仏教儀礼の比較研究
2006年1月30日の授業への質問・回答
授業の終わりにあたって
儀礼という特殊なテーマの授業なので、どこまで皆さんが関心を持ってくれるか心配していましたが、出席率は上々で、中途で放棄する方も比較的少なく、うれしく思います。毎回の質問やコメントも内容に即したものが多く、私自身の刺激にもなりました。
授業でとりあげた儀礼は、仏教儀礼に限ってもごく一部ですし、とりあげたものも十分説明できなかったものが多々ありました。最後の授業でまとめをお話しする時間がなかったので、簡単に講義の全体をふりかえっておきます。はじめの数回では、インドの儀礼の構造や、他の儀礼の一部となるような基本的な儀礼を取り上げました。それをふまえて、マンダラの制作儀礼に見られるコスモロジカルな要素、灌頂を中心とした再生儀礼の変遷を、比較的時間をかけて説明しました。これらは私が重点的に研究をしてきたテーマでもあります。年末は個人的な実践を儀礼の視点からとりあげ、さらにそれが集団的な儀式へと変わっていったこと、そして、密教儀礼と浄土教儀礼の関係にも着目しました。一月に入ってからは、日本の密教儀礼を対象に、国家的儀礼や私的修法の実際の内容を紹介しました。
儀礼を考察する場合の視点は、このほかにもいろいろあります。とくに、最後のテーマとも重なりますが、国家や権力と儀礼の関係は、もっと詳しく考察すべきでしょう。また、儀礼をテーマにしていながら、実際の儀礼を映像などで紹介する時間をとるべきだったとも思います。美術作品であればスライドでもイメージがわきますが、儀礼とは基本的にパフォーマンスなのですから、その雰囲気は写真ではなかなか伝わりません。今後の課題にしておきます。
今回は最後の講義でしたので、出席カードに記載のあったものはすべて掲載しました。その分、私のコメントはごく一部に限りました。
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舎利についての話がとてもおもしろかった。平安時代には4000に増えているというのは、不思議とかではなく、むしろ笑えます。でも、それぞれ本物の舎利だと思われ、信仰されているのだろう。また、それが大切なことかと思った。
7という数字の仏教的意義を知っていれば、またドラゴンボールも楽しさが増えたように、知識というのは、あればあるほど、ものごとを深く楽しむための助けになると思いました。
それはもちろんそうなのですが、蓄積できる知識以外にも、分析力や判断力、そして創造力などが動員されて、ものごとを深く楽しむことができるでしょう。私の授業がそれにすこしでも役に立てばいいのですが。
牛王(牛黄)はなぜ「人間の精魂」を表すのですか。広辞苑を引くと、牛王は「牛王宝印の略」で牛王宝印とは熊野神社などが出す厄よけの護符、牛黄は「牛の腸、肝、胆に生ずる一種の結石。生薬とする。牛の玉」とありました。牛黄の「生薬」という意味がつながっているのでしょうか。
愛染(愛に染まる?)明王という名は、この男女和合などを象徴したという修法に関係しているのでしょうか。それともオリジナルは別の意味を持っているのですか。
牛王は私もくわしいことはわかりません。生薬の名前として用いるのは、本来あった「精魂」からの転用ではないでしょうか。阿部先生の論文では「人黄」というのも出てききて、やはり「人間の精魂」と説明されています。愛染明王という名称はインドには該当するものがありません。作品もないので、中国か日本で作られたのではないかと思います。ただし、明王系の仏に「愛欲の王」という意味のタッキラージャというのがいて、これが関係するという見方もあります。愛染明王の修法は、何らかの形で、敬愛法と関係があることが多いようです。
愛染明王といえば、中日新聞にたぶん週一回ぐらいのペースで仏教特集のページがあります。最近見つけたのですが、なにげに宮治昭先生の連載があり、前回はマトゥラーの女性像についてでした。カーマスートラとかインドの遊女について書かれていたのが印象的でした。でも仏教では性欲は制されるべき煩悩ですよね。矛盾しているというか、極端ですよね。
宮治先生の連載については、ご本人からお話をうかがってはいるのですが、購読していないので、読んでいませんでした。北陸中日新聞にも掲載されているので、購読されている方は、気をつけて見ていて下さい。仏教と性欲の関係は一筋縄ではいかないところが、おもしろいのでしょう。密教では性欲をどんどん使って修行をしますし、仏教美術と女性像(とくに性的な)は密接な関係があります。
お稲荷さんの由来がそうだったとは・・・。授業を通して、自分の身近なものや儀礼の元来の意味を知ることができて、驚きましたし、よかったと思います。
私もそう思ってもらえると、よかったです。
牛王は人間の精魂ということでしたが、なぜ「牛」の字を当てたのでしょうか。慈円の王権儀礼観に「天子は天照大神のご神体であり、大日如来にして、鏡」というフレーズがありましたが、天照大神は女性で、大日如来は男性ということになっていますよね。天子の性別はいったいどうなるのか、引っかかるのですが・・・。そのあたりは超越してしまっているのでしょうか・・・。
このあたりは私もよくわかりません。阿部先生の論文と、そこに引用されている慈円の著作に直接当たってみてください。
王権儀礼というとお高いイメージがあったけど、性の力など現実っぽい話と結びつけてあって、意外とわかりやすい部分もあるんだなと思いました。
でも、多くの社会において、性というのは「聖」でもあります。性を卑猥なものというイメージでしかとらえられない現代の方が、人間の歴史の中では特殊だと思います。
・クルクッラーが人を踏んでいたけれど、それは何でですか。敬愛法なのに少し残酷なイメージの画像でした。
・チベットのクルクッラーの足の下に人(?)がいたのですが、あれはどのような意味を持っているのでしょうか。
クルクッラー自体は人間の上に立つ必然性がないのですが、そのイメージの形成にあたって、人間を足の下に踏む神であるヘールカやナイラートミヤーという仏たちの影響を受けたからだと思います。
天皇、国家と仏教が非常に密接なので、私たちの身の回りに残る儀礼にも、もともとは天皇、国家などと関係があるのかと感じた。
たぶん、たくさんあるでしょう。われわれはそれに気づいていないだけかもしれません。
・生と性の関係が、古来から深いことに驚いた。
・禁欲的なイメージを保っていた仏教が、時代を下るにしたがって性的なイメージも保つようになるのが興味深かった。キリスト教だとそこらへんはまだ隠されるべきものだと思っていたが。
・密教でこれほど人の煩悩(とくに性欲)が重要視されているとは知りませんでした。(おそらく仏教の影響で)そういうものは振り払うべきものとされている、というイメージが強かったのだ・・・意外でおもしろかったです。
密教では煩悩即菩提というのが、重要なテーゼです。
豊川稲荷には何度か行ったことがあります。ダキニ天がいたことは、まったく知りませんでした。経済で仏教学の授業をとっていると、変わり者と思われることがしばしばありましたが、社会のあるべき姿を考えるとき、社会の成り立ち、変化をとらえる必要があると思います。仏教学は重要な構成要素であると考えています。
ほんとうにそうですね。仏教学だけではなく、文学部でやっていることは、社会に何も役に立たないことのように思われますが、文学部は「人間humanitiesにかんする学問」をしているのですから、これほど重要なものはないはずです。どの大学でも文学部をはじめにあげるのは、ヨーロッパ以来のそのような伝統があるからです。ぜひこれらかも広く関心を持って、大学生活を送って下さい。豊川稲荷で、ダキニ天も探してみて下さい。きっとあるはずです。
弓矢を描いている絵が多かった。欲望を表しているのはおもしろかった。
王権儀礼が巡り巡っている点がおもしろいと思った。密教では煩悩も悟りへのエネルギーとされるところに、何か前向きな印象を受けた。
ここまで大々的に密教でこういった性の部分が取り上げられているとは思いませんでした。このことがこんなに意外に思われるのは、やはり宗教と性とが、今の社会では結びつきにくくなっているからだと思います。いろいろ宗教はあると思いますが、ここまで性が儀礼として取り上げられる宗教はめずらしいのではないかと思いました。
授業で紹介した平安時代の儀礼の世界は、おそらく歴史の教科書のどこを探しても書いてありませんが、実際はこのようなものだったようです。私はインドの密教を専門にしているのですが、後期密教になると、同じように性がきわめて重要な役割を果たします。それは同時代のヒンドゥー教でも見られるものです。今回の授業を行って、日本の密教儀礼にインド後期密教がどの程度影響を与えたかが、気になりました。そのうち、くわしく調べてみたいと思っています。
舎利の増減の話は、単純におもしろいと思った。この授業を通じて、さまざまな仏教儀礼や仏教美術が存在することを知ると同時に、その独創的な点に惹かれた。意味が先にあるとはいえ、この豊富なアイディアがどこからくるのか、とても不思議だ。
京都の壬生かどこかの新撰組ゆかりの寺のようなところで、ドーム型の石塔のようなものを見ました。あれは何だったのか今になって疑問に思います。
アイディアの源を知ることもおもしろいですし、アイディアが伝播して変容するところもおもしろいでしょう。ドーム型の石塔はよくわかりませんが、無縁仏の石仏をピラミッド状に並べたものではないでしょうか。
今日の講義で慈円が出てきましたが、たしか中学の日本史か何かで出てきた気がするんですが、いったいどういう話で出てきたか忘れてしまって、思い出そうにも思い出せず、もやもやしています。テストに出ていたのですが。王権儀礼についての話ではなかったと思いますが、そんなことも書いていたのですね。
中学の歴史で慈円が出てきたとすると、かなりくわしい授業でしょう。慈円は九条兼実の兄で、天台座主となった重要な人物です。和歌にも通じていたので、その関係でもよく取り上げらます。平安から鎌倉にかけてのキーパーソンのひとりでしょう。望月の仏教事典などにくわしい説明があります。
三種の神器が王と后、子を象徴するというのははじめて聞きました。言われてみるとしっくりくるので、おもしろいと思いました。
私も阿部先生の論文ではじめて知りました。これはほとんど密教です。
儀礼を研究する際の多面的な観点から見ていくという姿勢についておっしゃっていたが、どんな研究をする際にも心しておくべきだと思う。独りよがりにならないためにも。
両頭愛染明王に不動明王の顔がはえてるのが不思議でしゃあなかった。
東洋版のキューピッドをはじめて見た。花がついていてかわいらしいと思った。西洋的な恋愛の成就のために使われる手段に、どうして弓矢が使われたのだろうか。共通する思想がきっとあるのだろう。
インドのカーマという神が、イメージとしては古いようです。神話学の世界では、インド神話とギリシア神話は共通の要素を多く有しているので、そのあたりに共通する思想があるのでしょう。
今までの授業や日々の生活の中で何となく知っていたことが、今までよりもつながった気がした。とても興味深い分野の授業だったのでとても面白かったが、正直むずかしかったり知識が少ないために理解できないことが多々あった。
断片的な知識がつながることは、とても気持ちいいものです。理解が十分できなかったのは、私の説明不足もあると思いますが、すべて理解できることはあり得ないので、理解できた範囲で興味を持っていただければいいと思います。
どの回でもそうでしたが、最初に、こんなことがあります、他にもこんなこと、あんなことがありますと、いくつかの事例があがった後で、最後には「実はこれは最初のこれと同じなんです」という展開に、ついていくのに頭を使いました。もうちょっと復習すれば、もっと理解できたのだろうかと思いました。
一見、関係なさそうなものを関係づけるのは、わたしの好みのパターンです。また、逆に一般には関係あるといわれているものを、関係ないというのも好きです。本を書くときや授業をするときには、はじめのパターンを使うことが多く、「テーマのループ化」というようなイメージです。私の授業は基本的に復習をすることはあまり想定していません。もちろんしてもいいですが、それぞれの関心領域に、私の発想や素材を役立てていただければいいでしょう。
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