仏教儀礼の比較研究

2005年12月19日の授業への質問・回答


山越阿弥陀図を見て、宮崎アニメの『もののけ姫』のシシガミサマが、夜間、ダイダラボッチとして、山間を歩き回るシーンを思い出しました。構図がちょっと似ていると思いました。関係はないとおもいますが・・・。

私はほとんどアニメや日本映画は見ないのですが、『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』だけは、子どもとつきあって見たことがあります。そのときの印象ですが、宮崎駿は日本の伝統的な宗教美術から、相当影響を受けているのではないかと思いました。浄土教絵画は日本の美術の中でも重要なものが多いので、当然見ていると思います。宮崎アニメは宗教学から見ても、いろいろおもしろい点があって、別の授業でも紹介しましたが、私の知り合いの正木晃という宗教学者は、ジブリのアニメを使って、宗教学入門の本を書いています。しかし、どちらの映画も良くできているのですが、「気持ち悪い」シーンが多いですね。内容的にも難解で、小学生や、場合によっては幼稚園児も見ているのですが、ほとんど理解できないのではないかと思いました。

上品上生〜下品下生までの散善義が、中国起源説という説を唱えたのが誰で、どの論文なのか詳しく知りたい。『観経』が訳された時代は、中国史で貴族制の問題のある時期で、その中で1〜9の等級に分けたのか上中下で分けたのかがひとつの議論になっているので。夢の意味の話がおもしろい。法然が夢で善導に教えを受けたといって師子のつながりを正当化したのもうなづける。

『観経』については、昨年「浄土教の美術」をテーマに講義を行い、そのときに紹介した文献リストがあるので、コメント付きで以下にあげておきます。
入澤 崇 1999 「観無量壽経の背後にあるもの」『浄土教の総合的研究』(仏教大学総合研究所紀要 別冊)、pp. 111-133。
香川孝雄 1993 『浄土教の成立史的研究』山喜房仏書林。
*専門的であるが、この分野の研究状況を知るのに便利。
香川孝雄編 1999 『浄土教の総合的研究』(仏教大学総合研究所紀要 別冊)仏教大学。
香川孝雄 1999 「『観無量壽経』の成立問題史考」『浄土教の総合的研究』(仏教大学総合研究所紀要 別冊)、pp. 13-38。
*何が問題なのかが簡潔にまとめられている。
末木文美士・梶山雄一 1992 『浄土仏教の思想 第2巻 観無量寿経 般舟三昧経』講談社。
*観経についての末木氏の文献リストは充実。
中村 元・早島鏡正・紀野一義 1963 『浄土三部経』(岩波文庫)岩波書店。
*入手しやすい。解説や訳語にこだわりというか、クセがある。
藤田宏達 1970 『原始浄土思想の研究』岩波書店。
藤田宏達・桜部建 1994 『浄土仏教の思想 第1巻 無量寿経 阿弥陀経』講談社。
*大経は抄訳であるが、わかりやすい。
山口益他訳 1976 『大乗仏典 6 浄土三部経』中央公論社。
*訳文は読みやすい。解説も簡潔にまとまっている。
これらのうち『浄土教の総合的研究』(仏教大学総合研究所紀要 別冊)が最新の情報を含み、参考になると思います。本学の中央図書館にあります。
夢については、私も「宗教と夢」というようなテーマに関心があるのですが、日本の中世に関しては、最近、以下の文献が刊行されて、まとまった情報が入手できるようになりました。
河東 仁 2002 『日本の夢信仰』玉川大学出版部。
酒井紀美 2001 『夢語り・夢解きの中世』朝日新聞社。
浄土教の場合、密教の灌頂のような儀礼を持たないために、師と弟子のつながりが認知される制度が整っていないような気がします。夢が利用されるのは、そのような欠を補うためでもあるのではないかと思います。さらにそれを正当化するのが、『法然上人絵伝』のような造形作品でしょう。

練り供養は具体的にどんなものなのでしょうか。目的やどのような流れをもって行われているのか気になりました。

実際に当麻寺などに出かけて、練り供養を見るのが一番だと思いますが、私はまだ行ったことがないので、くわしく紹介することができません。「練り供養」とか「お練り」と呼ばれるほどですから、娑婆堂から曼荼羅堂までに作られた橋の上を、中将姫を先頭にして二十五菩薩が練り歩くのが中心でしょう。二十五菩薩の後からは、お稚児さんの行列も続くようです。当麻寺のHPによると、当麻寺は浄土宗と真言宗の「二宗兼宗」というかわった形態を持つようで、その練り供養の前後に行われる法要は、これらの宗派の方法に従うのでしょう。儀礼の内容からは浄土宗が中心になるのかもしれません。なお、当麻寺の練り供養は毎年5月14日に行われるそうなので、機会があれば行ってみてください。

自力と他力の話がおもしろかったです。哲学専攻で、アリストテレスを中心に学んでいるので、「観想」というと直感により真理(神的なもの)を知ることを浮かべてしまいます。アリストテレスは幸福である人生にそれが不可欠と考えているようですが、幸福を古代ギリシアではエウダイモニアといい、そのもとの意味は「神の加護を得ている状態」らしいので、仏教的な意味での「観想」とどこか似ている気もしました。そして、アリストテレスの幸福主義は、万人のためのものでもありながら、究極のところでは密教的であるように思いました。

西洋哲学についての知識があまりないので、是非をコメントすることはできませんが、古代において哲学と宗教は不可分だったのでしょう。「密教的」というよりも「神秘主義的」と言った方がいいのかもしれません。

山を越えるということは、別世界(浄土?)につながるという意識があったのでしょうか。

日本では山は単なる自然の景観ではなく、異教や異界であり、山の端(やまのは)は、この世とあの世の境でした。

・何の努力もせずに信に徹することが、逆に自力であるという話は、一見逆説的だが、本当に信に徹することの難しさを考えると、たしかにそれは自力だと納得できた。
・絶対自力という話がとてもおもしろかったです。「たしかに」という感じもしました。山越阿弥陀図というのは、どこで主に作られたのですか。日本海側とか太平洋側とか、何か関係はあるのでしょうか。

「絶対自力」という言葉はありませんが、他力を突き詰めて「絶対他力」に至ると、それは正反対であるはずの自力になってしまうというのが、ポイントです。人間の行為や思想では、しばしばこのようなことが起こります。エリアーデはそれを「反対物の一致」と呼んでいました。若い頃はエリアーデの著作を読んでも、このような考え方はあまりピンとこなかったのですが、最近は実感することが多くなりました。世の中はそういうものなのでしょう。山越阿弥陀が残っているのは、京都や奈良のお寺が多いようです。来迎図に比べると、あまり地域的な広がりがありません。背景に描かれている山や月は、実際の景観ではなく、大和絵などの伝統を受け継ぐものでしょう。

仏教美術がすてきでした。とくに来迎の絵が印象的でした。「見る」ということに重きを置くのが、何となくふしぎに感じた。

浄土教美術は、日本の仏教美術の重要なジャンルのひとつで、私も関心を持っています。極楽浄土図、来迎図、阿弥陀三尊、当麻曼荼羅など、さまざまな形式があることも、この分野の魅力となっています。宗教美術のさまざまなあり方が、そこには含まれているからです。「見ること」が「救い」であることは、平安時代の浄土教のひとつの特徴ですが、それをさかのぼると、密教美術にもつながります。仏を視覚化することが密教においても重要な意味を持つことは、成就法のところでも取り上げたとおりです。また、中国の禅観経典が浄土教の成立と密接な関係があることにも、以前ふれました。その源流にはインドの仏教があります。一方、日本では鎌倉新仏教の親鸞以降になると、浄土教美術から視覚的なイメージが払拭されてしまいます。親鸞の教えは宗教としてはとても魅力的なのですが、仏教芸術においてはあまり生産的ではなかったようです。


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