南アジアの仏教美術

2005年11月17日の授業への質問・回答


まだ理解できていないかもしれないが、「浄土にいく」ということと「悟る」こと、そして「仏になる」ということが同じことなのか、異なることなのかわからないと思いました。また法によってシャカすらも役割を演じているというのは非常に驚きました。

「悟ることと」と「仏になること」は同じですが、「浄土にいくこと」は本来別でしょう。しかし、大乗仏教では「自ら悟ること」よりも「仏によって救済されること」に目的が変化します。授業でも紹介したように、大乗仏教では「誰でも菩薩」になれるのですが、仏になることはほとんど不可能に近い状況にあり、そのためには自らの力で仏になることよりも、仏の力によって救済されることの方が、現実味があることになります。これは宗教一般に見られることですが、神や仏の力を絶対的なものとすれば、われわれの努力や意志はその前では無に等しくなります。浄土教における「絶対他力」も、自己のはからいを捨てて、ただ阿弥陀の慈悲のみを信じるという点で、これと同じです。大乗仏教において「すべてのものを支配する法」というのは、本来は絶対の真理のような抽象的な概念でしたが、それが神格化されると、「法身」という仏になります。「法」というのはありふれた言葉で、われわれの日常生活でも用いますが、もとのサンスクリット語の「ダルマ」は、「支えるもの」「保つもの」という意味で、世界や宇宙の秩序を維持する根本原理のようなものを指しました。インドでは古くからこのような一元的な存在を重視する思想が広く見られます。たとえば、時間の流れや季節の移り変わりを支配しているのも、このようなものです。「梵我一如」の梵(ブラフマン)はその代表で、宿題として読んでもらっている文章も、そのあたりのことを取り上げています。このような考え方は、日本の思想史ではほとんど現れないため、われわれにはなじみがないのですが、この機会にインド的思考に慣れてください。

「舎衛城の神変」の話を聞いて、千仏化現はなぜ無数に仏が出てきたのだろうかと思った。顔がたくさんある仏像等もあったが、数が大きいことは仏教の教えの中で何か深い意味があるのだろうか。キリスト教は一神教?だが、仏教はどちらかといったら多神教なのですか?

千仏化現の本来の意味はわかりません。巨大なハスの花が現れて、そこに無数の仏がいるという状況は、それだけですごい光景です。重要なのは、この神変がひとつの基本的なモチーフになり、宇宙に広がるハス、そこにある無数の仏国土と仏たち、彼らを照らす光といったものが、大乗仏教の神変に受け継がれたことと、それが大乗仏教の世界観の基本となっていることでしょう。顔や腕がたくさんある仏というのは、十一面観音や千手観音などを、われわれも知っていますが、密教の時代にはさらにいろいろな仏に見られるようになります。これは少し後の時代なので、千仏化現とはおそらく直接の関係はないでしょう。一神教と多神教についてですが、宗教を分類するときにしばしば用いられる用語ですが、基本的に無意味だと私は思います。たとえば、インドにはシヴァやヴィシュヌなどのたくさん神がいるので多神教のように思うかもしれませんが、根本には「ブラフマン」のような一元的な原理を持っていますので、一神教とも言えます。また、キリスト教は一神教の代表のように思われていますが、マリアや天使、あるいはさまざまな聖人がいます。仏教についても、授業で紹介したように、無数にいる仏たちの一人がシャカにすぎないという立場があると同時に、その背後に法身という絶対的な存在をたてます。最近の風潮として、イスラム教は一神教で危険であり、日本のような多神教の国の方が寛容で、優れているという説がまことしやかに語られますが、このような単純な二分法の方が、はるかに危険でしょう。

たしか釈迦の次に悟りを得るのが弥勒だと聞いた気がするのですが、では弥勒以外の菩薩が悟りを得るのは、56億年よりも時間がかかるということになりますよね。ひどい世界観だと思います。

本当にひどい世界観です。56億年後に弥勒がこのように現れてわれわれを救ってくれるのを、いったい誰が待っていられるのでしょう。しかし、そのような世界観の上に大乗仏教が成り立っていたのも事実です。時間の観念や空間の広さが、われわれとは全く違うのです。だから、一種のあきらめや開き直りでもある浄土思想のようなものが、中国や日本では流行することになったのでしょう。ちなみに、56億年というのは少し誤差があり、弥勒が現れるのは五十六億七千万年のあとです。七千万年というのが誤差というのも、おかしいのですが。また、この数自体も漢訳経典の訳者の誤訳らしく、もとのサンスクリットは五十七億六千万年だったそうです。さらに九千万年遠のいてしまうことになります。こういう誤訳は迷惑ですね。

梵天勧請で、仏像表現が許されたのは、釈迦がその他多くの仏のひとつだからでしょうか。

梵天勧請をガンダーラの美術で取り上げたのは、この物語が大乗仏教の仏陀観をあらわすわかりやすい例であることと、梵天勧請の作品が、インドにおける最初期の仏像に集中してみられる点があるからです。大乗仏教において梵天勧請の物語が重視されたのは、中村氏がいうような「社会性の獲得」ではなく、釈迦が無数にいる仏たちの一人であり、その正統な後継者として登場したことにあるからでしょう。ただし、梵天勧請で仏像表現をとるようになったことは、ここからは直接説明できません(授業でもここは明確にしませんでした)。今のところの私の考えは次のようなものです。ガンダーラではじめて仏像が現れたのはクシャン朝のことですが、この王朝はもとは西北インドにいた遊牧民族で、強力な王を肖像彫刻として表現する伝統がありました(これは今回のマトゥラーでも取り上げます)。一方、仏教は古い時代から、釈迦を精神界の帝王としてとらえ、そのイメージを王のイメージに重ね合わせる傾向があります。このふたつが結びつけられると、王としての釈迦が肖像彫刻として表されることが可能になります。このような背景から見れば、梵天勧請の物語において釈迦が無数の仏の後継者としてとらえられることは、まさに釈迦が王として即位することに相当することになります。梵天勧請の結果、釈迦が手にする法輪はそのことを明確に示す道具立てとして、王権の象徴のようなものとして扱われます。

光というものによって人々は仏を見ることができるということを聞いて、以前のスライドで仏は光で表すと聞いていたので、何か関わりがあるのかなと思いました。

光は宗教の中で重要な役割をします。光は神の顕現や神の啓示としばしば結びつきますし、神や仏からの働きかけが光を媒体とすることも一般的です。光は知恵や教えの象徴としても用いられますし、神秘体験において強烈な光を見ることもよく言われています。以前にお話しした「聖なるものの現れ」として光を強調したのも、ご指摘のとおり、今回の話に結びついています。スライドの最後の方で、紹介できなかったのもそれに関連するもので、いすれも宗教的な光が作品の重要なモチーフとなっています。そこでは、光はわれわれと聖なるものをつなぐ媒体であり、聖なるものからの働きかけのエネルギーであり、聖なるものそのものの象徴でもあります。神変によって釈迦から宇宙に光が発せられたり、光に照らされたものが「悟りを得るもの」となるのも、そのためです。

・釈迦の神変はすごいですね。これ以上ないほどの形容の仕方で描かれ方からも強烈な光の存在を感じました。毘盧遮那仏の毛穴のひとつひとつが、(すべてかと思われていた)世界のひとつひとつとは・・・。では第6回17の絵の毘盧遮那がいる世界、それを支えるものがいる世界はどう説明しようと言うのでしょうか(毘盧遮那の下にいる人物)。

・前回までは何とかシャカのエピソードやその他のもろもろの話についていけたが、今回「○○の神変」のエピソードで、眉間の毛の渦から光が出たりしたが、広がって世界中を覆ったりした話を聞いて、これはもう完全に私の理解を超えている世界だと思った。また、これは文字で読むより、映像で見た方がおもしろいだろうと思った(映像化できるならという話)

・神変はすごいと言うよりは妖怪じみていて、恐ろしいような気がしてたまりません。その後で説法に入るというのは、なんだか怪しげな新興宗教などで、教祖サマが空を飛んだり病気を治したりという奇跡を起こして入信させるような感じです。どうしてそんなに毛孔が重要になったんでしょうか。体の中で一番小さな穴だから・・・というような感じなのでしょうか。深く考えてはいけない気もしますが、仏たちに毛は生えていなかったのかなと思ってしまいました。

・大品般若経の神変で、仏が舌を拡大させて世界を覆ったという表現がおもしろいと思った。仏教は全体的に不思議な力を表現するときに、ものすごく突飛な話が出てくるので興味深い。みんなを感嘆させるというより、かけ離れた存在であることを強調するために、仰天させ、おののかせるといった印象を受けた。あまり美しい感じはしなかったが・・・。

神変についての感想やコメントの、代表的なものを4つ紹介しました。神変の内容はたしかに想像を絶するようなものです。しかし、規模が大きいということを気にしなければ、イメージができますし、それを表現するとすれば、ガンダーラの説法図のような形にするのが、わかりやすいでしょう(第6回17の絵の毘盧遮那の下にいる人物は礼拝者で、毘盧遮那とは縮尺が違うのだと思います)。むしろ、わかりにくいのは『華厳経』に説かれる「毛孔に収められた世界」で、仏たちは毛孔から光を発して仏国土は宇宙全体にまで広がり、その仏たちの毛孔にもそれぞれ仏国土があり、そこにはまた仏たちがいて、その仏たちの毛孔にまた仏国土があり、という構造でしょう。これはおそらくインドならではの考え方で、宿題にしてある文章とも関わります。古代インドのウパニシャッド哲学では「宇宙全体」に相当するようなものをブラフマンととらえ、その対極にある「ひとつひとつの部分」をアートマンとしてとらえます。そして、究極的にはこの両者が同一であるという結論を導き出します。仏の体にある無数の毛穴とは、この「部分」に相当し、それが「全体」である仏と一致するということです。納得できないかもしれませんが、この論理を使うと、宇宙にある無数の仏や仏国土をそれぞれ無限大まで(つまり宇宙と同じ規模まで)広げるために、それぞれの仏や仏国土を無限小にまで小さくすることができます。無限大と無限小が本質的に同一であるからです。

「仏より法が上」という概念によって、仏の個性(アイデンティティー?)が失われていっているところがおもしろく感じました。そうなると「仏陀を」とか「〜如来を」などといった物言い自体、意味がなくなっていくのではないでしょうか。さらに「法を説く側・説かれる側」を区別する意味も。そういう流れで浄土教などの教えが形作られたのかと考えると、理解しやすくなる気がしました。

そのとおりですね。ただ、歴史的に見ると、仏の個性は失われることはなく、むしろ薬師如来や観音菩薩など、さまざまな仏が生まれることになります。また、根本原理のような「法身」も毘盧遮那如来という名称を持ち、ひとつの人格神のような扱いを受けます。東大寺の大仏がそれですし、密教になると大日如来になります。「毘盧遮那」というのは「あまねく照らす仏」という意味で、まさに光の固まりのような存在です。「説く側・説かれる側」の区別がなくなるというのも、大乗仏教では一般的で、認識するものと認識されるもの、つまりわれわれ主体と、そのまわりの客体が区別されないことを強調します。

仏陀の体から出た光=説法ということでしょうか。そんなに簡単に悟れたら、厳しい修行や戒律を守ることは必要なくなってしまう気がします。そういうふうにエリートでなくても悟れるのだという期待を持たせたのが、大乗が広く広まった理由なのかもと思いました。千仏とか三千大千世界とか、仏教の世界の「無数」の概念は、なぜ万じゃなくて千なんだろうかとも思いました。

大乗についてはそのとおりでしょう。しかし「あらゆる努力を放棄して、すべてを仏の救済にゆだねる」というのは、じつはとても難しいことです。親鸞の思想などを見てもわかりますが、絶対他力というのは自力救済を極限まで努力して、突き詰めた結果、それでもだめだという絶望的な状況から初めて見えるものでしょう。あるいは、すべての努力を放棄できるほどの信頼や信仰を、仏に対して持つのはおそらく不可能に近いと思います。修行をすれば悟れる、念仏を唱えれば救われると言われた方が、はるかに楽です。ついでに言えば、このような「すべてのものは、すでに救済されている」とか「この世こそが浄土である」という考え方は、ある意味ではきわめて危険です。現実のもつ問題点や矛盾を全面的に肯定することになり、そこからは批判や進歩は生まれません。宗教がテロや犯罪と結びつくことを、われわれはよく目にしますが、すべてを神や仏にゆだねるという、宗教が理想とするものは、しばしばこのような危険性も持っています。同じ宗教によって救われる人もいれば、命を失う人もいるのです。

今日、授業で読んだ文献の中に、「世尊が三昧に入られるやいなや・・・大きな花の雨が降り注ぎ・・・」というものと、「やがて仏は三昧より起ち・・・光明を放つ」というものがありましたが、釈迦による奇跡は三昧の最中に起こるのですか。それとも三昧はただのウォーミングアップで、本当の奇跡は三昧の後に起こるのですか。また、三昧にはどれくらいの時間がかかるのか気になりました。

経典の記述にしたがえば、「三昧から起つ」とあるので、三昧から抜け出た状態で神変や説法は為されるようです。三昧にかかる時間はわかりません。おそらくそれは客観的な時間ではないでしょう。周りのものから見れば一瞬のように見えても、当事者からすれば永遠のような長さを持ったものかもしれません。神秘体験というのはそのようなものです。そもそも絶対的な時間などは、宗教的な世界ではほとんど存在しないと言った方がいいかもしれません。

法は誰が作ったんですか。皆が皆、説法に躊躇するとは思えないんですが。そういうものなんですか。また、大乗仏教と小乗仏教の違いがいまいちまだ理解できないので、詳しく説明してほしいです。

法は誰かが作ったものではありません。宇宙のすべてを支配する秩序や原理なので、被造物ではないからです。そのようなものは、民族によっては「神」と呼ぶことになるのですが、仏教では基本的に人格神が実在することは認められませんので、そうはなりません。ウパニシャッド哲学の「ブラフマン」もこれに似ていて、特定の人格心ではなく、抽象的な原理としてとらえられています。大乗仏教、小乗仏教そして密教については、趣旨が少し違うのですが、以前に書いたものがありますので、以下に引用しておきます。

◎密教は伝統的な仏教とどのような関係にあるのか

 一般に密教は大乗仏教の中から生まれた(あるいは変質した)といわれるのですが、必ずしもそれだけではありません。仏教を含めほとんどの宗教は教えと実践という二つの要素を持っています。教え(教理)の面からは、密教は大乗仏教の直接の後継者であり、むしろ特別な発展をもたらすことはほとんどありませんでした。問題はもう一方の実践面です。大乗仏教にとっての理想的な実践をあらわすことばに「自利利他円満」があります。自分自身の知的なレベルの向上と、他者への働きかけ、具体的には慈悲による救済がともにそなわることによって、はじめて悟りが可能になるということです。「上求菩提、下化衆生」(じょうぐぼだい、げけしゅじょう)と言った場合も同様です。これは悟りを求める努力と、衆生つまり一般大衆を救済する慈悲を表すことばで、菩薩がなすべきこととしてあげられます。上と下という方向を表すことばが含まれているのも、このような菩薩の持つ二面性をよく表しています。

 菩薩そのものの説明もしていなかったので、補っておきますと、悟りを開くために(つまり仏となるために)努力するものを意味し、本来は悟るまでの釈迦を指していましたが、大乗仏教ではそのような努力をするあらゆる仏教徒が菩薩とみなされます。「誰でも菩薩」というのが大乗仏教のテーゼなのです。そして、すでに述べたような「他者への働きかけ」が、従来の仏教(つまり初期仏教や上座部仏教など)よりもはるかに重視されました。このような実践はきわめて長い時間を必要とするものでした。三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)と呼ばれる無限に近い時間、菩薩の実践を行わなければ悟ることができないともよく言われます。極端な場合、理想の菩薩は他の人々がすべて悟りを開くまで、自分自身は悟りをあえて開かないのだという経典もあります。誰でも菩薩になることはできても、その次の仏になるのはほとんど絶望的な状況を大乗仏教は設定しているのです。その背景には仏の絶対性や超越性を押し進めた仏陀観の変化もあります。

 これに対し、初期の仏教経典は、釈迦から直接教えを聞いた者たちが、釈迦と同じ悟りを開いたことをしばしば伝えています。上座部仏教の場合、釈迦と同じではありませんが、それにきわめて近い阿羅漢(あらかん)という存在になることは可能としています。そのためには戒律の遵守や高度な瞑想、きびしい修行などが必要ですし、誰でもそれができるというわけではありません。しかし、大乗仏教のように、ゴールが見えない世界とは違うのです。このような枠組みの中で密教の実践を考えた場合、選ばれた者のみが瞑想やヨーガなどの神秘体験を通して、現世で悟りを開くことができる(即身成仏)というのは、救済の形式としては大乗仏教よりも伝統的な(あるいは保守的な)仏教に近いのです。見方によっては、密教は大乗仏教の枠組みを逸脱し、近道を見つけたようなものかもしれません。ちなみに、同じ大乗仏教の枠組みを別の方法で壊したのが、浄土教です。仏の絶対性を究極にまで高め、その慈悲のみによって衆生が救済されるという考え方をします。絶対他力という言い方もしますが、大乗仏教一般から見れば、一種の「開き直り」にも見えます。これにあわせて密教をとらえれば「おきて破り」とでも言えるでしょうか。いずれにせよ、宗教の実践に見られる二方向性、つまり自己自身への努力と、他者への働きかけは、仏教の修道論や救済論を考える上できわめて有効な枠組みとなるのではないかと思います。


(c) MORI Masahide, All rights reserved.