼拝像は後になってからマニュアルができて、はじめはモチーフを持った人が作品を作ったという説明がありましたが、仏教の考えを持ち、なおかつ彫刻の技術の両方を持った人がはじめは作品を作ったということになるのでしょうか。

仏像を作った人が全くの職人ではなく、僧侶や信者であった可能性もあります。日本密教の高僧の中には芸術的な能力を持っていて、絵画や彫刻を手がけた方がたくさんいましたし、今でもいらっしゃいます。質問の趣旨とは少しずれますが、仏教の高僧が一種の神秘体験の中で見た仏の姿を、あとで絵画や彫刻として残すという現象が、日本ではしばしば見られます。感得像といいますが、これは説話図と礼拝像という二つのカテゴリーには収まらない存在です。前回読んでいただいた文章は、この感得像を扱った論文の導入部です。関心がある人は全文を読んでください(私のサイトからPDFがダウンロードできます)。

ものによって過程が逆になるのはおもしろいと思った。最初に礼拝像を作った人は、テキストを作ろうと思って作品を作ったんだろうか。定番の方というのはいつできるのか不思議に思った。仏像の姿や髪型もいろいろあっておもしろいと思った。昔見たインドの映像で、修行者が髪を剃るときに、後ろを少し残してたんですけど、それは何か仏の髪型と関係あるんでしょうか。

礼拝像を作った人はテキストのことはほとんど考えていなかったでしょう。礼拝像のテキストというのは、たとえば仏を瞑想するマニュアルのようなもので、そのイメージに実在の作品が影響を与えたと考えられます。修行者が後頭部の髪を残すのはそのとおりで、実際、マトゥラーの巻き貝型の髪型は、そのような修行者の髪と関係があるという指摘があります。

マトゥラーの半跏思惟像はサンダルを履いていましたが、菩薩の移動手段は徒歩だったのですか。

多分そうなのでしょう。インドではサンダルが昔から一番ふつうの履き物だったようです。ですから、王様が履いている長靴が異国ふうで、異様に見えるのです。

先回の続きの部分で、往生のレベルの話がありました。上の上は二十五菩薩と家までやってきて、下の下はハスの花のみとのことでしたが、どうにも行きたかったところへやっと行けるというときに、細い目のおっさんたちが大量に押し寄せてかつ家までどーん!ときたら恐ろしいです。ありがたさ半減という気がします。

そうかもしれませんが、実際は来迎を見ることがとても大切だったのです。見ることによって、往生が保証されるのであり、見えなければ行きたいところにも行けないのです。往生者を取り巻く人々も、そのヴィジョンを共有するためにその場にいるのです。ちなみに、来迎図に描かれた阿弥陀や二十五菩薩は、「細い目のおっさん」というイメージとは異なり、阿弥陀は光に満ちて威厳があり、菩薩たちは優雅に舞を舞ったり、楽器を演奏する華やかなイメージです。以前に紹介した知恩院の早来迎などの作例を見てください。

「光」のところで思い出したんですが、西洋では天使とかを表すとき光のわっかを頭上に乗せてたけれど、「最後の晩餐」はそれをあえてしないで、キリストより聖なるものを示そうとして、頭上に光をおいたようにしたらしいです。具体化しない方が「聖」に近いにのかと思いました。クシャン朝ってクシャーナ朝のことですか?マトゥラー4番のやつは本当に「よっ!」て感じだし、その次のもなんかくりっとしててかわいい気がします。

「最後の晩餐」はたくさんあるのですが、有名なダヴィンチのものでしょうか。「具体化しない方が聖に近い」というのはそのとおりで、はじめのころに強調していた「聖なるものは表現不可能」ということと同じです。光のわっかはニンブスといいます。仏像の場合は頭光(ズコウ)です。クシャン朝はクシャーナ朝です。最近の教科書ではクシャーナ朝というのですね。私のころはクシャン朝でした。

なんだかイコノロジーみたいですね。私は今、それに近いことをしていますが、いろいろな人の説を知ると、考えすぎなんじゃないかって思うくらい、いろいろな解釈ができるみたいです。モチーフとか素材とかって、結局どんなものなのですか?イメージのようなものなのでしょうか。

「イコノロジーみたい」ではなくイコノロジー(iconology)そのものです。ヴァールブルク、パノフスキー、ゴンブリッチなどのイコノロジー関係の研究は、われわれ仏教美術を扱うものにもたいへん刺激的です。キリスト教美術も仏教美術も同じ宗教美術として、テーマや分析方法が共有できるようです。最近は、ひところほどイコノロジー関係の文献の出版が見られないのが残念です(例外的にワールブルクの著作集の翻訳が刊行されていますが)。モチーフや素材と言っているのは、図像を構成するさまざまな要素です。仏像であれば持物、装身具、髪型、衣装、肉体表現、表情、周囲の装飾などなどです。イメージというと、少し概念が広すぎて、仏像そのものもイメージになります(もともとの意味が「かたち」ですから)。

マトゥラーの図像では物語が時の序列になっていたと思うのですが、いつごろ場所による位置は変わったのか。あれはサーンチーだけですか。

五相図は時系列で並んでいるようですが、実際はそうではなく、三道宝階降下を中心としたシメトリーになっています(成道と初説法の間に三道宝階があるのは、順序としてはおかしいはずです)。今回紹介する「雲馬王ジャータカ」は上から下に時間の推移が読み取れますが、複数の場面からなる説話図そのものが、マトゥラーはあまりないので、時系列とできるかどうかははっきりしません。ガンダーラの説話図ではこの問題は取り上げませんでしたが、サーンチーやバールフットとは異なり、時間の順序で並ぶことが一般的です。その点でもガンダーラはインド内部とは異なる伝統を持っているようです。場所による配置はインドではこの後も支配的で、アジャンターでも見られます。

今回も(いつもですが)「光」というモチーフがフィーチャーされていましたが、とても気になります。なぜ光が聖なるものとされていたのでしょうか。人間はそれほど暗闇をおそれるものなのでしょうか。私たちは視覚だけを頼りに生きているわけではありませんが、暗闇の中ではものとものとの区別や自と他の区別もおぼろげになってくることがあります(ジーニーの話のようですが)。「光」が認識そのものとしてとらえられることもあったのではないでしょうか。

インドでは古代から「光」が「智慧」や「悟り」と同じように扱われました。現象世界の背後にある真理が光としてイメージされ、それを見いだす手段も光にたとえられます。智慧を表すサンスクリットvidy?は、光やともしびも意味します。質問の趣旨と合致していないかもしれませんが、光は認識対象でもあり、認識手段でもあるといえるでしょう。おそらく、これらの光はわれわれが経験する日常的な光ではなく、もっと強烈で神秘的なものです。「旧約聖書」に「光あれ」という言葉があるキリスト教でも、光は特別な存在でした。

・伝承されてきたテキストの中には、ある時代に権力者などの都合により、新たに「作られたテキスト」は存在するのでしょうか。

・王=仏(神)という考え方は、日本の天皇や古代エジプトなどにも同じ考え方がありますね。イスラムやキリストなど、一神教ではあり得ないことなのでしょうが、王に権威を持たせるやり方としては、手っ取り早いと思いました。



テキストが存在するということは、基本的に何らかの意図がそこに込められていると見た方が妥当でしょう。授業ではテキスト制作の意図には言及しませんでしたが、テキストは図像作品を作るためだけに準備されたのではなく、もっと現実的、あるいは政治的な意図があったはずです。識字率が圧倒的に低かった当時、文字を操ることのできた人々が持っている力は、われわれの想像以上に強大なものだったでしょう。


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