仏教儀礼の比較研究
2005年11月21日の授業への質問・回答
地鎮祭とプルブの結界はたしかによく似ているけれど、それは地鎮祭のルーツがインドやチベットと直結しているととらえて良いのでしょうか。
直結とまでは言えませんが、ルーツはインドにあるのは多分たしかでしょう。日本における地鎮祭の歴史や発展を、私は調べたことがありませんが、本来、地鎮祭は密教儀礼であったということを、学生のころに宮坂宥勝先生からお聞きしたことがあります。また、高野山では地鎮祭を神主さんではなく、真言宗のお坊さんが行なっていたことを見たことがあります。キーラのような道具を使う儀礼は、おそらく世界のあちこちで見られると思いますが、インドではそれが古代から文献に残されていることで、インド内部ではその流れを確認することができます。密教儀礼としてのキーラの儀礼が、日本では本来の建築儀礼として再び用いられるようになったと考えています。
『妙吉最勝根本大経王経』の呪殺は、十悪五逆、謗三宝のやからにのみ使い、恣意に殺すと呪術を行なった人間に悪報があると書いてあるが、この文はそれにもかかわらず好きに使われていたのでしょうか。
文献に記述があるということは、実際にそのような呪殺が行われていたからでしょう。密教の修法としての呪殺は、チベット密教でもよく知られていて、ミラレパやドルジェタクなどが、実際に人々を「慈悲の心」から殺した伝えられています。宗教が「正当な理由」のもとでこのようなことを行うのはむしろ一般的で、ヨーロッパでも十字軍や魔女狩りにおいて、何百万人の人たちが殺されています。ナチスによるユダヤ人虐殺も、宗教的な要素が全くないとは言い切れません。仏教の修法としての呪殺などはかわいいものでしょう。オウム真理教だけが特別ではないのです。
仏教ではすべてにおいて宇宙に見立てられていることがよくわかった。実は私は仏教とヒンドゥー教の関係がいまいちよくわかっていないのですが、どういう関係なのでしょうか。
インドの儀礼では宇宙や世界をキーワードにすると理解できるものがたくさんあります。インドの宗教の多くが、祭式を最も重要な実践と位置づけるヴェーダの宗教の伝統を、多少なりとも受け継ぐからでしょう。以前に紹介したように、ヴェーダの祭式はその背景に壮大なコスモロジーや一元論を持っています。そのため、儀礼を理解するためにはこのような視点が必要なのです。仏教とヒンドゥー教との関係は、簡単に説明するのは難しいです。仏教は紀元前5世紀頃に釈迦によって開かれた宗教で、その後、13世紀頃までインドで続きます。縁起、中道、四諦八正道などを教義の基礎とし、さらに大乗仏教には空や唯識、如来蔵などの思想が登場します。ヒンドゥー教は紀元前後ころから現れましたが、宗教というよりも、生活全般を規定するような慣習と見た方が適切でしょう。その中に神々の体系や神話、あるいは救済や解脱の方法が含まれています。儀礼に関していえば、仏教はインドの宗教では珍しく、本来は儀礼をあまり重視しませんでした。しかし、密教の時代、あるいはその前の大乗仏教の時代から、ヒンドゥー教と同じように、さまざまな儀礼を行うようになります。その多くはヒンドゥー教の儀礼に共通するため、仏教のヒンドゥー教化とも見えますが、むしろ、儀礼を求める人々にとっては、仏教とヒンドゥー教との違いはあまり重要ではなかったからでしょう。
マンダラ制作の砂での細かい作業が印象的だった。あんなに手間をかけて緻密に作り込まれたものを、儀礼の終わりに壊してしまうと聞いて、最初驚いたが、マンダラはけっして芸術作品ではなく、あくまでも儀礼の装置なのだということを、あの行為によって思い知った。写真のみでなく、現存しているマンダラというものはないのでしょうか。
日本でチベット関係の展覧会が開催されると、砂マンダラもよく制作されるので、気をつけていればけっこう日本で砂マンダラを見ることができます。そのような砂マンダラが、日本の主催者側の意向で、展覧会などの会期が終わっても壊されずに、保存されることがあります。そのままでは扱いが不便なので、上から特殊な透明の樹脂などをかぶせて固定するようですが、たいてい、しばらくすると表面にほこりなどが積もって、みすぼらしくなります。やはり諸行無常なのですね。マンダラを作ることだけが目的であれば、壊すしてしまうのはもったいないのですが、今回紹介する灌頂のような儀礼が本来の目的であれば、必要がなくなったものはあっさりとなくなってしまった方がさっぱりするのかもしれません。
・ヴァーストゥナーガや日本の地鎮祭、風水など、建築の儀礼は共通して存在するんですね。それにしても、ヴァーストゥナーガが間違って伝わっているのは、少しおかしいですね。
・ヴァーストゥナーガの話は初めて知りました。動くナーガの位置で場所を決めるなんて、とても驚きです。しかもマンダラを作るための作業として、そこまでやるということは、いかにマンダラが神聖で重要なものであるかがわかります。ヴァーストゥナーガに限らず、マンダラを作るための儀礼が、こんなに大がかりとは知りませんでした。
ヴァーストゥナーガはずいぶん前から興味を持っていた儀礼で、『マンダラの密教儀礼』の中でも簡単にあつかったのですが、3年ほど前に集中的に論文を何本か書いて、どのような儀礼であるかを、一応明らかにしました。それまで、この儀礼を本格的にあつかった研究者はほとんどいませんでした(今でもほとんどいませんが)。授業でも紹介したように、建築空間が宇宙論的な意味を持つことや、マンダラ制作儀礼が、建築儀礼に基づきつつも、独自の意味を与えようとしていたことがよくわかる点などが、この儀礼からは読み取れます。風水は中国の思想なので、インドまではさかのぼれませんが、青龍のようにナーガに相当する龍が登場するのは興味深いですね。風水はとくに都市の構造を決定することで、長安や平安京の造営などと結びつけられますが、都市も家と同様にひとつのコスモスを形成しています。
キーラをなぜ二本打つ部分があるのか不思議でしたが、空間を表すためと聞いて納得しました。それは東と西が重要な方角だからではないと解説がありましたが、南や北の方角に打たれることはあるのでしょうか。
北と南に打たれることはないようです。東と西に2本打つことも、初期の密教では見られません。というのは、初期の密教ではキーラは特定の尊格と結ぶつくこともなく、垂直方向の結界も考えられていなかったためのようです。その場合、四隅や四方がほとんどで、多くても八方まででした。マンダラの構造や十忿怒尊の瞑想が、キーラによる結界と結びついた結果、東西にわざわざ上下のキーラを打つようになったのです。東を上、西を下に配当するのは、マンダラの上下の仏を描くときの方法にならったためで、キーラの打ち方としてもともとあったわけではありません。ここからも、キーラの儀礼がマンダラと結びつくことによって変容したことがわかります。
ヘビは仏教では重要な生き物であることがわかったが、どうして大事なのであろうか。
ヘビがなぜさまざまな文化で重視されるかは、私の教養の授業でよく取り上げるので、すでにご存じの方もいると思います。そこでは「両義的」というとらえ方をしています。つまり、特定の領域に収まらずに、複数の領域にまたがるような存在を、人間は不気味に思いますし、そこに特別な力(しばしば宗教的な力)を感じます。「聖なるもの」として扱われるといってもいいでしょう。たとえば、ヘビは地上の動物なのに足がなくて、ウロコのようなものがあります(ウロコがあるのは一般に魚です)。動物と魚のいずれにも収まらないところが両義的です。ヘビが気持ち悪いと思う人がたくさんいると思いますが、それはこの両義的なところに不安を覚えるのでしょう。聖なるものは崇高なものや美しいものという思いこみがあるかもしれませんが、気持ち悪いものやグロテスクなものもしばしば聖なるものになります。
金剛杵は頭を打ち砕くほど強力な武器なのでしょうか。
仏具としての日本の金剛杵はそれほど大きくはないので、頭をたたかれても痛いでしょうが、粉々にはならないでしょう。でも、金剛杵はもともと雷なのですから、やはり強力でしょう。それで命を落とす人もいるし、巨大な樹木なども打ち砕かれます。「頭が打ち砕かれて粉々になる」という表現は、仏教の文献にときどき出てきます。授業で紹介した儀軌でもそうですが、仏教なのにずいぶん激しい表現です。もともとは神話のような文学作品で用いられた表現ではないかと思います。
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