南アジアの仏教美術

2005年10月13日の授業への質問・回答


如来像の後ろのうにうにに名前が付いていたと思うのですが、何を意味しているのですか。如来や観音にはランクがあると聞いたことがあります。仏像などにはその違いが現れているのですか。大元帥と天鼓雷音言ってないですよ。

如来の後ろの「うにうに」が、何を指しているのかよくわかりませんが、頭光(ずこう)や光背(こうはい)のことでしょうか。如来は全身が金色をしていて、光を放っているため、このような表現をとります。本来であれば正視できないほどまぶしいのですが、それを木の彫刻で表現することはできません。頭光や光背はその代用です。そのため、光を表す放射状の模様などがついています。仏のような聖なるものと光が結びつくことについては、授業の中でも取り上げるつもりです。「如来や観音にランクがある」というのは、如来のグループと観音のグループ(あるいは菩薩のグループ)が、格が違うということでしょう。観音や、それを含む菩薩のグループは、まだ悟りを開いていない修行途上の身なので、すでに悟りを開いている仏よりも「格下」ということになります。当然、仏像のイメージにもそれは反映しています。しかし、あまりそのようなランキングにこだわらない方がいいでしょう。むしろ、異なるグループの仏たちに共通するイメージがあることや、同じ仏であっても、時代や地域でランキングが異なることが、仏教美術のおもしろさです(これは私の『インド密教の仏たち』の執筆意図でもあります)。大元帥と天鼓雷音は、うっかりしていました(他にも指摘してくれた方がいました)。大元帥明王(たいげんすいみょうおう)、天鼓雷音如来(てんくらいおんにょらい)です。

仏像には様々な形がありますが、それぞれには何か意味があって作られたのだと思います。その意味を教えてほしいです。特に十一面観音にはなぜ顔がたくさんあるのか気になります。また、仏像の中での女性のことを教えてほしいです。いったい、どういう意味を持っているのでしょうか。それは作られた時代背景等は関係ありますか。

もちろん、仏像の形にはそれぞれ意味があります。しかし、はじめに意味があって、それを表現するために仏像を作ったわけではありません。むしろ、仏像のような「イメージ」が先にあり、それに仏教的な意味を与えたという場合の方が多いでしょう(美術史ではこのことを「はじめにイメージありき」と表現することがあります)。仏像を紹介する市販の本などに、そのような仏教的な意味がもっともらしく書いてあることが多いのですが、私はあまり信用していません。たとえば、観音がハスの花を持つことを「慈悲の象徴である」などと紹介されますが、むしろ、インドでは古い時代から、豊穣や多産を表すモチーフとしてハスが好まれたことが重要でしょう。別に「慈悲」を表すというだけであれば、ハスである必然性はないはずです。このような「原初的なイメージ」がもつ意味に、授業では注目したいと思います。十一面観音の顔や女性の仏については、どこかでふれたいと思いますが、とりあえず『インド密教の仏たち』の第5章を参照してください。

ずいぶんたくさんの仏の種類があるのだなと思った。お地蔵様は地獄での救済主だということだが、テレビ番組で閻魔大王と同一だと聞いたことがある。地獄の救済者というのが、それに当たるということだろうか。

仏の種類は星の数ほど無数にあります。これはメタファーではなく、実際に経典には「宇宙全体には仏が満ちあふれている」という記述もあります。地蔵と閻魔の関係は、中国や日本においてはそのとおりです。地蔵信仰と十王思想が混淆するからです。しかし、それはインドまではさかのぼることができません。閻魔はインド起源の神ですが、十王そのものがインドにはないからです。ちなみに、インドには地蔵の単独像はなく、菩薩のグループのなかの作例が何点かあるにすぎません。その場合、比丘形はとらず、ふつうの菩薩と同じ姿です。道ばたの小さなお堂の中の、よだれかけを掛けた小坊主のような日本の地蔵とはまったく異なります。

単語の説明やクイズの解答がはやくて写すのが大変でした。舎衛城神変から酔象調伏までは五つあるのに、何であわせて八になるのですか。

これは失礼しました。今回の配布資料に、クイズの方の解答は入れておきます。単語の説明は随時、行いましょう。舎衛城神変の後の千仏化現は、舎衛城神変の具体的な内容を表したもので、同じ出来事を指しています。三道宝階降下も従三十三天降下(じゅうさんじゅうさんてんこうげ)と言ったりして、複数の名称を持つものがあります。

配布されたプリントの2枚目の、挙手しているように見える(そう見えてしまうのは、私が仏教にあまり興味を持っていないせいでしょうか)仏像は、どれくらいのサイズなのでしょうか。深皿くらいのサイズを想像していたのですが、お茶を注ぐということは、もっと大きいのでしょうか。

灌仏会(花祭り)に使う誕生仏は、一般に規模が小さく、高さが10センチぐらいのものが多いのですが、東寺のこの作例はその中では大きい方です。手元に資料がないので、正確な数値はわかりませんが、40センチほどあると思います。盤の方は直径1メートルくらいだったでしょうか(確認しておきます)。

今日は奈良の絵因果経を見ましたが、あれは本物の釈迦の姿なんですか。似ているんですか。

わたしも本物の釈迦を見たことがないのでわかりません。でも、それは絵因果経を書いた人も同じですし、もっとさかのぼれば、釈迦に直接会った人でなければ、それはわかりません。ひょっとすると、釈迦に直接会った人でも、それぞれ違う印象を持ち、違うイメージでとらえていたかもしれません。むしろ、釈迦のような存在を、どのようなイメージで表そうとしたかが問題なのでしょう。授業ではそのことを「聖なるものはいかにして表現可能か」という問題として、扱っていきます。

釈迦のライバルとされる提婆達多は、インドにおいてどのような存在だったのかが気になった。尊敬の対象なのか、悪のイメージを持つ存在なのか。

たしかに提婆達多は仏教史の中で気になる存在です。仏典などでは徹底的な悪人として紹介されます。釈迦に対して敵意をむき出しにし、しばしば危害を加えようとします(酔象調伏はその代表的なものです)。あるいは釈迦と同じような仏陀の姿をしようと、身体に金のペンキを塗ったり、足の裏に焼きごてを当てて、模様を付けたりといった、涙ぐましい努力もしたそうです。しかし、実際は提婆達多は、釈迦の教団の中の保守的な立場の者たちの代表的な存在だったというだけのようです。具体的には戒律を厳しく定めることを主張したのです。釈迦はむしろ戒律をゆるめようとした側を支持したようで、釈迦の生存中に、すでにこの二つのグループは分裂します(これも破僧伽といって、提婆達多の悪行の一つになります)。歴史的には、緩和派の立場が仏教の主流となり、提婆達多のグループは一種の異端となったのです。提婆達多の数々の悪行の物語は、主流派のものの捏造であった可能性が高いということです。記録に残る歴史というのは、勝者の歴史であるということなのでしょう。ちなみに、玄奘がインドを訪れた6世紀には、提婆達多の教団というのが残っていたそうです。

仏陀の伝説(エピソード)はどこまでが実際に起こったことなのだろうか。仏教関係者によって少しずつ誇張された部分が少なからずあると思うのだが、今日見た絵巻の中でも、「象を持ち上げる」というのは、実際には無理であるとしか思えないので。

もちろん、そのとおりです。上の質問でもふれたように、現存する経典などは、歴史的事実を伝えようとして書かれたのではなく、宗教的活動の一部として書かれたものです。誇張もフィクションもでっち上げも、何でもありでしょう。しかし、文献を残した人々が、われわれと同じような「合理的思考」を持っていると見なすのも危険でしょう。すなわち、仏陀の伝説の大半は荒唐無稽の内容を持ち、われわれが読んでもほとんど信じられないのですが、彼らにとっては、それは一種の神話として、真実を伝えていたはずです。神話的世界を生きている人々の思考法を、われわれの基準で「正しい」とか「間違っている」と判断するのは困難なのです。

五智如来で思うのだが、同じところに同じような仏がいすぎると逆に御利益がなさそうな気がする。薬師如来坐像のように、大小の差が大きければいいのだが。

そのとおりで、バーミヤンの大仏や奈良の大仏が極端に大きいのは、他の仏とは別格であることを表すためです。金剛三昧院の五智如来も実際は中央の大日如来が少し大きく作られています。また、他の四仏が仏形をとっているのに対し、大日のみは菩薩形をとり、イメージの上でも差があります。「同じようなところに同じような仏がいすぎる」というのも、場合によっては好まれます。中央アジアの石窟には、無数の仏を整然と並べた壁画がありますし、変わったものとしては、日本のお経に、一つ一つの文字を小さな仏とくみあわせたものがあります。

今回の授業では悉達多の人生と仏の世界の美術を見たわけですが、仏教というと、釈迦の教えと、仏像に代表される仏たちの世界のイメージがあります。しかし、この二つのイメージ、一方は思想的であり、一方は神話的であるという点で、あまりかみ合っていないような気がします。この二つのイメージを、どのような点が仏教として一つに重ね合わせるものなのでしょうか。

重要な問題ですが、神話と思想というのは、たぶん、それほど簡単には二分できない問題でしょう。思想や教えというのは、本来は形を持たないものですから、仏像のようなイメージとは結びつきませんが、人々は仏教の教えをイメージから知ることがあります。また、仏たちのイメージは、仏教の思想を抜きにしては理解することはできません。これからの授業の中でも、イメージと思想の関係は重要なテーマになるはずですので、関心を持っていてください。

釈迦の説法印はずいぶんやりにくそうな形をしていますね(手を内側にひねってますし)。見返り阿弥陀如来立像は、この夏に見てきました。前から見ても顔は見えませんが、像の背後から通って、阿弥陀蔵の左側に回ると、突然目が合うのでドキリとしました。見れば見るほどふしぎな、何か引きつけられるような気がしました。

説法印はたしかに難しい手の形です。説法印にはいろいろなヴァリエーションがあるので、仏師たちも苦労したのでしょう。阿弥陀には見返り阿弥陀の他にも、五劫思惟阿弥陀や歯吹き阿弥陀、善光寺式阿弥陀など、独特の形態をしたものがいろいろあります。それだけ、日本で浄土信仰が重要だったのでしょう。なお、見返り阿弥陀は京都の禅林寺(永観堂)というお寺にありますが、このお寺は浄土宗の西山派の古刹です(現在は西山禅林寺派として独立)。本来、真言密教の寺院だったようですが、法然や證空の時代に浄土宗の重要な拠点となりました。そのため、西山派がとくに重視する当麻曼荼羅の優れた作品なども、寺宝として残されています。禅林寺はこの11月の1ヶ月間、特別公開するようなので、また機会があればどうぞ。紅葉がきれいなことでも有名だそうです。

娯楽の絵では皆あまり楽しんでいないように描かれていたが、基本的に宗教画では、宗祖の感情表現が強調されることは少ないように思う。釈迦が大笑いするような絵はあるのだろうか。

たしかにそうですね。他にも、釈迦は世俗の快楽的な生活を嫌悪していたのだから、楽しんでいないように描かれているのではないかという指摘もありました。それももちろんそうなのですが、太子だけではなく、隣の奥さんも、さらに奏楽や舞踊の女性たちも、みな同じように無表情なのが、印象的です。『絵因果経』は、後世の絵巻物とは異なり、登場人物が皆、シンプルな表現で、感情をあらわにしないところが、一種の魅力になっています。「くったりした感じが好きです」という感想もありました。釈迦が大笑いする絵は、残念ながらありません。

清涼寺式というのはどういったところが特徴なのでしょうか。

右手を施無畏印、左手を与願印にして直立して立つ立像です。身体をほとんどひねらず、大衣で首のあたりまで覆い、その表面に首を中心にした同心円状の衣紋を表現します。また、素材が栴檀の木であることも重要です。その起源は、釈迦が三十三天に説法をするため赴いていた間、釈迦不在を嘆いたそのときの王が刻ませた「栴檀瑞像」といわれています。実際は、中国の宋代に流行した釈迦の形式で、日本にはちょう然という僧が伝えました。

仏像はもともとギリシア文化とインド文化の融合だと聞きましたが、当時その融合によってできた仏像と日本の仏像とは、どういった点で異なるのか疑問に思いました。

この説明はおそらくガンダーラ美術の説明だと思いますが、ガンダーラの仏像と日本の仏像は、似ているところもあれば、異なるところもあります(全体から見れば異なるところの方が多いでしょう)。ガンダーラについてはもう少し先に2回分予定していますので、そのときじっくり見てください。なお、ガンダーラ美術が「ギリシャ文化とインド文化の融合」であるという説明は、歴史の教科書などでときどき見ますが、それほど単純ではなく、様々な要素が見られます。



(c) MORI Masahide, All rights reserved.