南アジアの仏教美術

2005年10月20日の授業への質問・回答


表せるもの、表せないものの区分はとても難しいと思いました。今の人の感覚だと、僧と世俗の人の間に境界があるというのは、とても不思議な感じがします。偶像崇拝の話は、どの宗教にとっても重要な問題だというのは知らなかったです。現代では偶像崇拝は一般的になっているので、偶像として表さない考えというのが、よくわかりませんでした。

インドの初期の仏教美術において、「釈迦は人間の姿では表されない」というのが、一般的な理解なのですが、それほど単純ではなく、釈迦であっても前世の釈迦は表されるし、釈迦以外でも比丘(僧侶)は表されないということを紹介しました。「表されないもの」という範囲が、釈迦と正確には一致しないことがポイントです。前回の授業のテーマは「聖なるものはいかにして表現が可能か」でした。バールフットの浮彫を刻んだ者たちにとって、「聖なるもの」が何であるかに注意を払いたかったのです。「聖なるもの」とそれ以外とを分ける境界線がどこにあるのかは、その宗教を考える上で重要だからです。ただし、私自身、彼らが境界線を設定する基準はよくわかりませんでした。他の人のコメントに「現世の釈迦と比丘は悟りに向かっていたり、後々、悟りに達したりして、前世の釈迦、神々、世俗の人はそんなでもないから?とか、説法をするものは描けないのか?と考えました」と、積極的に考えてくれたものもありました。わたしも同じような理由を考えていましたが、それだけでは説明できないようです(たとえば、前世の釈迦も悟りに向かって修行をしています)。皆さんもいろいろ考えてください。偶像崇拝の禁止については、突然、「すべての宗教は偶像崇拝を禁止しています」と言われ、「わけがわからない」と思った方も多いでしょう。実際、われわれの身近な仏教もキリスト教も偶像崇拝の禁止などとは言っていませんし、信者はせっせと拝んでいます。しかし、信仰心が強ければ強いほど、そのような像で表されているものは、本当の神や仏とは別のものであると思うのではないでしょうか。あるいは、どのような形で表しても、それは本当の神や仏を「ありのままに」表しているのではないと思うでしょう。宗教とは頭で合理的に理解するものではなく、心の問題なのです。

聖なるものを表す手段として、降臨と昇天があるけれど、私は降臨の方が救済的なイメージがあるように思う。降臨は神様が降りてくることで、昇天は神様になることだと思う。故に、神、仏は空(天)にいるイメージがします。

たしかにそうでしょうね。降臨と昇天を取り上げたのは、「聖なるものの表現」として、おそらくもっとも普遍的なものであるからです。われわれの「俗なる世界」の中に、「聖なるもの」を表現するためには、それが何であるかを示すメッセージのようなものが必要です。別の言い方をすれば、「聖なるもの」と「俗なるもの」の間に境界を設定しなければ、両者の違いがわかりません。その場合、二つの間に「落差」を作るのが、おそらく最も簡単な方法でしょう。「聖なるもの」を上に置き、「俗なるもの」を下にするのは、その落差を表すためです。降臨も昇天も、見るものにこの落差を意識させるために有効です。そこに「光」や「雲」が介在することで、さらに効果は高められます。降臨と昇天のどちらを好むかは、その宗教の性質や、あるいは時代による画家たちの嗜好にもよるでしょう。キリスト教の絵画にはどちらも頻繁に現れますが、仏教はどちらかといえば降臨の方が表現方法としては多いようです。たしかに「救済」と結びつくのも「降臨」の方でしょう。阿弥陀による救済を最も重視する浄土教は、多くの来迎図を生みましたが、そこでも阿弥陀がお迎えにくる場面が好まれて描かれます(「帰り来迎」といって、極楽に向かって上っていく絵も少しありますが)。

最近、思うのですが、「ハスのハナ」と書いて「蓮華」ですが、日本では「レンゲ」と「ハス」はまったく別の植物ですよね。パワーポイントの写真のタイトルによく「蓮華」が表示されていますが、本当に蓮華のような多花弁の花の時と、ハスのように蓮華よりは花弁の少ないものとがあるようですが、これらは区別されていないのですか。

春の野に咲く「レンゲ」と、「ハスの花」はたしかにまったく異なる植物です。インドに「レンゲ」があるかどうかわかりませんが、仏教美術に登場する植物はハスの花の方で、一般にそれを「蓮華」と呼んでいます。ただし、バールフットの浮彫の蓮華をよく見ると、たしかに形態はいろいろです。また、「蓮華蔓草」と呼ぶこともあり、その場合は、実在の蓮華ではなく、むしろ想像上の植物のようです。ヤクシニーの臍や性器から生えてくるものもあるのですから。蓮華は仏教美術において最も好まれた植物で、バールフットやサーンチー以来、いたるところで表現されています。細かく観察すると、バールフットだけでもいろいろな種類があるかもしれません。

像が手に持っている仏具や乗り物はそれぞれ違うようですが、何か意味があるのですか。顔や手足が複数ある意味はあるのでしょうか。目が三つあるとか、体が人と動物でくっついているとかという奇怪なものはないですか。

仏像が手に持っているもの(持物と書いて「じもつ」と読みます)には、それぞれ意味があります。図像学ではアトリビュート(attribute)といって、キリスト教の絵画などでも、作品を解釈する重要なポイントになります。観音とハスの花、文殊とお経、弥勒と水瓶などは、その中でも重要なものですが、その意味は重層的ですし、長い歴史を持っているので、簡単には説明できません。一部については私の『インド密教の仏たち』で取り上げているので、参照してください。乗り物、手足の数も同様です。目が三つあるのは、ヒンドゥー教のシヴァが有名ですが、その影響を受けた仏教の仏にもいくつか例があります。体の一部が動物というのは、インドではあまり好まれませんでしたが、獣頭、すなわち頭部のみが動物という神や仏はいくつかあり、ガネーシャ(象)、ヤマーンタカ(水牛)などが有名です。

三道宝階降下の蓮華色比丘尼も憎めないと思う。釈迦は駆け寄られてもうれしくないのですか。見えないものの方が大事というのが何となくわかる。金子みすゞでちょっと思い出したのですが、宮沢賢治の雨ニモ負ケズは四門と関係ありますか。

私は釈迦ではないのでわかりませんが、少しはうれしいかもしれません(ウソです。釈迦は悟っているので、そのような人間的な感情は生じません)。それはともかく、蓮華色比丘尼のエピソードは三道宝階降下の中の一つの「事件」として好まれたモチーフで、ガンダーラには、階段の下でひざまづく比丘尼を表したものがありますし、チベットではさらに徹底して、七宝すべてを従えた比丘尼の妖艶な姿が描かれるのが一般的です。これが須菩提の行動と対比的に扱われるようになったのは、時代が下ってからで、おそらく空思想を説く般若経などの流行などとも関係するでしょう。バールフットの三道宝階降下図が、そのような流行と関係するかはわかりませんが、釈迦を足跡や菩提樹で表したこの作例と、ちょうどそこに結びつけられる比丘尼と須菩提のエピソードが、宗教美術における聖なるものの表現として、格好の題材になるので、注目しました。宮沢賢治の雨ニモ負ケズに登場する、各方角でそれぞれ何かをするという部分と、四門出遊が関係するかどうかはわかりません。何か研究があるかもしれませんので、調べて教えてください。一般に宮沢賢治は法華経への強い信仰を持っていたことで有名です。また、仏伝の内容、特に四門出遊のようなポピュラーなものは、当時の日本人にとって、いわば常識だったと思います。

見えないものへの評価は、仏教においてのみではないという話でしたが、他の例がキリスト教の絵ばかりだった気がします。他の宗教でもそういったものが顕著に見えるものはないのでしょうか。

たしかに仏教以外の例はキリスト教に限られていました。これは、キリスト教と仏教の宗教図像に関する研究が、比較的同じような視点から可能であるためでしょう。「聖なるもの」を何か他のもので表す例としては、日本の神道のご神体をよく例にあげます。人間の姿の神像ももちろんありますが、鏡や勾玉、剣のようなものが、神様の代わりになります。イスラム教のように、まったく図像体系や発想の異なる宗教では、例をあげるのはなかなかむずかしいのですが、光による表現としては、たとえばムカルナスと呼ばれる装飾文様などは、光のイメージと結びついているように思います(ムカルナスの原義は鍾乳石なのですが)。また、神道の鏡や勾玉も、光るものや、光を反射するものとしてとらえられるのではないでしょうか。天照大神も輝く神のイメージです。おそらく、民俗宗教や民間信仰でも、このような光と聖なるものの結びつきは頻繁に見られると思います。

仏像におけるとっても簡単な本を読んだのですが、降三世明王が踏みつけているのがヒンドゥー教のシヴァ神とその妻の烏摩妃であるとありました。また、四天王の広目天はシヴァ神の化身とあります。降三世明王は広目天を踏みつけていると考えられないでしょうか。また、胎蔵界や金剛界での役割の違いなどがあるのでしょうか。

その本によると、そのようになりますね。でも、それはやはりおかしいですね。仏教ではたくさんの仏たちの中で、特定の仏たちの同一視が見られます。しかし、これはすべての仏教でそのように理解されているのではなく、特定の経典や文献にのみ見られものです。また、ヒンドゥー教の神との同一視は、仏教側よりもむしろヒンドゥー教側で顕著です。日本でも、本地垂迹説のように、日本古来の神を仏教の仏と同一視します。神や仏の世界が肥大化したり、外来の宗教が取り入れられたときには、このような同一視は頻繁に起こります。質問の例も、実際は広目天がシヴァ神の化身であるという解釈が、特殊なものであることによります。仏像の入門書はいろいろ読んでいただきたいのですが、「おかしいな」と思ったら、別の本などでそれをさらにくわしく調べるといいでしょう。胎蔵界と金剛界はマンダラのことですが、その中での降三世明王の役割については、『インド密教の仏たち』の第7章で取り上げています。二つのマンダラについての簡単な説明も入っていますので、参照してください。

仏教の経典にはどのようなことが書かれているのでしょうか。盆や法事の際にお坊さんが来るたび聞いているのですが、まったく意味がわからないのですが。

お経は漢文、すなわち中国語で書かれていますので、ふつうの日本人には聞いてそのままわかるものではありません。おそらく難解なことが書いてあるだろうと思われるでしょうが、そうではないものもたくさんあります。実際に読んでみると、読み物としておもしろいものがたくさんあります。渡辺照宏『お経の話』は仏教経典を知る上での優れた文献ですが、その中で渡辺氏は、およそ人間の考えることや行うことで、お経に書いてないものはないとまで言っています。実際、先週紹介した蓮華色比丘尼の人生などは、ワイドショーでも取り上げられそうなスキャンダラスなものです(比丘尼そのものではなく、その周囲の人物がです)。仏教経典の現代語訳はたくさん出ていますので、一度試しに読んでみるといいでしょう。仏伝関係であれば講談社から出ている『原始仏典』シリーズや岩波文庫の中村元訳のいろいろな本、大乗経典であれば、中央公論社の『大乗仏典』のシリーズなどがおすすめです。

今日取り上げられたバールフットは、インドの中央くらいに位置するということですが、それはつまり内陸部ということで、あまり海は関係のないような地理にあると思います。にもかかわらず、海のモチーフが彫刻の中に多いということは、古代インド全体に、海は「生命の源」であるという考えがあったのでしょうか。

そのとおりで、古代インドより、海や水は生命の源という認識がありました。私の担当する教養的授業「密教美術の世界」では、仏塔のイメージやシンボルに時間を割いて、そのことを詳しく紹介しています。この授業では仏塔は、南インドのアマラヴァティーとナーガールジュナコンダを扱う時間に、詳しく取り上げるつもりですが、その前提として、仏塔は生命の母胎であるということを知っておいてください。なお、海が生命の源であるということは、科学的な知識としてわれわれは知っていますが、それくらいのことは人間は誰でも気がついていることで、世界中の神話や宗教がそれを証明しています。

「爆笑している仏」で、十一面観音の後ろ側を思い出しました。あれはすごく印象的です。

たしかに、爆笑している仏として十一面観音の後ろ(暴悪大笑面)を忘れていました。前々回のスライドショーにも登場しています。自分で作っておきながらうっかりしていました。

三道宝階降下で釈迦の足跡だけが残っているのが、神秘的で聖なるイメージを強めているように思われた。下手に現世の釈迦の姿が表現されて、怖い顔だったりしたら、イメージがぶちこわされていやだなと思った。

まさにそのとおりです。当時のインドの人々が釈迦を人間の姿で表さなかった気持ちも、そのあたりにあるのでしょう。人間という具体的なイメージによって表すことに限界を感じているからこそ、もっと象徴的なもので表したのでしょう。当時の人々にとって、釈迦はそれほど大切なものなのです(だから宗教として成り立つのですが)。

授業の前にスライドショーみたいな感じで、「地獄図」の紹介がありましたが、コメントなどとても楽しく見させていただいています。仏教の本などはどうしても堅苦しく、難しいことばかり書いてあるイメージがあるのですが、スライドショーのような読みやすい仏教美術の本などを教えていただきたいです。

スライドショーの「地獄図」は、授業でも紹介したように、高校生向けのオープンキャンパス用に制作したもので、高校生にも仏教美術や比較文化に関心を持ってもらおうと作ったものです。そのため、すこし「軽め」の内容でしたが、なかなか評判がよかったです。現在開催中の京都国立博物館の「最澄と天台の国宝」展で、スライドショーに使った聖衆来迎寺の「六道絵」が15幅すべて、展示されているのも先週紹介したとおりです。私も先週の土曜日に見てきました。そのときに聞いた話では、すべて展示されたのは32年ぶりで、次はいつになるかわからないということでした。今月中は見られますので、機会を見つけて行ってみてください(東京国立博物館にも巡回するようですが、すべて見られるかはわかりません)。「スライドショーのような仏教美術の本」というのはなかなかありませんが、写真がたくさん入っていて、取っつきやすいものとしては、『図説 日本の美術』(新潮社)『人間の美術』(学習研究社)『日本の仏像大百科』(ぎょうせい)などがあります。

「すべての宗教は偶像崇拝を禁止したい、と同時に何とかして表したい」という話は、まったく同感です。むしろ、何かしら偶像を設定しないことには、宗教として成立しない、もしくは拡大しないと思います。偶像禁止のイスラム教ですが、神の歌であるコーランは文字化され、神像に代わって崇拝されています。が、そもそも文字化され得ないものだったと記憶しています。しかし、もし文字化しなかったら、アイヌのユーカラのように、民族の伝統として継がれることはあっても、なかなか「宗教」としての形を整えられなかったのではないでしょうか。


そのとおりでしょうね。人類のすべての美術は、本来は宗教美術だったという話も聞きますが、「表すことができない、でも表したい」という葛藤が、宗教美術を生み出す人間の心理でしょう。どこに落としどころを見つけるかで、その宗教の独自性があるのです。文字の問題も興味深いです。イコンではなく文字を「聖なるものの現れ」として用いるのは、たとえば日本の日蓮宗や、浄土真宗などでも見られます。いわゆる「名号」です。これらの文字崇拝は、歴史的には平安から鎌倉にかけての仏教美術の隆盛に対して、過剰となったイコンに対する一種の反動ととらえることができます。しかし、文字そのものもイコン化するところが、やはり宗教なのでしょう。文字こそは、人間が生み出した最も優れたシンボルとも言えます。


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