仏教儀礼の比較研究

2005年11月7日の授業への質問・回答


金枝篇であったように、火を生み出すものとしての樹木信仰の起源として論文が読めるのが興味深かった。昔は火は木に内在するものとしてとらえられていたことの表れなのではないだろうか。

フレイザーの『金枝篇』は宗教学の古典として、多くの情報をもたらしてくれます。私はあまりきちんと読んでいないのですが、火が木に内在するという信仰も含まれているのですね。インドの場合、火はあらゆるところに存在することになっています。実際の燃える火として、竈やたき火などはもちろん、人間の体内にも存在します。一種のエネルギーなのでしょう。興味深いのは、水の中にも存在すると考えられていました。『マンダラの密教儀礼』でも書いたことなのですが、インド・ヨーロッパ系の言葉では、火に「生命のある火」と「生命のない火」という2種があり、火の神であるアグニは前者に該当します。これと同様に、水にも生命の有無によって二つの語彙があるという特徴があります。日本語にはそんなことはありません。火や水のとらえ方が、われわれと全く異なるということなのでしょう。

鷲が飛んでいくイメージがいいなぁと思いました。鳥の図に数がふってあるのは、どんな意味の数字ですか。

たしか、煉瓦を積んでいく順番だと思います。

・16が聖なる数と、ちらりとおっしゃっていましたが、ほかにもいろいろと聖なる数はありますよね。宗教によって違うというとこもあるとは思いますが、どんな数でも聖なる数のような気がしてしまいます。
・3という数がヴェーダ上で特別とのことですが、西洋でもたしか同じだったと思います。そういう類似について考えたら、おもしろそうだと思いました。

アグニチャヤナの場合、祭火の数でもある3が特別なシンボリズムを持ち、儀礼の重要な枠組みになります。でも、はじめの方のコメントのように、どんな数もたいてい「聖なる数」になるようです。仏教でも二諦説、三身論、四聖諦、五蘊、六識、七覚支、八正道といったように、どんな数でも何かの教義と結びついたものがあります。私の印象ですが、日本や中国では偶数が聖なる数として好まれ、インドではどちらかというと、奇数が多いようです。また、16のように2の4乗という均質な部分からなる数が好まれると同時に、素数のように、それ以上分解できない数も「聖なる数」になる傾向があります。これは、「聖なるもの」のイメージが「バランスのとれた完全体」という極と、「いびつな不完全体」というもう一つの極にしばしば結びつけられるからではないかと思っています。

火=子どもという考え方には驚きました。

火をおこすというイメージと生殖行為は、インドの神話ではしばしば結びつけられます。火をおこすことによって生まれた火は、したがって子どもということになります。

鳥の形の祭壇を作って儀式をやるとき、神々に供物を捧げるのは、2の鳥の祭壇になるそうですが、そうなると、元々神々に供物を捧げるのに使われていたアーハヴァニーヤの火はどうなるんでしょうか。そこは使わないことになるんですか。

わたしもこれは気がつきませんでした。どうなるんでしょうね。詳しく調べていないのでわかりませんが、儀式が複雑になった結果、儀式の中でアーハヴァニーヤを使う場合と、鳥の形をした祭壇を使う場合に分かれたのではないかと思います。

シュラウタ祭式の起源神話が、読みやすくおもしろかった。プージャーがユニットごとに形成されているとき、あるユニットを取り除いたり、新たなユニットを追加したりということが、ごく自然にできそうだと思った。

儀礼がユニットでできていることのメリットがそこにあります。儀礼がユニットでできているのは、別にインドに限られたわけではなく、日本の儀礼でも一般的にみられるものです。これはちょうど、文章が文節や単語でできていることに似ていて、文節や単語を入れ替えることで、別の意味の文章ができあがることに対応します。インドでは、儀礼を行う人々が、儀礼がユニットでできていることを明瞭に意識していてことが特徴的でしょう。それは、今回紹介する護摩などでも確認できると思います。

・聖なるものと性なるものという話を聞いて、土偶を思い出しました。土偶は女性をかたどったものですが、名前や目的は忘れましたが男性を表すものも作られていたような記憶があります。
・宇宙を構成する三つの世界をつなぐのは火であり、人体は宇宙であり、火は生命の象徴であるという構図が、抽象的ではあるが、私の中で漠然とつながった。最初はあまりわからなかったが、聖なるもの=性なるものという考えも、何となくではあるが理解できた。

人体は宇宙であるという考え方は、小宇宙としての身体と、大宇宙としての実際の世界が、本質的に同一であるという、神秘主義的な考え方として、インドばかりではなく、ヨーロッパの思想でもよく登場します。日本人の場合、世界の構造について関心が向けられることがほとんどないため、荒唐無稽な考え方のような気がしますが、宇宙全体をひとつの生命体としてとらえることや、その一部を形成している人体が、突き詰めると全体とつながっているという考え方は、エコロジーや環境問題と結びつく現代的な発想だと、私は思います。「聖なるものは性なるもの」という話は、火の起源神話として、ついでに紹介したものですが、普遍的な真理だと思います。日本神話のイザナギとイザナミによる国産みも、生殖行為によって宇宙が創造されたという考え方の、わかりやすい例です。授業でも少しふれましたが、現代社会は性についてのタブーを緩和し、白日の下にさらすことで、かえって性の持つ不思議さや高尚さを損なっているような気がします。近代以前の社会では、性は隠匿されるもの、公の場でふれてはいけないものという扱いを受けることで、その聖性のようなものを維持していたという気がします(それが良いか悪いかは別の問題です)。だいたい、生命の誕生ほど、宇宙の中で神秘的なものはほかにはないでしょう。柳沢桂子さんのように、生命学者はしばしば生命の中に「神」を見いだします。

プージャーの儀礼が16段階にものぼることは驚きました。こんなに単純だけど、そのひとつひとつに深い意味があり、それを毎日と言っていいほど行っている。もはや多宗教ではなく無宗教と言っていい日本では考えにくいことと感じました。また、祭火の三種がそれぞれ大地、中空、天界を表すということなども、よく考えられたものと感じました。

たしかに、インドの宗教を見ると、この現代社会において、よく伝統的な儀礼が守られているなと感心します。でも、日本人については、私は少し違う感覚を持っています。それは、現代の日本人がとくに無宗教ではなく、伝統的な宗教とは違う側面で、宗教的な行為を行っているというものです。たとえば、血液型占いや星占いは、性別や年齢を問わず、ひろく関心を集めていますが、これも宗教的な行為や態度と見ていいのではないでしょうか。また、皆さんはたいてい携帯電話を持っていて、こまめにメールをチェックしていると思いますが、これも一種の儀礼行為と見ることはできないでしょうか。エネルギー保存の法則のように、人間が宗教や儀礼に向ける関心は、つねに一定のような気がします。

足を洗い、口もそそぐなら、手も洗わないのかと思ってしまうのですが、お迎えの水として、手を洗うものは必要ないのでしょうか。

アーチャマナは口そそぎの水ですが、同時に手も洗います。コップの水でそのままうがいをするのではなく、容器の水を右手にいったんすくい、その水を口に含んで口をそそぎます。アルガ(アルギヤ)も手を洗う水として用いられることがあります。

儀礼の場での象徴性はおもしろいですね。中空と天を二つに分けるのが新鮮でしたが、三つの世界の形がそれぞれ円、半月、正方形というのも少し驚きました。けれど、宇宙の構造や地球の形を知らなければ、私たちも何かの形を想像するのですかね。

インドの場合、須弥山を中心とした世界観のように、ある程度整備されたものでも、大地は円、神々の領域は正方形というイメージがあります。特定の宗教にかかわらず、インドでは広くみられるものでしょう。中国はこの反対で、天は円、大地は方形となることが多いようです。風水の思想でもこの二つのイメージが基本です。日本では世界全体を幾何学的なイメージでとらえることはあまり好まれず、世界は山や川、海のような自然の景観としてとらえられるの一般的だったようです。

私にとって宇宙はガリレオの天動説から始まって、今はNASAをはじめとした先進各国の科学技術の粋が広げる現実的な空間のイメージですが、天体望遠鏡すらなかった時代から、インドの人々が宇宙を意識した儀礼を行っていたというのがとても不思議。プージャーは「あえのこと」にそっくりですね。儀式の後に「間違ってたらごめんなさい」というのは、隠れキリシタンの儀式にも共通するところがあります。アグニは高天原の神様にも共通ですね。いろいろな共通点を発見できるとちょっとうれしい気分になります。

宇宙のイメージについては、私の教養の授業でよく取り上げるのですが、おそらくほとんどの日本人にとっても、天体望遠鏡で見た「暗黒の空間のなかの星々」でしょう。でも、これは二つの点で、「本当の宇宙」とは全く異なるものと言うこともできます。ひとつは「無限の広がりを持った宇宙」が有限のイメージで示されていることと、もう一つは宇宙の重要な一員である私(あるいはあなた)がそこには含まれていないことです。この両者をひとつのイメージで表すことは、もちろん不可能です。宇宙とはそもそも本質的に「表現不可能」なものなのです。それをどのように表すかで、人間の文化の違いが現れるのでしょう。あえのことについては、以前、別の授業でも指摘をしてもらったことがありますが、たしかによく似ています。日本の場合、農耕儀礼の一種で、田の神様を家にお迎えして、収穫に感謝するといわれていて、プージャーとは目的や神のとらえ方が違います。あえのことのような儀礼は日本の各地(あるいは世界各地)でも見られるので、一種の普遍的な儀礼とよぶこともできるかもしれません。「いろいろな共通点の発見」というのは、たしかにおもしろいことです。ぜひいろいろ発見して、さらにその理由や共通点のなかの相違点などにも注目してください


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