仏教儀礼の比較研究

2005年12月12日の授業への質問・回答


・縵網相にできるだけ多くの人を救うことができるようにという意味が込められていることから推測して、他の三十二相八十種好にも何らかの意味があるのだろう。驚くべき想像力だと思った。

・三十二相の話はなかなか興味が持てました。僕は仏像の手の指が水かきみたくつながっているのは、鋳造する上で、指を離すのが技術的に無理だからだと勘違いしていました。

三十二相は仏像を見る上での基本なので、授業でもよく取り上げますが、たいてい、人間離れした特徴に皆さん驚きます。三十二相それぞれに、縵網相のような仏教的な意味が与えられているのはたしかですが、注意すべきは、そのような意味を示すために身体的な特徴を持たせたわけではないことです。むしろ、順序としてはその逆で、すでにあった身体的な特徴に仏教的な意味を加えた方が多いでしょう。たとえば、頂髻相とよばれる頭の上の盛り上がりは、もともとはガンダーラのあたりの仏像が、頭の上にターバンを巻いていたものや、あるいはマトゥラー仏によく見られる巻き貝型の髪型に由来するといわれています。縵網相の水かきも、たしかに鋳造したときののつなぎ目が残り、水かきと解釈されたのかもしれません。ただし、鋳造の仏像が現れるのは、石造よりも遅れるので、製法技術上の理由よりも、指先は折れることが多いので、補強のためだったかもしれません。造形作品に見られる、形式が意味よりも先にあるという特徴は、授業の主題である儀礼にも当てはまることです。

今日の「読み物」だった『略ヘールカ成就法』で、最後の方で「真言を唱えて死体置き場に入れ」と言った物騒なくだりが書かれてありましたが、あれはどういう意味なのですか。

「死体置き場」というのは訳語が不適切で、墓場のことです。ある種の密教の修行は墓場で行われることがありました。ヘールカのイメージそのものにも死体や生首、人間の腸、死体を焼いた灰などが見られるように、全体に「死」や「死体」のイメージが濃厚です。これはインドの神シヴァの影響を受けたものでもあります。インド密教では墓場を舞台にさまざまな実践が行われたことが知られていて、これについては『インド後期密教(下)』(春秋社より近刊)という本で、私も詳しく紹介しています(少し詳しく紹介しすぎて、編集の人からは「かなり過激」と言われています)。刊行されたら授業でもお知らせします。なお、墓場が修行の場であることは、密教に限らず、初期仏教でも一般的で、死体が腐乱していく様子から無常を理解する「不浄観」などが行われてきました。

ガンダーラで仏のすがたを観想する行為が行われていたという話を聞いて、それではやはり仏像誕生の地はガンダーラでは・・・と短絡的に考えてしまいました。ガンダーラ説を押すひとつの要素としてもあげられている事柄なのでしょうか(観仏が盛んだったこと)。

観仏経典とガンダーラとの結びつきは、古くは小野玄妙などによって指摘されていて、三十二相の成立が仏像の誕生と関連づけられています。しかし、仏像が誕生に至る経緯には様々な要因があり、三十二相の成立はそのひとつにしかすぎません。また、『観仏三昧海経』の内容などは、三十二相から仏像ができたと見るよりも、すでに仏像が存在していて、それを前にした瞑想法が経典に記述されたと考えた方が妥当なようです。観仏や禅観を説く経典は、ガンダーラを中心とした地域を出身地とする訳経僧の手になるものが多く、経典の成立もガンダーラから中央アジアに求められます。浄土三部経のひとつとして名高い『観無量寿経』の成立も同様です。

・特定の文字から仏のイメージを生み出すという過程が興味深い。直接、仏をイメージしないのはなぜなのかが気になった。

・観仏、念仏、見仏の意味に違いがあるんですか。文字から仏が出てくるのはおもしろいと思いました。

文字から仏のイメージを生み出すのは、密教の瞑想に特有ですが、ヒンドゥー教にもあるようです。日本では「阿字観」(あじかん)といって、大日如来を表す「ア(A)」の文字(梵字です)を瞑想します。いずれの場合も、文字の形とともに音も重要で、行者は決まった方法で発声します。これらの文字は「種子」とよばれ、そこから仏が成長して現れるようなイメージですが、三昧耶薩?の「三昧耶」というのもこれに似ていて、仏それぞれを象徴するシンボルを指します。いずれの場合も、複雑な仏のイメージが、わかりやすい形や記号に還元されているわけです。マンダラにも仏のすがたを描かずに、このような文字やシンボルだけで表現したものがありますが、その場合も、わかりやすさが優先されていると考えられます。仏のような「聖なるもののイメージ」を、記号のような形で表現する伝統は、インドの初期の仏教美術において、釈迦を象徴的なもので表したことにも通じます。観仏、念仏、見仏は、前回お話ししたような類似の観法を表す言葉ですが、経典や時代で少しずつ内容が異なるでしょう。最も一般的なのは観仏で、禅観という言葉もあります。念仏は中国や日本の浄土教で、独自の意味を持つようになります。

・今まで瞑想というのは何も考えないことだと思いこんでいたので、仏を思い描いて生み出す成就法は意外でした。「悟りを開く」こととは違うのでしょうか。

・瞑想は何も考えず心を無にすることかと思っていたので、このような意味があるとは知りませんでした。座禅とはまた違ったものなのですか。

瞑想をこのようにとらえている方も多いと思います。もちろん間違いではありませんが、おそらく、これは日本の禅の「無念無想」の伝統からくるものでしょう。インドの瞑想やヨーガはもっと積極的にイメージを活用します。日本の禅宗は中国に起源があり、すでに中国仏教において、このような瞑想のふたつのあり方があったようです。「無」という言葉も中国や日本では好まれますが、インドでは「空」と「無」は区別され、「空」の方が圧倒的に重要です。密教の成就法はそれ自体が重要な実践法でしたが、授業でもふれたように、儀礼の前提として行うこともあり、「儀礼のユニット」として扱われます。「悟りを開く」ための手続きのひとつですが、悟りを開くことそのものではないようです。仏とコミュニケーションするための有効は手段だったのでしょう。

「変化の儀礼」がキャッチボールのように、さまざまな儀礼等の間をわたっていたというのがおもしろいと思いました。

儀礼が時代とともに変化するのは広く見られますが、インドの場合、仏教とヒンドゥー教という異なる宗教の間で共通する儀礼があることから、その変化の過程が、広い範囲で確認できるという利点があります。そこでは、儀礼が直線的に変化(あるいは進化)しているのではなく、もっと錯綜していることに気がつきます。同じ儀礼でも少しだけ独自の要素を加えることで、自分たちの独特の儀礼に変えることができたようです。プラティシュターとアビシェーカはそのような例として格好な儀礼として取り上げました。

「三昧耶」とはどういう意味でしょうか。「三」という数字も気になります。

「三昧耶」はsamayaというサンスクリットを漢字にうつした言葉で、「三つ」という意味はありません。samayaにはいろいろな意味がありますが、「誓い」「仮の」というのが「三昧耶サッタ」の「三昧耶」には当てはまります。あらかじめ行者の側に作っておいた仏のイメージであるため、「仮の存在」であり「行者の誓いを表す存在」なのです。なお、三昧耶と三昧は同じ文字が含まれているので、関係があるように見えますが、三昧はsamaaadhiでまた別の言葉です。密教では区別しやすいように、samaaadhiは「三昧」とは訳さずに「三摩地」と訳します。


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