仏教儀礼の比較研究
2006年1月16日の授業への質問・回答
那谷寺の護摩、年末のCMで何度も見て気になっていました。結局、初詣は近場の尾山神社に行きましたが・・・。「初詣」は神社でしたっけ。こういったときに改めて、日本の宗教の幅広さを感じます。
私は2年続けてインドで新年を迎えたので、初詣は今年もできませんでした。しいて言えば、元旦はエローラのジャイナ教窟に行っていたので、そこが初詣の場所になっていたのかもしれません。お参りというよりも調査で、写真を撮っていただけですが。金沢にいれば、野田山の大乗寺が徒歩10分のところにあるので、そこに行きます。曹洞宗のお寺です。高野山にいたときは奥の院と高野明神のお社にお参りしていました。奥の院は弘法大師がまつられているところで、高野明神というのは高野山の土地神です。どちらも高野山の山内にあります。たしかに、初詣は日本の宗教の幅広さを示すものですが、べつに日本だけがそうであるわけではなく、インドでもヒンドゥー教徒がイスラム教の施設にお参りに行くこともあります。ネパールのカトマンドゥでは、仏教寺院もヒンドゥー教寺院も一般の人々の参拝の場所です。日本人は宗教に対して寛大という説明をよく聞きますが(さらに、だから日本人は寛大だという突飛な論理も見られます)、むしろ、寛大ではない国の方が少ないような気がします。
鎮護国家は天皇の身体を儀礼によって守ることであるということが、印象的であった。現代で、天皇=国家というと危ないひとのように思えるが、当時は当たり前であったのだろう。天皇の身体を儀礼によって守らなければならない状況があったのか、疑問に思った。
天皇の身体が危険な状態になるというのは、病気やけがなど日常的にもしばしばあったでしょう。その都度、護持僧が加持祈祷のためにさまざまな修法を行ったようです。というよりも、そうならないように、毎日護持僧が儀礼をしていたようです。もちろん、戦争やクーデターに相当する場合は、怨敵退散、必勝祈願など、より強力な儀礼が行われました。平将門の乱、藤原純友の乱、時代は下りますが、源平の合戦やそれの先立つ前九年の役、後三年の役などが、そのような機会としてよく知られています。そもそも、天皇の身体、つまり姿を見ることなど、当時の人々にとってはあり得ないことです。テレビやニュース、あるいは週刊誌で、その姿がさらされている現代の状況は、日本の歴史の中できわめて例外的です。鎮護国家の儀礼は太平洋戦争の時代にも盛んに行われました。真言宗や天台宗の高僧たちが、われもわれもと行っていたのです。ついでに言えば、現代でもそれは変わらないかもしれません。昭和天皇の崩御の前にも、やはりありましたし、今の皇太子に子供が生まれるときには、安産祈願のご祈祷が日本中の密教寺院で行われています。
親戚で、どこの博物館で○○展をやるとか、どこの寺で○○年に一回のご開帳があるとかを聞くと、必ず出かけていく一家がいます。よく行くなぁと思っていたのですが、最近になって私自身も、そういうものに興味が出てきました。先回やった来迎図など、実物を生で見てみたいです。
わたしも大学に入るまで、あるいはこういう研究をするまでは、あまり仏像を見たり、お寺を回ることはありませんでした。どんな分野でもそうでしょうが、経験が少しずつ増えると、それに比例して関心や興味も増大します。本や授業で見た仏像などを実際に見ると、本物に出会えたという喜びもあります。ぜひこれからもその機会を増やしていっていただきたいと思います。来迎図はおもしろいですね。昨年は京都国立博物館で、特別展や常設展に来迎図の有名な作品が目白押しで出品されていて、わたしもかなり見ることができました。本物は迫力があります。このうち、特別展の天台展は、東京国立博物館で3月末から5月の連休明けまで開催されます。機会があればどうぞ。
鎮護国家が天皇を守ろうとしたものだったことは目からウロコでした。そこに儀礼というキーワードがあったとは思いもしませんでした。鎮護国家に関わる儀礼の中心となる仏が明王なのは、なぜでしょう(明王というと恐ろしいイメージがあるので)
明王はたしかに恐ろしい姿の仏たちです。そのなかでとくに不動明王は、日本の密教儀礼では重要な役割を果たします。護摩の本尊はほとんど例外なく不動明王で、不動の力で息災などが実現するのです。また、不動明王は大日如来と同体視され、大日如来が忿怒の姿をとったと、日本密教では理解されています。天皇の身体を守るために、さまざまな「悪しきもの」を滅する力が、不動に期待されたのでしょう。後七日御修法の内容としては、息災と増益の護摩、五大尊供(五大明王に対する修法です)、十二天供、聖天供、神供があり、内陣の中では御衣加持、牛王(ごおう)加持、御薬加持、香水加持などを阿闍梨が行うそうです。ただし、これらを含め後七日御修法の具体的な方法は、わたしもよくわかりませんが、今日の授業で紹介する論文では、舎利に対する加持が儀礼の中心といわれています。不動に対する儀礼や五大尊供が、全体のどの程度を占めているのかは不明です
御衣加持で水を用いることが、たしかにインドの閼伽などと通じるものがあって興味深かったです。この講義を受ける前は、宗教と水とにこれほど大きな関わりがあるとは知らなかったので、未だに驚いています。
御衣加持がそのまま閼伽を受け継ぐものではないと思いますし、むしろ灌頂との方が、王権儀礼としては結びつきがある可能性が高いと思いますが、水が儀式の主役のひとつであることはたしかでしょう。インド以来の水の儀礼の伝統が、日本密教でも認められることが、私も興味深く思います。一方、密教儀礼の代表である護摩は「火の儀礼」と呼ぶことができ、これもひとつの大きな流れとなっています。ずいぶん前のことですが、密教の儀礼を地水火風の4元素に分類して、それぞれ「地の儀礼」とか「火の儀礼」とかとまとめたのですが、「風の儀礼」は該当するものがなく、断念したことがあります。
天皇の代わりに衣というのは、その衣を着ていないときには効果はないのだろうかなどと思ってしまいます。本人の代わりというと、髪の毛が一番に思い浮かびますが、取り外しが可能なもので、一番身近なものが衣だったというところでしょうか。
おそらくそうでしょう。玉体護持のための加持は、天皇の身体そのものに対して行うのがもっともいいでしょうし、そのように行われたこともあったようですが、御衣加持という方式が一般化したようです。話は少しずれますが、先日、イスラム教徒の聖遺物というテーマの研究発表を聞く機会がありました。そのときの話では、イスラムの聖者が亡くなった後、埋葬した遺体をふたたび取り出して分割するようなことは考えられず、遺骨をまつるこということができません。仏教のように舎利(釈迦の遺骨)を聖遺物とすることができないわけです。そのため、圧倒的に多いのは、聖者が身につけていた衣服や、日常生活で用いた食器、帽子などだそうです。髪の毛や歯は、遺骨ではないので聖遺物になるようです。衣が代替品というのは共通ですね。
後七日御修法の部屋の間取りで、部屋の奥に五大尊を設置するのに、実際の儀礼では左右のマンダラの方を向いてすることに違和感を感じた。そうしないと上座、下座とか、部屋の方向がごっちゃになっておかしいと思ったのですが、これはマンダラが対になっていることがポイントなんですね。
そうですね。密教の修法のための空間は、独特の構造を持っていました。基本にあるのが金剛界と胎蔵界の両部の曼荼羅で、これを左右に向かい合うようにかけます。この形式は空海が唐から帰国して、京都に入ったときに住んだ寺である神護寺ですでに見られます。おそらく、唐で空海が学んだ青龍寺でも、見られた形式でしょう。後七日御修法のための道場も、これを受け継ぎ、さらに五大尊や十二天の条幅をかけています。儀礼の空間にさまざまな「軸」があるのだと思います。私たちがイメージするお寺は、中心の奥、すなわち上座に本尊が安置されて、それにむかって、下座の方から礼拝する構造を持っていますが、修法の空間はこれとはまったく別なのです。ただし、後世になると、修法の空間に、このような礼拝のための空間(仏堂と呼びます)が取り込まれて、複合的な構造になります。後七日御修法に見られる空間構造については、以前、小文を書いたことがありますので、関心のある方は参照して下さい。
森 雅秀 2003 「空海の芸術観:芸術と儀礼」『密教の聖者 空海』(日本の名僧4)吉川弘文館、pp. 184-200。
「鎮護国家」=儀礼によって天皇の身体を守るとは、私がこれまで抱いていた鎮護国家のイメージを覆す説明だった。仏舎利が王権の象徴というのはどういうことか、よくわからなかったです。なぜですか。
仏舎利と王権、そして密教儀礼の関係については、今回の授業で取り上げることにしました。これまでに見てきたインド以来の儀礼の知識も、そこで役に立つと思います。
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