仏教儀礼の比較研究

2005年10月24日の授業への質問・回答


儀礼も分類してみると幅広くあり、挨拶まで儀礼に含めることができるとは思わなかった。たしかに過去の儀礼を正確に復元することは不可能だし、儀礼の持つ意味を維持したまま、行い続けるのは難しいことなのかもしれない。

はじめに皆さんに儀礼の具体的な例をあげて、分類してもらいました。多い人で20ほど、あとは10前後の方が多かったです。具体的な例としては、結婚式、葬式、七五三、初詣、卒業式、入学式などがほとんどの方に見られました。百万石祭りや祇園祭などのお祭りをあげた方もいました。分類としては、人生儀礼と暦に従った儀礼、あるいは仏教と神道のように、宗教に即した分類が見られました。「現世の儀礼」と「祖先への儀礼」という分類もありました。具体的な例としてあいさつをあげている人はいませんでしたが、お一人だけ「いただきます、ごちそうさま」「乾杯」をあげている人がいました。これはあいさつの一部かもしれません。インドの儀礼は多様ですが、日本にも膨大な儀礼があるはずです。そのいずれにも適用できるような理論や枠組みを考えていきたいと思います。具体的な例を挙げて、自分の考えの妥当性を検証することや、分類を考えることは、物事をとらえる基本なので、ときどきやってみてください。

ひとつの儀礼の中に多くの儀式が複合的に存在しているのはごくふつうのことではないだろうか。インドの場合は、総合して表す言葉がないために、特異に感じるのではないだろうか。

そのとおりで、儀礼や儀式は複合的な形をとることが一般的です。しかし、われわれはそれをあまり意識しないで、見たり行ったりしているのではないでしょうか。インドの場合、儀礼を行う者や儀礼を伝える者によっても、それが強く意識されているという点が注目されます。しかも、儀礼を構成する「部分」が、転用されたり、変形されたりするという柔軟さも持っています。

・儀礼研究において、意味の罠があるという話がありましたが、今回主題になっているインドの儀礼の話を聞くと、私はまず「意味は何だろう」と考えてしまいます。でも、自分自身が行う儀礼を考えてみると、はっきり意味を知らないまま行っているものも多いように思います。儀礼は「行うこと自体」に意味があるのかなと思いました。

・儀礼は文字を通して伝える文化とは違うため、歴史的に残ることがむずかしく、よって研究することがむずかしいことがわかった。文化人類学の授業で習った用語も出てきたことからも、儀礼はフィールドワークの世界との結びつきも強いのだろうと思った。

かつては、儀礼研究といえば、その意味を探ることが中心でした。特に文化人類学では、儀礼の象徴的な意味探しが、もっとも人気のある研究のひとつでしたが、現在ではそのような研究はほとんど絶滅してしまいました。研究者の恣意的な解釈からは、なにも生まれないことに気がついたのでしょう。インドの儀礼の場合、さらに事態は複雑です。授業でこれからお話しするように、インドでは何千年も前の儀礼も、ヴェーダなどの文字資料として残っています。しかし、人類学のようにフィールドを中心とした研究者たちは、このような文献はまず読みません。そのため、人類学者が「この儀礼はこのような象徴的な意味がある」と言ったところで、文献を研究する人たちから「そんなことは文献には書いていない。文献が伝える意味はこうである」と反論されるおそれがあるからです。そのため、文献が伝えるような伝統的な儀礼は、人類学者は研究対象としては避け、テキストを持たないような「村の儀礼」をもっぱら対象としてきました。逆に文献学者もテキストがないような儀礼は研究対象とはしてこなかったので、「インドの儀礼」をともに研究していながら、接点がほとんどなかったのです。ただし、私個人としては人類学の儀礼研究には強い関心があります。私の学生の頃は、構造主義や記号論が流行していて、人文科学の中でも文化人類学は人気の学問分野でした(いまでもそれなりに人気はありますが)。他大学の人類学の院生などと一緒に儀礼の研究会をしたこともあります。残念ながら今ではほとんど交流はありませんが、そのときに勉強したことはそれなりに役に立っています。

「儀礼」という言葉は、人間の行動を示す言葉のグループ名ですよね。たとえば、そこから細分化して、もっと細かい動作の一つ一つをまとめて「儀礼」という言葉で片づけることができると思うのですが、古代からいろんなしきたりや作法を面々と続けているインドの文化において、その行動のグループ名である「儀礼」を指す言葉がないのには驚きました。

おそらく、インドではそのような行動があまりにたくさんあって、ありふれているという理由で、それをまとめて指す言葉がなかったのでしょう。授業では「儀礼」に相当する言葉はkarmaすなわち「行為」であると紹介しましたが、しきたりや作法を表す言葉としてはdharmaの方が適当かもしれません。この言葉も広い意味を持ち、仏教の教えのような「法」を指す場合にも用いられます(仏法という言葉もあります)。本来の意味は「秩序」に近く、社会や文化を維持する慣習やしきたりを指します。karmaと同様、dharmaもインドの人々にとって宗教的がいかに身近な存在であるかをよく示しています。

儀礼をどうとらえるかはすごくむずかしいと思いました。挨拶などもたしかに儀礼だと考えることができるけど、それと宗教的な儀礼とは形式化や習慣化という点では似ているかもしれないけれど、それ以外の点では実質も受ける印象もだいぶん違うので、儀礼の中でも分けて考えた方がいいように私は思いました。

人間の行動のうち、どの範囲までを儀礼と見なすか、儀礼はどのように分類できるかは、たしかに重要なことです。先回紹介した事典の記述などは、その一部です。ただ、この授業ではあまりそれにはとらわれないで、むしろ、インドの儀礼の多様性と、日本の儀礼との比較に焦点を当てたいと思います。

インドで「儀礼」を指す語について、「動詞から名詞が作られている」と強調しておっしゃっていましたが、日本語でも英語でも同じことが言えると思います。何かこの場合においてだけ特別であるというような意味を持っているのですか(うまく書けませんが・・・)。教えてください。

たしかに日本語でも英語でも同じようなことはあるでしょう。しかし、葬儀や法事、卒業式、結婚式、百万石祭り、ねぶた祭り、七五三などの名称は、かならずしも動詞から作られたとも言えないようです。インドの儀礼の名が動詞からというのは、その言語であるサンスクリットの特徴でもあります。多くのサンスクリットの名詞は動詞から作られているからです。言語体系の中心に動詞があるので、儀礼に限らず、名詞は動詞の派生語となります。むしろ強調したかったのは、儀礼全体を指す語が「行う」というきわめて一般的な動詞から作られたkarmaであることと、複合的な儀礼であっても、その中心的な行為の名称が、儀礼全体の総称にもなっていることです。後者については、授業の中であらためて取り上げます。

京極夏彦の小説『魍魎の匣』の中で、「オカルトサイエンスとは本来<隠された知識>と訳されるべきだ」というような内容が書かれていました。資料の中に出てきた儀礼においての「オカルト」とは、そういった「明かされないことで意味を持つ」ものですか。それとも現在流布された意味での「超自然的」というようなものですか。

どちらの意味でもとれるような気がします。「隠された知識」といった場合は、錬金術やカバラーのようなヨーロッパの神秘思想が意識されているのでしょうか。「超自然的」といった場合も、合理主義や科学的思考を超越したという感じがするので、別に間違ってはいないようです。呪術や占星術もオカルトだと思います。


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