仏教儀礼の比較研究

2005年11月14日の授業への質問・回答


杓に何か模様が彫られていましたが、何の模様なのですか。福井県にも初詣に行く場所として、有名な成田山があるのですが、それと今日出てきた護摩をする寺とは無関係ですよね。

ひょうたん型をした大杓の方は金剛杵、丸い小杓の方は法輪の模様です。密教的なデザインで、インドのヴェーダ祭式の杓には、このような模様はありません。成田山新勝寺は真言宗智山派の重要な寺院で、おそらく規模では派内で一番でしょう。成田山は各地に「支店」のような別院を持っています。名古屋や大阪にあるのは聞いていましたが、福井の三国町のものもその一つのようですね。HPもあります(http://www.naritasan-hokuriku.or.jp/)。それによると、お正月に「新春大護摩供」があるようです。初詣のついでに見てきてください。

後醍醐天皇が鎌倉幕府を調服させたときに、護摩の見取り図がもれて、幕府に気づかれたという話が納得できた。

そういう話があるのですか。おもしろいですね。日本には儀礼の見取り図のようなものがかなり残されていて、古いものでは平安時代のものもあります。儀礼をするときに参照したり、次代のために記録として残したりしたようです。インドにはこのようなものが全くないので、文献を読むときも想像しながら読まなければなりません。同じような儀礼をしていても、日本とインドでは儀礼に対する構えのようなものが違うのでしょう。

四種法の内容が紹介されましたが、仏教といえば「不殺生」や「不邪淫」というイメージがあったので、怨みの相手を退散あるいは死滅させる目的の「降伏」という方があることや、「敬愛」という修法の中で、火を娼婦の家からもらってくるという事実が意外でした。後者に関して、なぜあえて娼婦を選んだのか不思議でした。

火元として娼婦の家の火というのは、ヴェーダの祭式にも現れるそうで、インドではかなり古い伝統のようです。異性を自分の意のままにするという敬愛の目的と、娼婦という職業?は、簡単に結びつくような気がしますが、ひょっとすると、もともと護摩の火の火元としてあった娼婦の家の火が、敬愛に限定されていったのかもしれません。前々回、紹介した神話のように、火の誕生神話には性的なイメージが見られます。火を燃やすこと(あるいは火をおこすこと)と生命が誕生することがパラレルなのでしょう。古代インドでは火は生き物なのです。護摩の儀礼が四種法として整備されるのはヒンドゥー教や密教の時代で、ヴェーダよりもずっと遅れます。

四種法は人間の主な願望だとおっしゃいましたが、四つしかないうちのひとつに「降伏」のようなものがあるということに、驚きはしなかったにしても、ショッキングではありました。人間を救済することにストレートであることは、残酷な面もあるのですね。それにしても仏教用語の読み方は、いつも一応気にしていましたが、意外とアバウトなのには気が抜けました。

仏教用語は基本的に「呉音」で読むので、なれないとなかなか正しく読めません。これまでも、国語の漢字のテストなどで苦労したことがあるのではないでしょうか。「アバウト」というのは少し違って、ほとんどの用語は決まった読み方がありますが、中には特定の宗派やさらには派内の分派で異なる読みがあるのです。授業で取り上げる仏教儀礼は密教系のものが多いのですが、たとえば高野山真言宗(真言宗のなかの一派)のみの読み方があり、学会発表のような場で間違った読み方をすると、指摘されたり怒られたりします(怒られるのは派内の人間が間違えて、自分の先生や上司からという場合です)。

降伏の時にはほかの三つとは逆になるというような、同じような儀式を行っても、求めるものがよい結果か悪い結果かで、逆になるものが現れるということはおもしろいと思います。てるてる坊主も逆につるすと雨を願うことになると聞いたことがあります。毒にも薬にもなるような二面性を持っているんですね。

降伏の時は逆になるという規定は、わたしもおもしろいと思って論文に書いたことがあります。一見すると、四種法は四つが対等で、変数のようなところを四種法に応じて変えればできあがるような感じがしたのですが、降伏とそれ以外の三種法という二分法がいくつか見られ、しかもそれが表と裏のような関係があることに注目しました。このような「二項対立」が儀礼に持ち込まれるのはかなり一般的です。護摩は四種法という四分法と、この二項対立が組み合わされた体系を持っているようです。なお、インドでは『アタルヴァ・ヴェーダ』に、このような白魔術と黒魔術が現れ、それぞれを扱う集団がアタルヴァンとアンギラスとよばれます。護摩の場合、このような伝統的な二分法の上に四種法をかぶせたようにもとらえられるでしょう。

・護摩の儀礼ですが、神を一度に二人呼ぶ必要があるのでしょうか。一人ずつ呼べばユニットを組み合わせなくてもよいのでは。

・護摩の構成のところで、火天を招き寄せたあとで不動明王を招くとありますが、火天であるアグニと不動明王には何か共通するものがあるのでしょうか?不動明王の像ではだいたい火がともにあるので、関係があるのでしょうか。

仏教の護摩の場合、火天は仏教の仏ではないので、本尊として何かの仏を呼んでこなければなりません。火天は護摩の儀礼には必須で、これを省略することはできないので、火天と本尊とに対する二段構えになります。日本の護摩儀礼では、さらに別の神や仏に対するユニットを加えて、三段構え、四段構えという構造をとることもあります。いずれの場合も、火天の儀礼を最後まで行わないで、途中から本尊やその他の神仏への護摩を入れますが、これは護摩の火が燃えている限り、火天を儀礼の場にとどめておかなければならないからでしょう(中心の場は本尊などに譲りますが)。また、儀礼をユニットで組み合わせる場合、ひとつのユニットを別のユニットで挟み込むというのは、ヴェーダの祭式以来、インドの儀礼の構成でしばしば見られるそうで、そのような伝統も関係するかもしれません。日本の護摩で本尊として招かれる仏は、圧倒的に不動が多く、これは空海以来の伝統です。光背が火炎であることも護摩のイメージと結びつきますが、大日如来という密教の最高神と、不動が密接な関係があることも重要でしょう(不動は大日の化身とされることもあります)。これに対し、インドやチベットでは不動が護摩の本尊となることはほとんどなく、さまざまな仏が現れます。

マンダラはインドの家庭のどこにでもあるものなのですか。護摩の火が場所によって効果が違うのは、プロパンガスなどでどこでも火に差がないような日本では考えられない。インド独自の文化的な考えだと思った。

マンダラは仏教の儀礼で用いられるものなので、現在のインドにはありません。今回詳しく見るように、灌頂などの儀礼のために、僧院内に作られ、儀礼が終わると壊されました。マンダラによく似たものにヤントラがあり、これも神を規則的に配置したものですが、これはヒンドゥー教の家庭では、お祭りなどの時に家の前に描きます。そこに神々を招くためで、機能としてはマンダラとよく似ています。護摩の火をいろいろなところからとってくるのは、インド独自ですが、家庭の竈に神がいるという信仰は日本でも広く見られ、「竈神」と総称されることもあります。都市部をのぞいて、家の中に竈や囲炉裏があることは、日本ではついこのあいだまで、当たり前のことでした。

護摩に降伏があったのに驚きました。呪いっぽくてこわそうでした。今でも護摩木にそういうことを書いても燃やしてもらえるんでしょうか。

基本的に降伏護摩は呪いです。そもそも、呪術一般と儀礼との境界もあいまいです。護摩木に「怨敵退散」などと書いても、おそらく気にしないで燃やしてもらえると思います。大きいお寺の場合、一本一本の護摩木にまで目を通すこともないでしょう。ただし、受付で断られる可能性もあるので、一度、どこかで試してみてください。もっとも、一般に日本の護摩は息災護摩なので、授業でも説明したように、降伏や調伏とは火炉の形をはじめ、あらゆる点で異なります。実際の儀礼の効果がないわけですから、護摩木が無駄になりますね。本当に降伏護摩をやってほしい場合は、特別に真言のお坊さんなどに頼むしかないでしょう。

護摩壇の配置図を見ると、塗香ばかり三つもあるんですが、これはそれぞれ違うんでしょうか。それとも数あわせのようなものでしょうか。

これは私もわかりません。機会があれば、実際に護摩を焚く人に聞いてみます。可能性として、儀礼の場面に応じて、別の塗香器を使う。塗香の種類に何種類かある。ひとつしか使わないが、形式的に3つそろえておく。などが考えられます。


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