南アジアの仏教美術

2005年10月27日の授業への質問・回答


ヨーロッパの絵画は意味内容が左から右へ進むのがよくあるパターンで、文字を各方向が関係しているという説があると本で読みました。パワーポイントで見たものは、必ずしも絵巻物ではにということなので、どのように読み取れるのか、次回の授業が楽しみです。

文字の方向と説話図の進行方向が一致するというのは、私もどこかで読んだことがあります。絵巻物のように書物というか巻物の形をしている場合、たしかにそのような制約を受けるでしょう。キリスト教の絵画も、写本挿絵のような形で、多くの作品が作られましたから、それを継承するような作品では、該当するかもしれません。インドの場合、文字はヨーロッパと同じように左から右に書きますが、前回紹介したサーンチーでは、物語の流れは左から右ではなく、右から左で逆です。残りのスライドに含まれている六牙象本生や出家踰城では左から右なので、一定していないようです。インドでは文字を書く方向とは関係しないようですね。前回の授業の最後に出した質問への私の答えは、時間の流れではなく空間配置から考えたものです。ほかにも答えがあるかもしれませんので、皆さんもいろいろな可能性を探してください。

・何でも他人にあげてしまう王子様が、最後に帝釈天にそれを認められて、許されたというが、かなり他人に迷惑をかけているのに、それが美徳とされたということだろうか。無欲であるというのがよいことだということなのだろうか。

・ヴェッサンタラ本生図の物語は、いろいろとツッコミを入れたいというか、気前がよいではすまないと思うのですが、いろいろなところで流行ったというのは、善人は最後には救われるというようなことろがよかったんでしょうか・・・。

ヴェッサンタラ本生の物語については、たくさんの方から「困った王子」とか「何が言いたい物語?」とか、いろいろな指摘や疑問がありました。これはひとえに私の説明の仕方が悪いからです。ジャータカには自己犠牲をたたえる内容のものが多く含まれます。これは「布施」という徳目を、修行の内容として仏教が重視するからです。とくに菩薩と呼ばれ、修行の途上にあるものは、自分を儀礼にしても他人の幸福を実現しなければ、悟りに到達できません(これは大乗仏教的な考え方です)。また、無執着といって、物事にとらわれないことも重要です。「ものは存在しない」とか、「すべては空である」ということを徹底すれば、いかなるものにもとらわれない境地に到達することになります。親子や夫婦の愛情などは、執着の最たるものです。ヴェッサンタラ王子のふるまいを、私はかなり冷ややかに紹介しましたが、実際の物語は、王子が苦悩しながらも、布施を実践する姿が、情感を込めて描かれています。とくに愛する子どもたちをバラモンに引き渡すところなどは、王子は血の涙を流しながらも、それを断行し、子どもたちもけなげにそれを受け入れます。このあたりは、誇張ではなく、涙なくして読めません(信じられない人は翻訳が比較文化にありますので、読んでみてください)。それだからこそ、インドばかりではなく、さまざまな地域で流行したのでしょう。

インド各地の仏教美術をいくつか見たが、ぞれぞれがお互いに影響を与えあっているようで、箇条書きに特徴をとらえることができず難しかった。この授業の軸をもう一度聞きたいなと思いました。

まだ、バールフットとサンチーだけなので、それほど多様ではありませんが、この先、ガンダーラやアジャンターなどに進むと、さらにいろいろな作品が登場します。そのどれもが別個に存在しているのではなく、影響を与えあっているところもありますが、それについてはあまり詳しくは紹介できないと思います。むしろ、それぞれの地域の仏教美術が、どのような仏教の思想や文化と関係しているかに注目したいと思います。仏教美術が多様であることと同様に、一口に仏教といっても、いろいろな側面があります。単に作品の意味や形を紹介するのではなく、その背景について考えてみたいと思います。そのときに、これまでにもこだわってきた「聖なるものはいかにして表現されるか」というのが、おそらく軸になるでしょう。

今日配られたサーンチーの写真を見て、今年の春に行ってきたアンコール遺跡を思い出した。すべての壁という壁に細かい絵が刻み込まれていて、本当にすばらしかった。しかも、その絵はそれぞれ意味や話を持っている。阿修羅と神々の綱引き、戦争の様子、歯を見せている神様、大きな大きな壁いっぱいに3段構成で、上に天国、中段に俗世、下に地獄の絵・・・本当にどれだけ時間をかけても足りないと思った。

アンコールはいいですね。私も行きたいのですが、まだ行ったことがありません。この夏に『アンコール 王たちの物語』(NHK出版)という本の書評をしたこともあり、その思いが強くなりました(この書評は私のホームページでも公開しています)。アンコールは基本的にヒンドゥー教の遺跡なので、多くの作品がインドの神話をモチーフにしています。阿修羅と神々の綱引きは、乳海攪拌といって 、有名な創世神話です。壁を三段構成にしているのも、聖と俗の領域を示すわかりやすい例です。世界を水平に三つの領域に分けることも広く見られます。

聖と俗の境界や落差について、思い返してみればたしかに、日本の絵巻などの来迎図では、如来や菩薩といったものは光や雲を伴っていた。しかし、地獄図で描かれる地蔵菩薩は、僧形で、光を伴っていなかったように思う。地蔵菩薩は文献でも僧形、あるいは女性の姿をとって現れるとされているが、これは聖と俗との境界という点から考えると、どういうことになるのか不思議に思う。

絵巻物にも来迎のシーンが現れる作品がたくさんありますね。『当麻曼荼羅縁起絵巻』や『法然上人絵伝』など、浄土教関係の縁起絵巻などには必ず登場します。おそらく、単独の来迎図や当麻曼荼羅のような作品から、来迎の表現を取り入れたのでしょう。来迎の時には光はもちろん、紫の雲や芳香が自然に生じるということは、『観無量寿経』をはじめとする多くの文献にも記載されていますので、イメージが先にあったか、テキストが先にあったかはわかりませんが、中国でも一般的です(たとえば、敦厚の壁画に多くの作品があります)。地蔵が出現するときは、あまり光を伴わないというのはおもしろい指摘です。菩薩の中で、地蔵のみが菩薩形ではなく僧形を取る点も、聖なるものの現れとして、注目する必要があるでしょう。女性像の地蔵はあまり私は知りませんが、そのほかに重要な姿として、童子形すなわち少年の姿をとることも、しばしばあります。童子も宗教学や神話学では、重視される存在で、しばしば我々の世界と神や仏の世界(つまり聖なる領域)との橋渡しの役をします。なお、いろいろな姿をとる別の仏としては、観音があります。今昔物語などの説話には、そのような観音の物語が多数含まれています。

・「千と千尋の神隠し」のお話で、もののけ姫でも、森の神などは汚い姿だったのを思い出しました。聖なるものをそうゆう姿で表現し、人間の姿の登場人物を使うことで、私たちに訴えさせるようなところがあるなと思いました。

・「千と千尋の神隠し」では、ハクやおばあさんなどが「聖なるもの」とわれわれの橋渡しになっていると指摘していた話を聞いて、なるほどと思いました。もののけ姫では人間だけれども、サンがその役割をになっているように思います。この場合、「聖なるものが人間の姿をとっている」のではなく、「人間が聖なるものの立場になっている」状態といえるのではないでしょうか。

・千と千尋の話がなるほどと思いました。宝石をたくさん持っているの「湯ばーば」だと思います。釈迦が生まれる前は仏教はなかったのだろうかと思いました。私たちはクリスマスも正月も祝うし、神社や寺で手を合わせたりしますが、どうして宗教や神様はなくならないのですか。芸術や美術の源だからですか。今は政治も道徳も宗教と分離して教えられている気がするのに、どうして仏教もキリスト教もイスラム教も、こんなに続いているのですか。

「千と千尋の神隠し」を例に出したところ、多くのコメントをいただきました。これはその一部です。「聖なるもの」の表し方として、ジブリ式あるいは宮崎駿氏によるイメージを紹介し、神や仏が人間の姿をとることが必ずしも一般的ではないことと、グロテスクなイメージをあえてとることによって、聖なるものの姿を表すこともあるということをお話ししました。しかし、宗教学や図像学の立場からは、ほかにもジブリの作品はいろいろな読み取り方が可能だと思います。私の知り合いの正木晃氏は「ナウシカ」をもとに、宗教学の本を書いています。私自身は、ジブリの映画の質が高いのはわかりますが、その意図するところは、いまひとつわかりません。「千と千尋」にしても、環境を大切にとか、「生きる力」を回復するとか、あるいは暴飲暴食に気をつける(お父さんとお母さんの話です)とか、そうゆうことなのでしょうか。それにしても、ジブリの映画の視聴率(?)はすごいですね。多いとは思っていましたが、皆さんのほとんどが手を挙げたのを見たときは、本当にびっくりしました。その半分でも私の本を読んでくれるといいのですが。最後の方の質問にある「なぜ宗教はなくならないか」は、不思議に思うかもしれませんが、どんなに科学技術が発達しても、人類が存在する限り、宗教はなくなりません。それは「人間が生きる」ことが、不合理なこと(あるいは神秘的なこと)の連続だからです。誕生や死はその最たるものです。

世界にはたくさんの仏像や、そういう象徴的なものがあることは皆知っているけれど、なぜ人々はそういうものに言葉や物語を刻んであがめたのか。もっと言ったら、人々は宗教に何を求めたのか。心の平安だとしたら、今の時代(日本では)人の心、求めるものが多様になりすぎて、何にすがればよいか、基準がないから「病む」のか。こういう宗教的な世界に入るとどうしても考えることが「心」のことになってしまいます。

たしかに、人々は宗教に何を求めたのでしょうね。歴史的に見れば「心の平安」以外にもいろいろあるでしょう。むしろ「心の平安」という概念そのものは、きわめて近代的なものであるとも思います。われわれ現代人は、豊かになったために大事なもの、すなわち「心」を見失ってしまったという考え方は、新聞やテレビでよく見ますが、それもステレオタイプという気がします。お金やものがたくさんあっても豊かな心を持った人はいくらでもいますし、その逆の人たちが心も貧しいことはもっと多いでしょう。それはともかく、心と宗教の関係は、授業を通して、ぜひいろいろ考えてみてください。仏像を見るときに、仏像を刻んだ人たちや、それを拝んだ人たちのことを考えることも、とても重要だと思います

象王の「おまえの恨みのために私は死んだのだ」という言葉は、王妃に何を伝えたかったのか。おまえの恨みのせいで私は死ぬのだという新たな恨みか、死ぬのだからもう恨まなくてもいいのだよと言うおもいか・・・。いずれにせよ、象王の言葉が王妃の死につながった(と思おう)のは、哀れに思った。

たしかに、あまり仏教的な結果ではないようですね。でもこれは、『芸術新潮』の編集の人のせいです。『週刊新潮』や『フォーカス』的なレベルの話になっています。元の物語では、象王はこのような「恨み節」は言っていませんし、王妃は象の牙を見ただけで、その悲惨な死を知り、絶命したことになっています。

前回の復習が長すぎるのでは?このままだと授業がずるずると遅れいていってしまうような気がします。

私もそんな気がします。どこかで巻き返しを図りたいと思います。「聖なるものの顕現」は、この授業の基本的な問題なので、詳しくなりすぎたようです。

だいぶ素朴な疑問になると思いますが、バールフットやサーンチーなどの初期の仏教美術では、当時の民間信仰にもとづいたものが多いとのことです。それは現在、世界宗教のひとつといわれる仏教が、未だ大きな宗教ではなく、そういった民間信仰のものに頼らなければならなかったということでしょうか。

当時の仏教がそうだったのではなく、基本的に仏教は(あるいはあらゆる宗教は)、民間信仰的な部分を含んでいます。キリスト教やイスラム教やユダヤ教でもそうです。きわめて高度な哲学的な面を持ちつつも、迷信や占術など、人々の生活に密着した要素を含んでいるからこそ、さまざまな地域や人々の中に広がっていったのです。美術や建築には、そのような要素が明瞭に残るので、特殊に見えるかもしれません。ジャータカなどにも、仏教とは関係のない説話や物語がもとになっているものがたくさんあります。


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